ACT5-11;諒の恋・香南の恋
 中央病院に入ってから、稟は少し落ちつかない様子だった。

「……私なんかが行っても、いいのかしら」
「香南は人見知りしない娘だから大丈夫(^_^)。そんなに心配することないですよ。マイヤーの話しだと、すっかり元気になったってことだから……」

 広田は稟を振り返ってそう笑顔を浮かべた。
 見舞いにくるのは、広田も初めてのことだった。

「じきに退院することもできると医者は言っている。体力は多少落ちているが、かなり落ちついているようだ。お前に会えば喜ぶだろう」

 ……という、マイヤーの言葉でしか香南の病状を知らない。
 まぐまぐバーガーで発見されたサクマドロップスを警察に届けたことで、ゼロワンSTAFFはラブシック騒動の調査から降りた。
 広田には−−その稟の行動を責めることはできなかった。
 確かに、この調査に広田を駆り立てた思いはまだ達成されてはいない。いや、警察が乗り出したことで、事件そのものが広田の手の触れることのできない場所へ行ってしまったのだ。
 だが、広田には稟を責めることはできなかった。

『私はお店を守らなくちゃいけないわ。例えそれが陽子ちゃんを警察に引き渡すことになったとしても、薬とは無関係の−−私のお店で働いてくれている子たちを……守らなくちゃいけないんだわ……』

 その稟の思いを……責めることなどできなかった。

警察にサクマドロップスの缶のことを届けてからも、稟は相変わらず不安そうだった。
 慣れない育児と仕事とに忙殺される中で、ぼんやりと立ちすくむことが……以前にも増して多くなったように思える。
 事件を警察の手に委ねたことで−−自分のやるべきことを見失っているようでもあった。
 だから広田は稟を連れ出したのだった。
 大丈夫、陽子ちゃんも薬を止められますよ。
 香南が立ち直ったように、ラブシック中毒になった女の子たちもみんな立ち直ることができますよ。
 それを、広田は稟に分からせてやりたかった。
 言葉でそう言うだけでなく……稟に実感して欲しかった。
 香南と会うことで、薬の誘惑から立ち直った姿を見ることで稟に実感して欲しかったのだ。

「今日……マイヤーさんもいらしてるのかしら?」
「ふたりのデートの邪魔するなんて、ぼくはそんな野暮な性格してませんって。マイヤーは今日は仕事の関係で来られないそうで……。何か用でも?」
「え……いえ……その、ちょっとね」

 稟は口ごもった。

「そんな色っぽい言い方すると、また誤解されちゃいますよ」

 不安そうな稟を少しでも元気づけようと、広田はわざとそう軽口めかした口調で言った。

「いやね、広田くんまで……。御迷惑よ、私みたいな女と噂を立てられるなんて。不快に思ってらっしゃるわ、きっと。マイヤーさんも、香南さんも……。私みたいな女と……」
「店長、好きな人いるんでしょ?」

 そのときの稟の口調から、広田は何となく気づいてしまった。

「え?」

 広田の言葉にはじかれたように稟は顔を上げた。
 その頬が、わずかに紅潮している。

「誰なんでしょうね、その幸運な男って−−」

(まさかマイヤーじゃないだろうな(^^;))


 香南の病室には諒が来ていた。
 仕事が次第に忙しくなってきているため、諒もやはり育児に追われているため、そして何より、香南がつきっきりの看病を必要とする状況から脱したこともあって、諒がこの病室を訪れるのは稀になっていた。

「諒ちゃん、なんだか変わったみたいだな」
「変わったって……どんな風に?」
「なんか……大人っぽくなったみたい」
「私は、前からオトナでしょ」

 香南の言葉に、そう冗談を言うような口調で答える。
 ふたりでこんな風に話すのは、久しぶりのことだった。
 群島に来たばかりの頃−−アーマスの部屋にいたときはよく香南とふたりでこうして話しをしたような気がするのに……。
 諒とアーマスの短い恋が破れ、静かに消えて行こうとしている間に……。
 香南とマイヤーの不器用な思いが、もどかしくその一歩を踏み出そうとしている間に、あの頃はずいぶん遠い記憶になってしまったような気がする。

「……仕事してるせいじゃないかな、きっと。自分でもね、ときどき……ああ、変わったなって思うことがあるの。今すぐに−−は無理かも知れないけど、ゆっくりと、今度は無理をせずに、自分の道をね、道っていうか、生き甲斐かな。そういうものを見つけたいなって思って……」
「生き甲斐って、どんな?」

