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  【がんばれ】江古田計画を勝手に応援【学生】

181: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/24(水) 04:11
補足と提案

ハレとケ……民俗学の用語(だったと思う)で、「ハレ……非日常の時間と空間のこと」「ケ……日常の時間と空間のこと」をそれぞれ指す。
        非日常と言っても「非常識、非条理」という意味ではなくて、「ふだん誰もいない神社の境内が、お祭りのときだけ縁日でごった返す……などのような、日常的な空間・時間が、なんらかの事情や条件によって「祝祭空間」に変わった状態を指して言う。
        ハレは「晴れ」とも。ケは「穢」とも言われるが、そのへんはいろいろ。

江古田では、「学校に行く、仕事に行く、帰ってきて近所で飯を食う」ための日常生活のために機能しているときが「ケ」の状態。
アートマーケット、納涼会、お祭り、ゆうゆうロードのナイトバザールなど、「日常生活のための場が、非日常的な祝祭空間になること」をさしているのが「ハレ」の状態。

「まち」というのは、ハレとケの双方が定期的または不定期なサイクルを繰り返すことで成立しているもの。
江古田計画の「アートマーケット」を主軸に据えたアプローチは、「ハレ」へのアプローチのみで、「ケ」へのアプローチがない。
「まちづくり」でなく、「お祭りをひとつ増やしたい」のであれば、「ハレ」へのアプローチに徹することでも問題はないが、「ケ」へのアプローチも含んだ「まちづくり」を目指すなら、双方を考える必要があるのでは。

ハレとケの関係においては、ハレというのは「日常であるケ」に、節目を与えるために出現するものでもある。
かつての秋祭りが「収穫祭」であったように、花見が「春の訪れ」を楽しむものであるように、だ。
これを江古田計画の「まちづくり」に照らし合わせて考える場合、「ハレ」であるアートマーケットの意義を「節目」として生かすためには、「ケ」の活動が今以上に重要なのではないか。

極論すれば、祭りの場に御輿やお囃子があるように、「非日常生活にアートがある」のは当たり前。
アートを「まちづくり」の幹に据えるのであれば、「日常生活にもアートがある」という、ケの時間・空間へのアプローチを徹底した上で、その「節目」として、ハレの場として、アートマーケットを位置づけるように構成すべきなのではないか。

お祭りの日にだけ客が来て、その他は閑散としている街・江古田。これでは、「アートによるまちづくり」が効果を上げるとは思えない。
お祭りでも何でもない、ごくフツーの日にたまたま友達のアパートを訪ねてふらりとやってきた街、江古田。
ふと見ると、特別な日というわけでもないのに、街のあちこちでアートが目に付く。
なるほど、この町は「アートでまちづくりがされている」と言っても過言ではない。
そう言わせるものが必要なのでは。

シャッターペイントは、江古田計画とは無関係な日芸の学生による作品であって、江古田計画の手柄や指針に基づいたものではない。
江古田計画は、「真夜中以外にも見られる、シャッターペイント以外のアート」をもって、江古田の日常空間を埋め尽くすアイデアを期待したい。

182: 名前:guretu-an投稿日:2003/09/24(水) 13:00
ざーッと読んだだけの人間がいい加減に書き込む事への申し訳なさを感じつつも
口出ししてみたくなり、いい加減に書き込むのでいい加減に読んでいただきたい。
批判の方法、というか口調といえばよろしいのか、そちらの方もちと硬いかな、
とも思える。というのは批判である以上慎重を記して書き込まれているので
読んでいる当方にも緊張を強いられているような圧迫を感じてしまう。
果たして私自身が学生の自分に何事かをなそうとする時に、きちんと理詰めで
大人に対して十分に説得的でありえただろうかと思い出す。
それは私自身が他人よりより曖昧であったからかも知れないのだが、そして大人に
対して故のない恐れのようなものを抱いていたからかも知れないのだが、
ただただ無軌道に、いうなればやりたいようにしか物事は出来ぬものであり、
私の周辺の学生たちも概ねそのようなものであったように思い出す。
それでよかったというのではなく、そうでしか出来なかったのだ。
江古田計画に参画している人たちも或いは理念らしきものを持っている、あるいは
感じているのかも知れぬが、それはもっともらしく文章にまとめたところで
そこいらにありがちなチラシ的な奇麗事の文面にしかならず、所詮は失敗をもって
思い出と成す、というと大変失礼でもあるのだが、成功していただきたいのだが
というと何をもって成功というのかを指定しなければならないが、ま、曖昧に
自分たちと外の世界の人間とのコミュニケーションが十二分に取れた事を成功と
して考えてみて、すればイベント屋ではないのであるから、私は迷惑をかけぬ
程度ならやりたいようにやれ、とそう思っている。
完璧な企画書があれば成功するか、その可能性が高いか、そうとも私は思わない。
上記のようなチラシ的なものでしかありえぬと思われるからだ。
むしろやりたいようにやっていて、その行為の中から思いもかけぬ「あるもの」が
出てきたりするものだ。
とわざと反対の事、言ってみてみる。

