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Act1-7;スマイル\0、恋\4680也

 

 高梨稟がゼロワンSTAFFを訪れたのは8月16日の午後の事だった。
 最初は探偵を雇う事を考えていた。だが、群島には三百人の探偵がいる……と友人が噂していたのを聞いた事はあっても、稟には探偵の知り合いはいなかった。
 ひょっとするとマンションの隣人や彼女が時折立ち寄るSNSや『味の屋』の常連客の中にはそういう職業を持った者がいるのかも知れない。だが、レストランのシェフが外出するときにあの『コックさんの帽子』をかぶっていないのと同じように、探偵も『私は探偵です』と名札をつけてはいないのだ。
 群島プロムナードの電話番号照会を調べれば、事務所を構える探偵のひとりやふたり、見つけだす事はできる。だが、探偵という職業に稟が抱くある種の胡散臭さのようなものが、電話番号照会だけで知った事務所を訪ねる事を何となく敬遠させていた。
 そんなとき、群島プロムナードの伝言板から稟が見つけ出したのが、『佐々木義一を社長さんにしちゃおう作戦(「お家安泰・スパイは賃貸」参照(^^;))』のあと中川の出した求人広告だった。
 企業内スパイ……というセンスのかけらもないネーミングは、気弱な稟でなくとも警戒心を抱かずにはいられない、このうえもなく胡散臭いものだったが、それがオフィスコンパニオンを取り扱う人材派遣会社の広告なのだと言うことが、
「ここなら探偵事務所よりは訪ねやすいかもしれない」
 ……と、かろうじて思えるだけの安心感を与えていた。


「あの……社長の中川さんでいらっしゃいますか?」
 玄関の扉が開き、アーマスと面と向かった瞬間に稟の放ったその言葉に、アーマスは思わず絶句した。
(俺が、日本人に見えるか……?)
「あ、えーと、俺はアーマス・グレブリーって言います。今うちの社長、長期旅行中なんで……まあ、代理っていうか……」
「……失礼いたしましたわ。そうですわよね、どっからどう見ても外国人だわ(^^;)」
「ご用件は?」
「あの……募集広告を見て来たんです」
「オフィコン志望の方ですか? −−どうぞ、お入り下さい」
 アーマスはそう言って稟を部屋に通し、幸子に教わった通り日本茶を入れ、和菓子を勧める。
「あ、お構いなく……」
「オフィコンの仕事についてはご存知ですか? あ……その前に失礼ですが年齢はお幾つですか?」
「……は? 28歳になりますが……」
「28?」
 アーマスは再び言葉を失った。
(……18、9かと思った(^^;))
 ただでさえ、日本人は若く見える。その上稟はふわふわと頼りない感じがするので、さらに若く……いや、幼く見えるのだ。
「あの、なにか……?」
「いえ……。これまでにオフィコンの仕事の経験は?」
「いえ、あの、違うんです」
「ああ、大丈夫。経験のない人も募集の対象だから……。仕事は簡単だし、すぐに覚えられ……」
「いいえ、そうじゃなくて……。私、まぐまぐバーガーの縁島洋上高校前店の店長なんです」
「……は?」
 アーマスは目が点になった。
 とても、店長なんかやるような、キャリアウーマンには見えないのである。女子大生が背伸びをしてOLファッションに身を包んでいる……とでも言ったらぴったりきそうな外見の稟をもう一度まじまじと見て、
(……嘘だろ(^^;)?)
 と思わずにはいられなかった。
「えーと、サイドビジネスとしてオフィコンを?」
「あの……オフィコンの面接に来た訳では……」
「あ、そうだったんですか」
「ええ……」
 そう言って、稟は湯気を上げている茶碗に手を伸ばした。熱すぎるお茶を一口、二口すすって、気を取り直そうとため息をもらす。
「あの、それで……どういうご用件でしょう?」
「私、こちらでスパイを派遣して下さると聞いてお訪ねしたんです」
「スパイって……企業内スパイ?」
 アーマスは困惑した表情を浮かべた。
 今、このゼロワンSTAFFにスパイをできる人材はアーマスひとりしかいない。他は全部、お茶汲み要員のオフィコンばかりなのだ。
 そして、スパイ派遣の要請は、毎日のように飛び込んで来ている。その大半は、興味本意の冷やかしと、
「いやー、わしは実はスパイと言うのに憧れておってな。ぜひわが社にも企業スパイを置きたいと……そんな風に考えておるんじゃよ。仕事の当ては特にないんだがね、まあ、おいおい見つかると思うし……どうだろうね」
 ……というすかぽんな依頼ばかりだったが、たまにまともにスパイを切望している企業からの電話がないわけでもない。そのほとんどは社内不倫の調査と、人事やボーナスの査定の為の資料作りという内容だった。そうした仕事に……アーマスはエジプトから帰って以来、ひとりで飛び回っているのだ。(アーマスが帰ってくるまでは、飛び回っていたのは主に中川だった)
 『佐々木義一を社長さんにしちゃおう作戦』の頃には、アーマスの他にもうひとり、日下部真奈美という女の子がスパイとして登録されていたのだが、女たらしの中川に目をつけられ16歳の若さでさっさと結婚してしまった。
 中川が長期旅行中なのは……つまり、真奈美との新婚旅行に出かけているからなのだ。
「……分かりました。で、どういう調査をご希望でしょう? アルバイトの素行調査か、それとも……」
「実は、うちの店で、麻薬の取り引きが行われているみたいなんです」
「……麻薬って、ドラッグ?」
「ええ」
「……(^^;)」
 にわかには、信じ難い話である。
 確かに日本でも麻薬汚染は着実に広まっているのだと言う。だが麻薬の売人と、まぐまぐバーガーのイメージと、目の前にいる頼りなさそうな女との間に、接点を見つけるのは難しかった。
「“恋をするには絶好の日和ですね”っていうのが、合い言葉らしいんです。アルバイトの娘たちがお客様から五千円札を預かるのを幾度か見かけたんですけど……売上の集計をしても、五千円札はほとんどないんです。お釣りとして使ってしまったにしては、一万円札もそれほどないみたいだし……」
 稟は、あの暴風雨の中で店を訪れた少女の事をアーマスに話した。それから、雨が収まってから訪れたもうひとりの少女も同じように合い言葉であるらしい“恋をするには……”という言葉を呟き、その時アルバイトがハンバーガーの袋の中に、サクマドロップスの缶を入れたのを目撃した事を告げた。
「……サクマドロップス?」
 アーマスはのろのろとしゃべる稟の言葉を中断させて、言葉を挟んだ。
 現在では、サクマドロップスはあまりポピュラーな菓子とは言えないものだった。アメリカから来たばかりで、また菓子愛好家でもないアーマスがその存在を知らないのは無理もない事だった。
 稟はサクマドロップスの缶についての説明を十五分くらいかけて行い、さらに話は多少戻って、時折脱線し、混線し、振り出しに戻りながら一時間以上も続いた。
 その話を、アーマスは苦痛に感じながらも何とか最後まで聞く事ができた。