「まだ、それは分からないわ。何だろう……仕事かな。水天宮で仕事してる色んな人たちを見ててね、みんな頑張ってるなって感じるの。私も頑張らなくちゃって……そう感じるのよ。自分の中にね、活力っていうのかしら……新しい力が生まれているような気がするの」

 広田と稟が病室に入ってきたのはその時だった。

「元気そうだね、香南」

 ベッドの上に座っている香南が……かなり痩せてはいるが、それでも笑顔を浮かべているのを見て安堵を感じていた。
 香南は立ち直ったのだ。
 稟に何度も繰り返しながら、広田自身が確信を持てずにいたその思いを、その香南の表情が打ち消してくれた。

「私……そろそろ失礼します。ごゆっくりね、広田さん」

 諒は広田と稟に遠慮するように立ち上がった。

「退院までにまた来るわ、香南」

 そう言い残して部屋を出て行ってしまう。
 広田と顔を合わせていればアーマスの話しが出るだろう。それが諒には不安だった。
 新しい生活にようやく慣れ、自分の生き方を見つめ直そうとしているときに……アーマスとのことを引きずるのは嫌だった。
 後悔している−−とは思いたくない。
 諒にとってだって、アーマスとの生活は辛いばかりのものではなかったのだ。
 だから今はまだ振り返りたくない。
 それが思い出になってしまうまで……振り返りたくはなかった。

(……なんだか……きれいになったみたいだ……)

 病室を出ていく諒を見送って、広田はそう感じていた。

 

 


ACT5-12;恋と呼ぶには儚いままで
 ベッドのそばの椅子に腰を降ろして香南と話している広田を……稟は離れたところから見つめていた。痩せて頬の肉の落ちた顔つきではあったが、その表情からは薬物中毒患者の凄惨な影は感じられない。

「マイヤーと、上手く行ってる?」

 広田がそう香南に言葉をかけた。

「まーちゃんね、優しいよ。すごく……前よりずっと優しい」

 ぽつん、と言って香南は視線を窓の外に投げた。
 香南が入院したばかりの頃、マイヤーはいつもそこに立って窓の外ばかりを見ていた。それが今広田のしているように椅子に座って、香南を見つめてくれるようになったのはいつだろう。
 ふと……そのことに気づいて香南は息の詰まるような思いを感じた。

「でもね……ときどき、まーちゃんがすごくオトナなんだなって感じるときがあるの。まーちゃんが言ってることとか香南の為にしてくれてることに……気づけない自分がね、なんだかとっても辛いの」
「マイヤーはさ、香南のこと心配なんだよ。守りたいと思ってるんだ」

 広田の知っている限り……マイヤーへの香南のアプローチはいつも体当たりと言っていいほどストレートなものだった。

 生きる場所が違う。
 俺は戦場へ帰るかもしれない。
 そして帰っては来ないかもしれない。

 香南のどこまでもストレートな思いに、マイヤーは戸惑っていたのだろう。

『香南ね、まーちゃんとプロレスしたいの。まーちゃんがどこかへ行っちゃうんならどこへでもついていって、プロレスがしたいの』

 SNSで、香南が泣きながらそうマイヤーに訴えたのだという話しを、広田は噂で聞いていた。
 そして……香南らしいと笑った。
 だが、今その香南の言葉の意味が分かったような気がする。

「香南は、マイヤーと遊びたかったんだな」
「…………」

 驚いたように目を見開いて、香南が広田を見つめる。

「退院したらさ、マイヤーを引っ張り込んでみんなでサバイバルゲームやろうな。マイヤーは強敵だからさ、その時はM60を改造してあげるよ。大丈夫、MIL特性のパワーアップパーツをつければ、香南だって百人力だから(^_^)」
「ホントに?」
「お兄さんに任せなさい」
「楽しみだな」

 その広田の言葉に、香南は以前通りの−−がき臭い満面の笑みを浮かべた。


 香南がいない間に、公営住宅が崩壊の危機に瀕していること。まぐまぐバーガーでアルバイト連中のことなど、いつもより饒舌な広田の話しに、稟も加わり、一時間近くも話し込んでしまった。
 諒やマイヤーがしょっちゅう訪ねてきてくれているとは言え、単調な入院生活で退屈しきっていたのだろう。