183: 名前:guretu-an投稿日:2003/09/24(水) 13:16
つか、もっと狂えと。大人がもっともらしい意見をつきつけれない程の
迫力ある情念世界を路上に現出せしめろ。
どこにでもあるようなありがちのものを目指した所でなんになる。
何物をも引きずりこまずにおれないような、熱くてやけどをしそうに
なるよな、若さが世界に対峙出来るのはまさにそういう、血がたぎる
ようなものだけだろ。
何故、全裸で江古田銀座を奇声を上げて走り抜けるような、
そういう馬鹿が出ない。捕まってもおりゃ知らんが。

184: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/24(水) 15:57
>>182
ざーっと読んだだけでもご意見は大歓迎です。
口調の硬さは、「相手の読解力がわからないから、万全を期す」というものです。
口調を別にくだいた調子のものにしてもらっても全然かまいませんし、それで必要な用件が伝わるなら口調はなんでもよいと思いますよ。万全を期すと本当に実用的な言葉だけが踊るようになるので、自然、固く聞こえてしまうかもしれませんが。

さて、「学生に理詰めの説明は無理」というのは僕にも経験がありますのでわかります。
僕も当時はどうだったかと言えば、おぼつかない説明しかできずよく先輩や教官に怒られていたものです。が、怒られること揉まれることで、言葉の選び方を学ぶ機会にもなりました。「うまくできないからそのままでいい」のではなく、「うまくできないことを怒られて気づかされる、工夫を強いられる」ことが、結果的に交渉力の鍛錬になっていることは紛れもない事実でして。

ここで確認をしておきたいのですが、江古田計画は「学生主体のサークル(のようなもの)」ではありますが、その活動対象、活動場所は「学生相手」「大学内」ではありません。もし「学生相手に限定され、場所も大学内のどこかで」行われるものであるなら、guretu-anさんの仰るように、やりたいようにやればよい、という意見には大賛成です。
ただ、江古田計画の場合「学生主体のサークル(構成員が学生である)」ということ以外の活動対象、活動場所は、大学に限っていません。
と言いますか、「活動場所」を【江古田という街】にしてしまった時点で、「そこに集う学生向け」だけではなく、「その街に住んでいる全ての人」が、多かれ少なかれ巻き込まれることになるわけです。
そうなると、「学生だから多少は大目に見る」というみそっかす扱いは、いつまでもは許されないことになります。
何しろ、世代交代をしているとはいえ江古田計画はもう3年目ですからね。初代からのノウハウの蓄積が伝わっていないのだとすれば、継続的な企画としては無意味ですし、伝わっているのならば、いつまでも大目に見てもらうわけにはいかないでしょう。
ましてや、NPO法人格への昇格を目指すならなおのことです。

185: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/24(水) 15:57
ともあれ、「コミュニティづくり(=まちづくりとはそういうことです)」を目指す集団が、コミュニケーション能力に乏しいのは非常に問題があると言えます。
美辞麗句の踊る企画書を書け、と言っているわけではないんです。「とても」「すごい」「初めての」「ミステリアスな」「迫力ある」「アートの」「血がたぎる」といった抽象的な表現を盛り込んだ企画書は確かにチラシのように薄っぺらいでしょう。そうした抽象的表現を盛り込んだ、美辞麗句の文章を作れと言われたら、たぶんオトナのほうが経験を積んだだけウワテでしょう(笑)
ですが、求められているのは「説明したいものの度合い(=修飾具合)」ではなく、「説明したいものの要素」です。となると、それらの説明は、美辞麗句のボキャブラリではなく、構成要素の箇条書きで説明されるべきものかと思います。
箇条書きという方法は、確か小学校低学年で習うものと記憶しています(僕の頃はそうでした)。長文の要素を書き出し、人に説明をするためのもっとも基本的な方法であり、同時にもっとも効果的な方法でもあります。
過去にも何度か「箇条書きでお願いします」とお願いし、実際に箇条書きで回答をいただいたこともありました(それでも不十分なことは、また伺うしかないわけですが)

芸術は情念で行うべきものですが、制作進行はメモと時計とスケジュール表で行うものです。江古田計画が表現したいものを表現するためには、江古田計画自身は情念の中ではなく情念の外に身を置いて、冷静かつ的確な作業と能力を求められると思います。
「アートマーケットだから、情念の赴くままにやればいい」という言葉は、ブース参加者はともかく主催者に餞として用いるにはどうかと思います。

186: 名前:cat投稿日:2003/09/25(木) 12:00

>>178
フォロー、ありがとうございます。

187: 名前:こばやし投稿日:2003/09/25(木) 21:55
問いかけに対する反応がないっすね。
ま、これだけの書き込みを前にすれば、気後れもするでしょうけど。
てか、放置プレイなん!?

188: 名前:cat投稿日:2003/09/26(金) 18:42

>>187

また、ちょっと話をずらします。

このスレには、ふたつの目的があったはずです。
ひとつは、江古田計画さんが情報開示することで、多くの人に「計画」を理解してもらうこと。もうひとつは、「計画」をよりよいものにするために、意見交換を行うこと。

ところが、ここへきて、(いわゆる)オトナ側の書き込みについて、「大人げない・アゲアシをとるばかり」という受けとめ方をする方がでてきた。そして、同様の感想をお持ちの方は、当該の書き込みをなさった方以外にもいらっしゃるはずです。

ただ、そのときに、スレの目的を忘れて「オトナ」非難の1行RESに終わってしまっては、なんにもならない。...んですが、その話はおいといて。

で、放置プレイです。( ← しかし、こんなことばが一般化するのも...。)

「オトナ」側の態度や表現に対する非難以外に意見が出ず、このスレがそういう状態になっているということには、3つのことが推測されます。

01 少なくとも内容面については、「オトナ」側の指摘に皆さん納得されている。(っていうか、AZUKIさんがぜ〜んぶ言っちゃったので、つけ加えることがない。)

02 (非難ではなく)提案や意見はあるのだが、AZUKIさんのように書けないので躊躇している。(加えて、反論が帰ってきたらコワイあるいは再反論が面倒くさい。)

03 多くの人にとって、積極的に意見を出すほど江古田計画には興味も期待もない。(> <)

02については、みんながAZUKIさんのように書けるはずもなく書く必要もないので、気にしないで書きましょうヨということで。

けれど、01あるいは03だったら?

なんにせよ、「ゆっくり・まったり・ひっそり(?)」と、意見交換・相互批判が続けられるといいですね。

189: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/26(金) 19:49
AZUKIの名前では書いていますが、僕の意見だって別に「地域の総意」じゃなくて、「地域の個人の一意見」ですからね(^^;)
同意や賛同をいただければありがたいですが、違う見方をしている方もいるでしょう。

「AZUKIが自分のサイトの自分の掲示板で何か言ったからこれでもう結論が出ている」
というような感じでも困るかなとも思いますが(^^;)
ともあれ、アートマーケット第7回も終わったところで(そして、おそらくもう2003年中には次の開催はないんじゃないですか?)、ほっとしているだろうところに追い打ちを掛けるようで申し訳ない気持ちで一杯なんですが……。

190: 名前:guretu-an投稿日:2003/09/26(金) 23:20
私は力もない癖に、またその自覚もなく努力をせず、しかしそれでも
大した自信過剰で傍若無人ですらある多くの若者が嫌いであります。
ありますが、彼らにタガをかけようとする事はよしとしません。
ここでは若者に、自分たち大人の、「ある規格」大人が納得出来る
「規格」を激しく求めているように思われて先のような書き込みを
したのでした。
言葉にしてしまう、という事でありきたりになってしまう事もある、
そう思う。言葉に出来ないとてつもない事こそが祭りの熱に浮かされた
ような何物かではないかとも思う。言葉にしようとする努力は努力として
認めなければならないが、言葉にしたおかげでその言葉に沿った行為を
成そうとしてとてつもない異次元の事がとても陳腐な行為になったりもする
そう思ってます。

191: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/26(金) 23:32
>>190
祭りですることは、「祭りの時間」の中ではそうすべきでしょう。
熱に浮かされたような何者かというのは、それは祭りの中、いわば「ハレ=祝祭の時間、空間」では大いにそうすべきだと思います。

でも、例えば神社の奉納祭を仕切る人たちは、「御輿を担いでいる最中」は熱に浮かされたように張り切ってはいるけど、「御輿の通るルートに車が入らないように迂回路を造る」であるとか、「ポスターや張り紙をする」であるとか、「御輿の維持にかかる費用の寄付を求めて歩き、その会計報告をする」ということをするときにまで、熱に浮かされてはいないでしょう?