「あんまりはしゃぎ過ぎて疲れるといけないから、今日は帰るよ。早く元気になってみんなで遊ぼうな」

 そう言って広田は腰を上げた。
 つられたように一緒に立ち上がって、稟は香南を見つめた。その表情が、ちょっとこわばる。

「マイヤーさんは、香南ちゃんのことを大切に思っているわ。それを信じて、そして自分の気持ちに素直になるのが一番よ」

 その稟の言葉は、香南への助言でもあり……そして自分自身にの決意をうながす言葉でもあった。

「誰かを好きになるって……辛いこともあるけど……やっぱり幸せなことだものね。上手く行くように、私も祈ってるわ」


 病室を出たところで、広田と稟は病棟の巡回に来た津久井と鉢合わせになった。

「相変わらず顔色が悪いようだね。あまり思い詰めたりしないようにしないといけないな」

 軽く会釈をする稟に、津久井はそう声をかけた。

「ええ−−でも最近調子はいいんです。赤ちゃんの世話にもずいぶん慣れましたし」

 稟は笑顔を浮かべた。
 少なくとも端目には、育児に慣れた様子などかけらもないのだが、本人にはその自覚はまったくない。

「私で相談に乗れることがあれば、電話をすればいい。ここに自宅の番号も書いておくから……」

 津久井は白衣のポケットから名詞を一枚取り出して、自宅の電話番号を書き込んだ。
 その言葉に、稟はまるで少女の様に頬を染めた。それが稟にとって、津久井にあの指輪を渡したことの返事だと思えたのだ。
 だが、渡された名詞に目を落とした瞬間、稟の表情が堅くなった。

 津久井加奈子。

 ……名詞には、そう印刷されていた。

「かなこ……さんておっしゃるんですか?」
「あ? ええ。そうですよ」

(……女性だったなんて……)

 稟はそうはじめて気づいた。

「それでは、私はこれで……」

 津久井が歩き始めるのを、稟は黙って見送っていた。
 黙って、身動きできずに見送っていた。

「……店長」

 好きな人いるんでしょ? −−その広田の言葉に頬を染めた稟の思いを、広田は立ちすくむ稟の姿を見つめて感じていた。

「……行きましょ、広田くん」

 震える声が発せられた。
 エレベーターホールに足早に向かう。
 エレベーターの扉が閉まるまで、稟は青ざめた顔に、それでも笑顔を張り付かせたままだった。
 津久井が振り返ったときに、自分の心のうちを見すかされたくはなかった。
 細く閉じていく扉の隙間から白衣の背中を見つめて……それでも稟は津久井が振り返るのを待っていた。

「店長……」

 もう一度、広田がそう声をかけた。
 だが稟は答えなかった。
 広田に視線を向けることさえしなかった。震えを抑えるように堅く握りしめた拳の中で渡された名詞がくしゃくしゃに折れ曲がっている。
 気弱そうに見えた稟の意外な気丈さに、広田は言葉を失っていた。
 そしてエレベーターの扉がしまった瞬間、稟の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 狭いエレベーターの中で、広田は息が詰まりそうなほどの緊張感を感じていた。

 

 


ACT5-13;恋の麻薬の手がかり
 まぐまぐバーガーの落とし物の中から真奈美が見つけた鍵は、やはり洋上高校前駅のコンコースに設置されているコインロッカーのものだった。プレートのナンバーからロッカーを調べてみたのだが、すでに期限を過ぎて荷物は回収され、新しい鍵が取り付けられていた。

「ええ。……そういうことなら荷物は遺失物として保管されているはずだよ。ちょっと待っていてくれるかな」

 真奈美にそう言って、駅の係員はオフィスの奥にある棚をのぞき込んだ。
 忘れものの傘や鞄などと並んで、ルイ・ヴィトンのバッグが置かれている。そのバッグにつけられた札を確認して、係員は真奈美を振り返った。

「ロッカーから回収されたのはこのバッグだが……間違いないね?」

 係員はそれが真奈美のものだと信じきっている様子だった。
 ヴィトンのバッグには、海外旅行をした際に空港で取り付けたらしい名札がくくりつけられたままになっていて、「花村桜子」とマジックで書かれている。

「はい……間違いないです」
「じゃあ、ここに名前と住所を書いて……。ロッカーの使用期限はちゃんと守らないとね」

 思ったより簡単な手続きだけで、係員はバッグを真奈美に渡してくれた。
 このバッグの中に……ラブシックの手がかりになる何かが入っている……。桜子の名前の入った札を見たときに、真奈美はそれを悟っていた。
 オフィスを出た真奈美はそのまま公衆ヴィジホンのボックスに入り、ゼロワンSTAFFの番号をプッシュした。