「規格」を求めているというより、「熱に浮かされていい気持ちになっている」だけでは具体的にできないこともあるよ、ということを彼らに自覚して貰いたいと思うわけです。
彼らがしようとしているのは、学内で処理される学祭の模擬店ではありません。
「勢い」や「情熱」だけで暴走することが容易に許されるほど、江古田計画と「地元(という複合体)」は慣熟した関係にはなっていないと思います。

192: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/26(金) 23:43
この「地元」というのが、一種くせ者だと思っています。

江古田という町、江古田を「地元」と呼ぶ人には、いくつかの集団、組織、立場があると思われます。

A)江古田に商店を構え、地元に根付いて商売をしている
B)江古田生まれ江古田育ち江古田在住
C)江古田に嫁いできて江古田に住んでいる
D)江古田外で生まれ育ち、今は江古田に住んでいる
E)学生

AとB、Cは多少かぶってるかもしれませんね。
DとEも。

Aは「商店街」や「町会」という組織に属しているかもしれません。江古田計画が「地元」と考え、交渉の窓口にしているのも(A)では?

でも、「街を構成する人数」の多数を占めているのは、B、C、そしてDじゃないでしょうか。
学生の街ですから、当然Eは他の(例えば隣の東長崎と比べても)少なくないとは思います。
ただ、「卒業しても江古田から出ていかないOB」が多いのも江古田の特色の一つだそうでして(地元の不動産屋さんから伺ったお話)。
Bは「町内会」「町会」に属しているかもしれないけど、アパート住まい、マンション住まいのD、Cの多くはそうしたコミュニティに所属しない多数派です。

江古田計画は、「AとEを見てはいる」が、「BCD(特にCD)」をあまり見ていないようにも思えます。
まあ、交渉窓口がないわけですからしょうがないかもしれませんが……

ただ、アートマーケットを見て思ったこととして、「街を舞台に客を呼ぶ」と考えているなら(街の活性化を訴えてAの協力を得ているのだとしたら、それはやはり「客を呼ぶ」または「CDを客にする」を約束しているものだと読めますね)、もっとCDを意識すべきなのでは?
「さあ、見ろ!」「さあ、来い!」だけではダメなのでは。
そんなふうに思った次第です。

193: 名前:bow投稿日:2003/09/27(土) 01:05
大人は若者にタガをかけようとする努力を怠ってはならないと思う。
1行RESにて失礼。

194: 名前:名無しのエコダニアン投稿日:2003/09/27(土) 02:06
>>193
それはそれで必要なのかも。

195: 名前:cat投稿日:2003/09/27(土) 02:10
> guretu-an さん

AZUKIさんの書き込みに屋上屋を重ねる感もありますが...。

> ここでは若者に、自分たち大人の、「ある規格」大人が納得出来る
> 「規格」を激しく求めているように思われて先のような書き込みを

このスレは、「意気軒昂な若者とすれっからしのオトナ」の対立という構図で見られがちなところがありますが、実体はそうではないと思うのです。

たしかに、書き込む人間の「年齢層や職業」と書き込みの「内容」を照らしあわせるならば、「学生vsオトナ」と表現して間違いはないでしょう。

けれど、「江古田計画」さんは、「町づくり」という公共性・社会性の高い事業を活動目的とし、行政や地元商店会(=大人社会)とパートナーシップをむすび、そこから運営資金や人的資源などを引き出そうとしているわけです。

いいかえれば、あるプロジェクトを立案し、その実行のために外部から出資者を募っていこうとしているのですから、学生が運営主体であるけれど、これは形態としてビジネスです。

すなわち、「江古田計画」さん自体が、「オトナの規格」にそって活動していこうとしているわけです。(NPO化の話は、その端的なあらわれだといってよいでしょう。)

ここでのやりとりの論点のひとつが、いわゆる「オトナの規格」に達しているか否かになるのは、そういう事情・背景からであり、「オトナが学生を(無理やり)枠にはめよう」としているわけではないと理解していただく方がよろしいかと存じます。

理想をいうなら、上記のような部分をクリアしつつ、「『学生らしい情熱や発想』を活かす・訴求点として有効に機能させる」ための方法を論じていきたいところです。

>bow さん

そうですね。わたしも、まず「かたち」を作る/確立するところから始めないと、成長はないと考えています。(この辺、guretu-anさんは、また、違ったご意見だと思いますが。)

で、わたしが言及したのは「目的を忘れた/ズレた」(=非生産的な)ものについてですので、その辺ヨロシクです。(^_^; > 1行RESにて失礼。

196: 名前:""g""u""r""e""t""u""-""a""n""投稿日:2003/09/27(土) 12:17
みなさんのおっしゃる事は正当でよく分かる。分かるんですが

197: 名前:guretu-an投稿日:2003/09/27(土) 12:20
失礼しました。
分かるんですが、勝手に私が江古田計画に成り代わって必死に
反駁するそのありようというのは(笑)
また後で。

198: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/27(土) 23:57
>>197
もっと当事者の声を聞きたいところではありますよね(^^;)

199: 名前:guretu-an投稿日:2003/09/28(日) 15:09
通常祭りに意味づけが成されているかと言うと、神や人間への賛歌そのもの
であり、解放であり、この祭りはこういう意味で執り行われている、という
ようには規定はされずに行われているものだろう。
意味づけというのはほとんど後付けのようなもので、最初に意味づけが
なされるのはむしろその祭りに限界を与えるものではないかと考える。
無論プログラミングなどについては緻密に考えられる必要があるであろうが、
最も必要であるものは祝祭への渇望を喚起させる日常の何らかの
下ごしらえというものであろうと思われる。
管理人が先のレスで言っていたように、日常の地域との関わりが恐らくは
最も重要なものであり、例えば「江古田計画」と書いたのぼりでもはためか
せて一日一回は江古田銀座を無意味に往復するとか、そういう馬鹿げた
ことでもよいが、日々高揚感を煽る何らかの行為が大切なのだと思う。
ハレとケでしたっけ、昔はその仕切りがきっちりあった訳でハレの日への
高揚感は嫌が上にでも盛り上がったのだろうが、現在社会では日常の
中にハレもケも混在しており、難しいだろうとは思う。

200: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/28(日) 18:31
周期は短く(または不定期)になってはいますが、今もハレとケは分かれてると思いますよ。
江古田の場合、「通学、通勤の出発点」と「到着点」が混在しているため、個人が感じる「日常と非日常」を街と必ずしも共有できていません。
(個人的には今日はお休みでハレの日だけど、街としては別に個人とは関わりなくいつものケの日、とか)

元々「地域のまつり」というのは、地域が同一の集団行動を取っている(やすみも仕事も概ね同じ、農業)という前提からなり立っていたものと思います。
これが時代が下って、「普段は別々のことをしているけど、祭りでは一致した目的のために同じ行動を取りましょう」に替わった。
元々信仰の対象であった「神様、神社」という場所が祭りの場としてしばしば使われるのは、「一致した目的のために、同じ行動を取るための【場】」として適していたからでもあるでしょう。

現代において、「まつり」というのは(地域の納涼祭などがそうであるように)、信仰は特に伴わなくなってきています。
これは、信仰の多様化、信仰そのものの衰退もあるでしょうけれども、「一致した目的」「同一の行動」「場の共有」のためのスローガンとして、「信仰」は十分な力を発揮しなくなっているということの現れかとも思います。
ですから、「地域振興」や「コミュニティの促進」という(そもそもの目的)が、そのまま「まちづくり」または「まつり」というものの目的に据えられるようになっているのだと思われます。

guretu-anさんの仰るのは、「目的を定めずに何かをすることで、そこから何か新しいものが生まれるのではないか」ということかと理解しています。
もちろん、「本来の目的とは違った盛り上がりや結果を出すこと」も起こりうるでしょうし、そういうことも歓迎すべきコトなのかもしれません。
ただ、その場合でも「何かが出てくることを期待する」という目的を持つことに変わりはありません。

201: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/28(日) 18:41
続きです。

あ、ちなみに「江古田!町内会/飲み食いランキング2/この掲示板そのものの維持管理」に関わること以外での発言については、【管理人】ではなく一個人の【AZUKI】によるものとご了解いただけると嬉しいかな、と。
江古田計画に対するコメントは、「管理人としての発言」ではないですから(^^;)

さて、ここで(といっても返答は期待していませんが)江古田計画の「趣旨」を改めて見つめ直してみたいと思います。
これまでに江古田計画の趣旨として伺ってきたものは、

A・江古田で楽しみたい(江古田を遊び場にしたい)
B・江古田を芸術で盛りあげたい
C・学生による(芸術による)まちづくり(地域振興)
D・江古田計画をNPO法人にしたい

であったと理解しています。
これらそれぞれには、すでに多くの方々からコメントが付いていますので、僕から繰り返すことは特にしません。
で、常々疑問に思っていることは、「それは、【誰】のための試みなのか?」です。

もともとAは教養課程を終えて江古田にきた3年生の方々が思いついた学生らしい遊び心だったのだろうと思います。それは別に反対しません。
Bは「芸術系大学(武蔵大以外)の特色を出そう」という意図からでしょう。
Cは、A/Bを実現するために地域の協力を得るための後付けの要素ではないですか?
DはA〜C(特にC)を容易に遂行する権限を得るための後付けの要素ではないですか?
そして、C/Dは「芸術性」ではなく「市民運動的な実務性」を考慮したもので、武蔵大の影響力が増えてから浮かび上がってきた要素ではないかと思うのですがいかがでしょう?