 駅のベンチに腰を降ろして、真奈美は中川が来るのを待っていた。
 ゼロワンSTAFFのオフィスからなら十分とかからないはずなのに、そのわずかな時間がひどく長いものに感じられる。
 バッグの中には……何が入っているのだろう。
 持ってみた感じでは結構重かった。何か堅いものが入っているのが分かる。

(克っちゃんが来るまで……開けるのは待った方がいい……)

 そうは分かっていても、確かめたかった。
 このバッグの中に入っているものを見れば、きっとラブシックのことが……何もかも分かるような気がしたのだ。
 中川は……まだ来ない。
 真奈美は周囲の様子を見つめた。
 下校の混雑のピークが終わって、駅は静かだった。ホームの方には地下鉄を待っている客の姿がまばらに見えるが、コンコースのベンチには真奈美ひとりしかいない。
 真奈美の手が、そろそろとバッグのファスナーに延びた。
 そしてゆっくりとそのファスナーを開けようとしたとき、背後から一本の手が延びて真奈美の肩をつかんだ。

「……!」

 喉の奥からもれそうになった悲鳴をこらえて振り返る。
 そこに、中川が立っていた。

「こんなところで証拠の品を広げる気か、おめーは……」

 走ってきたらしい。中川の言葉は息が上がって多少乱れていた。

「……だって、克っちゃんてば遅いんだもの」
「これでも全速力で走ってきたんだぞ(^^;)」

 中川はそう言ってベンチに座り込んだ。

「……綾子ちゃんにつきあってタバコばっかり吸ってる報いだにゃ。もーオジサンなんだから無理しちゃ駄目なのに……」
「抜かせ……」

 息を整えながら、中川は真奈美が抱え込んでいたバッグに目をやった。
 そしてその持ち手にくくりつけられた名札を見つめる。

「花村桜子、か。例の−−香南にヤクを渡したガキの名前だな」

 中川もまた真奈美と同じように事件の核心に一歩近づいたのだと感じていた。


 羽山が赤ん坊の世話をしているオフィスを避けて、中川と真奈美は自宅として使っているオフィスの隣の部屋でバッグを開けた。

「克っちゃん、これ……」

 バッグの中をのぞき込んで、真奈美は言葉を失った。
 その中には、サクマドロップスの缶が二十個余り、そしてビニール袋に詰め込まれた無数のピンク色の錠剤が無造作に投げ込まれていたのだ。

「……ああ」

 中川はバッグを探った。
 薬の入ったビニールと缶を出し、内ポケットの中を調べる。
 ポケットには封の開いたキャンディーのパックとドルのコインがいくつか、そして映画のチケットの半券が入っていた。
 半券はふたつに折られて、一枚の名刺が挟み込まれている。

「山田製薬 社長秘書 笹倉加世子」

 名刺にはそう印刷されていた。

(……大したヒットを飛ばしてくれたもんだぜ、アーマス)

 中川の留守中に受けたふたつの仕事が、こんな形でつながるとは−−たぶんアーマス自身、想像もしていなかったに違いない。

「山田製薬がラブシックを作ったのかな、克っちゃん」

 名刺を見つめて何かを考え込んでいる中川の顔をのぞき込んで、真奈美は言った。

「ああ、たぶんな」

 このバッグは、ゼロワンSTAFFの事件への関わり方を大きく変えるものだった。
 沫が言っていたような正義の味方になることもできる。広田の目的がそうであったように、山田製薬に出入りをかますことだってできる。
 そして中川の常套手段を講じて山田製薬を脅し、金を巻き上げることだって不可能ではない。

「正義の味方になりたい? 克っちゃん……」

 中川の迷いが、真奈美には伝わっていた。

「確かに、それは魅力だな。だが……」

 これを警察に届ければ、捜査は間違いなく進展する。
 そうなれば……これ以上の中毒患者が増えることはないのだ。少なくとも、このラブシックに限っては……。

「奈美は、どっちでもいいよ。克っちゃんの好きな方を選んで。もしそれで山田製薬からお金貰えなくなったとしても、奈美がまぐまぐでバイト続けて家計を助けるから」
「……せめてスパイらしく、凝ったタレ込みと受け渡しの手口を考えるかな」