Aだけだったら、学生のお遊びということで特にコメントも批判も不要であったろうと思います。
Bも結構な話です。
CとDが入ってくると、情熱や高揚感などの抽象的な問題だけでは済まなくなってきます。
このスレのオトナども(^^;)が【心配】をしているのは、このCDの要素についてかと思います。

202: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/28(日) 18:50
続き。
江古田計画が「学生のためだけではない」を公言するのだったら、「地域とどのような繋がり方をしていくか」は考えないわけにはいかないと思います。
が、今のところ「商店街と協力する」で止まっていますね。もちろん、それも大切なことだと思いますけど、そこで止まってていいわけ? とも思うわけです。

「地域との日常の繋がり」についてですが、幟をはためかせて商店街を往復するのは「認知度を上げる」ことには繋がるかも知れませんが、「評価を伴わせる」ことには繋がらないのでは(^^;)
これは、江古田計画の初期のCI計画についても思ったことなんですが、「江古田計画という名前と存在が認知されるのが先行」というのは、明確に【間違い】だと思いますよ。

評価というのは、名前に対して行われるものではあるかもしれませんが、その根拠になるのは「その名前を関した活動内容」に対してでしょう?
「○○○という目的を持ち、○○○という実績を上げている」→「それが【江古田計画】である」
となるべきところが、
「江古田計画を知ってください!」→「へー、で江古田計画ってなに?」→「こういうことをしようと思っています」
という順番になってしまっていませんか、と。

行動ありきであるのはもちろんですが、「名前の宣伝」や「手段と権限の獲得」ばかりが先行して、「何をしたいのか分からない」「これでは協力もできない」というのが、「江古田計画に興味を持つオトナ」の意見。
ちなみに、興味を持たないオトナの意見は「またなんかやってるな」か「なにそれ?ふーん」で終わり、といったところでしょう。

繰り返しになりますが、guretu-anさんや江古田計画の学生さんたちが訴えている内容は、「祭りの当日」には必要かつ重要なことだろうと思います。
が、「ケ=日常」、「祭りの前日まで」、「祭りの翌日から」に必要なのは別のことなのでは、と。
そういう部分が「不明確」なことが、批判の対象(非難ではありません)になっているのではないかと思われます。

203: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/28(日) 19:01
僕や、僕以外にも江古田系HP/掲示板を主催している方々は数多くいらっしゃると思います。
これら、ネット上の活動は結局は「ネットの中だけのこと」に帰結してしまうという問題点を抱えては居ますが、「地域に住んでいるのに、その地域に対して接点がなく、分断・孤立した状態に置かれている個人」に対して「地域」を軸とした「日常的に継続できるコミュニティ」を提供することを、少なからず目的にしてはいます。

ただこれには、「パソコンを使える」「このサイトを知っている」「書き込みをしているか、ROM(読むのみ)している」という条件が伴ってきます。
その意味では、パソコンを使っていない、このサイトを知らない方々はコミュニティから必然的にこぼれ落ちていきます。

僕が江古田計画に期待しているのは、そうした「コミュニティ」作りについて、どのように考えているか、というこの一点につきます。
もし、コミュニティを考慮しない(江古田計画が単独で開催し、客とのコミュニケーションも考慮しない展覧会)のなら、「好きにやれば?」で終わります。それは趣味の問題ですから。

ただ、芸術というものは「作る側」だけでは完結せず「見る側」による意味づけ(その多様化や共有)があって初めて「成立」するものですよね。
それと同様に「参加者を募って盛りあげるイベント」であるアートマーケットなどの江古田計画が目指しているイベントは、「参加者(出典者/購入者/地域)とのコミュニケーション」が計られて初めて意味を持つ性格のものなのではないでしょうか?
いきなり100%をヤレとは言いませんし、そんなことは無理です。
ですが、「コミュニティ」を考慮するイベントとして育てていかないのであるなら、「江古田計画」が「江古田」を冠することには何の意味があるのでしょうか? という疑問にも繋がっていきます。

江古田計画が、「まちづくり」を掲げるならなおのこと「分断し、コミュニティから孤立している人々」を束ね合わせるものに育って欲しいと思います。
本来、「地域」が行うべきことなのでしょうけれども、高齢化や「多様化」がそれを阻んでいます。
学生という、フットワークの軽さ、責任の(オトナに比べれば(笑))軽さ、「善い意味での」無謀さが、自己満足に終わらないよう、期待を寄せています。

そのことが、多くの「批判(非難ではなく)」に繋がっているのだとご理解いただければと思います。

204: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/28(日) 19:07
ちなみに。

「コミュニティが作られること」については、どんどん進めるべきと思います。
アートマーケットによって、新たなコミュニティが生まれ増えていくことは大いに歓迎すべきことでしょう。

ただ、「たまにあるコミュニティ」ではなく、ある程度「継続され、日常化するコミュニティ」が、より必要なのでは、とも思います。
いつも難しい話をしていなくてもいいわけで、雑談から始まるコミュニティもあっていいと思うわけです。

その意味で、「日常的に顔を合わせることは難しいけど、ネットでなら」であったり、「○○○という店にいくと彼らのたまり場になっているらしいので、そこに行ってみる」であるなり、そういうことから始めるのもいいのかな、とも。

205: 名前:こばやし投稿日:2003/09/28(日) 19:41
>>199
>意味づけというのはほとんど後付けのようなもので、最初に意味づけが
>なされるのはむしろその祭りに限界を与えるものではないかと考える。

上記の考え方だと、「意味づけ」とは「まちづくり」になりますよね?
あくまでも「アートマーケット」は手段であって、目的は「まちづくり」ですよね?
となると、はじめから「アートマーケット」に限界があるとの主張ですか?
・・・と言う訳でもないですよね?
ワタクシとしては、「オトナ」の主張は「意味づけ」を要求している訳でないと思います。
むしろ、「アートマーケット」の「まちづくり」ににおける限界について、
この場を通じて問い掛けているのではないでしょうか?
と言うか、ワタクシはそのつもりですけど。


>祝祭への渇望を喚起させる日常の何らかの下ごしらえ
>日々高揚感を煽る何らかの行為

この2つは、矛盾しているのではないでしょうか?
少なくとも、「渇望を喚起」が「高揚感を煽る」にはならないと思います。

てか、AZUKIさんの書き込みとワタクシの主張がかぶってると思いますので、
ワタクシの書き込みは飛ばして頂いても構いません(苦笑)


江古田計画の皆さんは、「まちづくり」・「コミュニティーづくり」を志向されているにもかかわらず、
「顔の見えない集団だな〜」と素朴に思い続けていたりします。

206: 名前:guretu−an投稿日:2003/09/29(月) 21:11
>江古田計画が「学生のためだけではない」を公言するのだったら、
「地域とどのような繋がり方をしていくか」は考えないわけには
いかないと思います。(これで色変わるの?)

それは当然そうです。ただ、ひとつの方法としてとりあえず
何かの行為を起こす。「例えば」のぼりはあくまで「例え」ですので、
江古田計画が出来る何らかの事、それはつまり当初より
何か意味のある事でもなくても注意喚起をする何事かで
あるだけの事柄でもよいのではないかという程度です。
それは祭りが熱を帯びた強いものであるとするならば
それの下地としての日常での微熱の醸成の如き何事か。
むしろ、「江古田計画は毎日何々しろ」という提案のスレの
方が江古田計画の理念などを問いただすよりも有効であるやも
知れぬという思いで書いたものです。
馬鹿馬鹿しい提案の中に使えるものなども出てくるかも
知れません。勿論彼らが取り入れればですけど。

>上記の考え方だと、「意味づけ」とは「まちづくり」になりますよね

まちづくりというと大げさで町にあるショックを与えるくらいの
ものではないでしょうか?
祭りは結果としてまちづくりに発展していくものかも知れませんが
元々もっと刹那的で、であるからこそその刹那性にここの大人たちが
危ぶみや不平を抱いているのでしょう。

207: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/29(月) 21:27
>>206
「まちづくり」は、もともと江古田計画のほうから出てきた発案です。
以下、引用。

引用開始------ http://ekodakeikaku.com/101.html [source] [check]
>(前略)
>江古田の街を活性化させる事を目的に、商店会と協力して活動しています。
>この「活性化」というのは、住民・学生が江古田の街で楽しむことができて、
>江古田に住んでいない人が江古田に遊びに来るような、
>そして3大学の学生も江古田に興味をもつようになる。
>そのような動きをつくることだと考えています。
>(中略)
>私達は、学生によるまちづくりに魅力を感じて活動しています。
>商店会、大学、住民が一緒になって江古田で楽しむことが出来る街
>にしていくように、努力致します。
------------------------------------引用ここまで。

このスレは、主に「住民」と「住民で商店」の「オトナ」の書き込みが多く、学生さんの書き込みはあまり拝見することがありません(拒否しているわけではありません(^^;))。
ただ、「住民のオトナ」としては、「住民が置き去りになっている」観が強いことが、【不審】に繋がっているのではないかと思います。
一般の住民には、商店会のような「情報伝達機構(コミュニティ)」がありませんからね。
おもしろそうだと思っても、「終わった後だった」「関わるチャンスはなかった」「次は半年後だった」というケースは、少なからずあるのでは。