 呟くように言って名刺をバッグに戻す。
 その中川を見て、真奈美は安心したように笑顔を浮かべた。

 

 


ACT5-14;助教授の恋人
 噂の女・高梨稟(まぐまぐバーガー縁島洋上高校前店店長)がマイヤーに会いに来た。
 その情報は稟が軍事学部の受付を訪れてから3分29秒という驚くべき早さでチャン・リン・シャンの耳に届いた。
 軍事学部の教官たちをして−−

「あの女だけは敵に回したくはないよな……」

 と言わせるチャンの底力である。
 マイヤーに関する噂が無責任に飛び交っている中で、大半の教官はそれがチャンによる陰謀なのだと気づき始めていた。
 ……が、敢えて見て見ぬ振りを続けている。
 下手につついて鉾先が自分に向けられてはたまらない。

「マイヤーには可哀想だが……ここはひとつ彼に泥を被ってもらおう(^^;)」

 そのせいかどうかは不明だが、最近、貰いものの菓子が余ったから……とか、女房の自慢料理なんだ……とか言ってマイヤーのところに食べ物を持ってくる教官が増えた。
 発想がすべて食べ物に結びつくあたりの貧困さは−−苦笑するよりほかにない。


「……では、まぐまぐバーガー内部の事情は警察に届けたと言うんだな?」

 稟の話しを聞いて、マイヤーは言った。

「ええ。……ゼロワンSTAFFのスパイの皆さんにも、折りを見て少しずつ引き上げていただくことになったんです。いろいろお世話をお掛けしてしまいましたから、マイヤーさんにも一応ご報告を−−と思いまして……」
「警察が……動き出す訳か……」

 マイヤーはちょっと考え込んだようだった。
 実際、警察にラブシックの全容が掴めるとは思えない。売人を検挙して、中毒患者を保護する−−それだけで手一杯だろう。麻薬の捜査なんてのは、どれも変わりはない。
 悪党と呼ばれるのを覚悟の上で、時には法を無視して常習者や売人をとことん締め上げなければ、その一番の元凶を突き止めることはできないのだ。
 そしてそれは、警察のやるべき行為では有り得ない。
 言ってみればその矛盾が、麻薬を野放しにしているのだ。

「香南のことなんだが……」

 マイヤーは心のうちにある苛立ちを抑えるように低い声でそう切り出した。
 稟には−−できないだろうと思えた。
 ゼロワンSTAFFを動かして、これ以上ラブシックのことを探り続ける強さは、稟にはない。
 その弱さが歯がゆくもあったが……こうなってしまった以上何を言ってもしかたない。稟を責めたからと言って、事態は好転しはしないのだ。群島中がラブシック騒動で浮き足だっている中で−−警察がいつまでも傍観者でいるはずはない。
 例えそれで成果を上げることができなかったとしても、警察は必ずしゃしゃり出てくるはずなのだ。

「−−香南のことは、警察には伏せておいて欲しい」

 せめて……香南だけは守りたかった。
 ラブシックの禁断症状からようやく立ち直った香南を、これ以上麻薬に関わらせたくはない。
 それは……エゴなのかもしれない。
 そうすることで、久慈の言っていたような英雄になれるとも、思えなかった。
 だがそれでも、マイヤーは香南を守りたかった。

「……ええ。警察には、店内から見つかったドロップスの缶のことしか言ってありません。香南ちゃんのことを言うつもりも−−ありません。本当のことを言ってしまうとちょっと悩んでいたんです。もし……薬から立ち直っていないのなら、警察に言ってきちんと治療を受けた方がいいんじゃないかって。でも昨日、広田くんと一緒にお見舞いに言って、そんな気持ちも消えました。香南ちゃんには……マイヤーさんがついているんですものね」

 稟は……そう言いながら微かな嫉妬を感じずにはいられなかった。
 香南がマイヤーと出会い、そして恋をしたその幸運に……嫉妬していた。
 微かに抱いた津久井への思いが−−いつかたどり着く場所を、稟は密かに夢見ていた。
 例えばこうして−−マイヤーが香南を守ろうとするように、津久井に強く抱きしめられる瞬間を夢見ていた。
 ラブシックの見せる恋の夢に浮かされた少女たちのように……。