また、活動が「江古田の街」にどの程度フィードバックしているのかが、不明な点も【不審】に繋がっているのでは、と思います。

208: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/29(月) 21:37
実際問題、「学生」は、大学という組織の中でのコミュニティを持っています。
例えば、効果のほどはともかくとしても、「校門前の掲示板」にメッセージを貼ることも、
学内(やはり校門付近など)で呼びかけのチラシを撒くことにも効果はあるでしょう。
学生という同一性の高い層が、大学という校舎の中に詰まってるわけですから。

また、各商店主に対するアプローチも「商店会に働きかける」ということで、解決可能でしょう。
商会に参加している店ばかりではないでしょうが(基本的には参加しているのでしょうが)、組織化されている集団のトップに働きかけることで、「現場回り」を省力化して情報伝達は可能でしょう。

問題は、「住民」です。
・チラシを撒けば効果が上がるのでしょうか。
・理解を普及するためには何をしたらいいでしょうか。

情熱は必要ですが、情熱だけでは【ダメ】だと思います。
住民は、「組織・集団」として存在しているわけではなく、それぞれが分散孤立して存在しています。
学生・商会と違って、必ずしも連携がなされているわけではありません。
学生・商会とのやり方だけで、「住民」もすべて巻き込めるとは思えません。

で、そのための方法を突き詰めていく必要は絶対に欠かせないでしょう。
それをするのには情熱も必要かもしれませんが、情熱だけでは【ダメ】です。
それを具体化する実務をする人間は、冷静さとシステマチックさも求められるでしょう。

江古田計画にはおそらく情熱はあるのだと思います。また、情熱というのは外から「情熱を持て」と言われて持てるものでもないと思いますし。
ただ、その情熱に方向を与え、制御していく術が伴わなければ、情熱もまた空回りでしかありません。
その点について、僕は「住民の一人」として意見を述べ、住民に向けた回答を期待しつづけているのです。

209: 名前:AZUKI投稿日:2003/09/29(月) 21:41
それと、僕は学生さんの企画の「刹那性」に対しては、特に不審は持っていません。
「学生のすることはそんなもんだろう」というのが、まず自身の経験に照らし合わせても共通の見解ではないかと思われます。

ただ、江古田計画は3年続いている集団です。
3年続けていて刹那的ではまずかろうと思います。
また、彼らの失敗が致命的であった場合、同様の企画を考えついた後発の学生さんにとって、江古田計画の失敗が大きな障害になります。
そうならないよう、学生発の企画がどんどん受け容れられていく、その最初の土壌を作るという意味においても、江古田計画には頑張っていただきたいと思っています。

江古田計画をNPO法人に、というのも(再三、手段と目的が入れ替わっていると批判してきましたが)熱意と夢の現れだろうと思っています。
ただ、それについても、そこまで考えているならなおのこと「フットワークが軽いうち」「火傷も小さいうち」に、熱い思いを実感しておくべきではと思うわけです。

210: 名前:こばやし投稿日:2003/09/29(月) 23:21
>>206
>まちづくりというと大げさで町にあるショックを与えるくらいの
>ものではないでしょうか?

これは、違うと思います。
ワタクシは、地味で目立たない事の積み重ねが「まちづくり」の根本と思います。


>祭りは結果としてまちづくりに発展していくものかも知れませんが
>元々もっと刹那的で、であるからこそその刹那性にここの大人たちが
>危ぶみや不平を抱いているのでしょう。

結果として「まちづくり」に発展するかも知れないってところが問題では?
「まちづくり」と言うよりも、「アートマーケット」を目当てにする人々が集まり、
「江古田じゃあ手狭だから、お台場あたりに開催地を移そうか」となる可能性もあります。
まぁ、これは極論なんですけれどもね。
刹那性も、それ自体が問題なのではなく、
刹那性だけでは「まちづくり」は出来ないし、「それ以外のアプローチなないの?」
と言う立場で問い掛けていると言う感じなのです。
もうひとつ、「祭り」と「アートマーケット」を同一視出来ないのではと言う点があります。
「祭り」の担い手は、地域コミュニティーの成員。
「地縁・血縁」で地域との結びつきのある、顔の見える人々でしょう?
じゃあ、顔の見えない江古田計画の皆さんが「アートマーケット」を行う蓋然性はどこ?
地域コミュニティーへの接点・働きかけが曖昧な(と言うか、ほとんどない)まま、
「アートマーケット」と言う「祭り」の様な催しを行っても、
広範にわたる支持は得られないでしょうよって話です。


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