 稟が出て行った後もマイヤーは助教授室の窓のそばに立って、ぼんやりと外を見ていた。

「そんなところで聞き耳を立てていても、新しい噂の元は……ないぞ」

 そう、低くもらす。
 廊下で立ち聞きしている者の存在には、稟と話している最中から気づいていた。
 たぶん、チャンかきょんだろう。
 きょんだったら……その場で銃殺にしてやりたい(^^;)。

「女殺しの助教授にしては、ずいぶんそっけなく話しだけで終わったのね」
 ^^^^^^^
 いつも通りの、何かを企んでいそうな微笑を浮かべてチャン・リン・シャンが入ってくる。

「くだらない噂も、これで打ち止めだな」
「どうかしらね。−−これ、プレゼント」

 じらすように艶っぽい視線を投げかけて、チャンは二本の鍵がつけられたSD三宅教授のキーホルダーを差し出した。

「……? なんだ、これは」
「コアラ牛がそろそろ退院するって小耳に挟んだもんだから、その退院祝いにと思ってね。−−伊島にある「高級」マンションの鍵よ。男連れ込むのにでも使おうかなーと思って借りてみたんだけど、仕事が忙しくって放ったらかしになってるの。掃除くらいは必要かもしれないけど……たいていの家具は揃ってるわ」
「……なんでこんな真似をする?」

 マイヤーはチャンの思惑を計りかねてそう言葉を挟んだ。
 確かに警察が動き出した以上、いつまでも香南を病院に入れておくわけには行かない。だからと言って、公営住宅の三畳間に戻すのも……決して得策とは言えなかった。
 公営住宅は、現在町内会長選挙を控えて世間の注目を浴びている。
 それが直接警察の動きと絡むことはないにせよ、やはり安全とは言いがたい。しかも、広田の話しによれば、公営住宅A棟は崩壊の危険もあるというような状況なのだ。
 そんなところに、香南を置いておきたくはなかった。
 チャンに言われるまでもなく、せめて警察の動きが分かるまで……どこかに香南の隠れる場所を探さなければならないと、マイヤー自身も考えていたところだった。
 チャンの申し出は、言ってみれば渡りに船なのだ。
 彼女の名義である伊島の「高級」マンションなら、香南との接点を見つけることはむずかしいだろう。
 だが、それで全ての危惧が吹き飛ぶと言うわけではない。
 決して短くはないつきあいの中で、マイヤーはマイヤーなりにチャンの性格を理解している。
 何の代償もなしに、こんな「いい人」の振りをするチャン・リン・シャンではないのだ。

「俺が香南をかくまうことで、貴官が得をするとも思えんがな」
「まあ……とりあえず貸しにしとくわ。一生恩に着てくれる位で我慢しとくから、安心しなさいよ(^_^)」
「…………」

 わざとぶっきらぼうに言い放つチャンに、マイヤーは言葉を詰まらせた。

「感謝する」

 そう……低く言葉を発してドアに向かう。
 チャンの前を横切って、マイヤーは足早に部屋を出た。

 チャン・リン・シャンは……どう転んでも味方にはなりえない相手だった。だが同時に、もっとも毒のある敵にはならないだろうと信頼できる相手でもある。
 それがマイヤーの抱いた感触だった。
 そして今は、それを信じて行動するしかない。

 

 


ACT5-15;少女が男に恋するとき
 深夜の病院はひっそりと静まり返っていた。
 ナースステーションにだけは明かりがともり、数人の看護婦が詰めていたが、廊下には人の姿はまったくない。
 マイヤーはその静かな廊下を、足音を忍ばせて進んでいた。
 以前にも、こうしてこの病院に忍び込んだことがある。事件に巻き込まれて誘拐され、怪我を負った香南を見舞うため、深夜の病院に紛れ込んだのだ。そしてあのときは、図らずも香南の脱走を手助けすることとなった。

「……まーちゃん?」

 ベッドから起き上がり、眠そうな目をこすって香南はマイヤーを見つめ、驚いたようにそう声を発した。

「どうしたの、まーちゃん?」
「もう一度……俺と脱出作戦をやるか?」

 無表情のまま、マイヤーは言った。


 マイヤーの車の中……ハンドルを握るマイヤーを見つめて、香南は言葉を失っていた。

(まーちゃんが……いつもと違うような気がする)

 その無表情にも、寡黙ぶりにも慣れっこになっていたはずなのに、香南はマイヤーが恐かった。

「どこへ行くの、まーちゃん」

 だが、その香南の言葉に、マイヤーは答えなかった。
 助手席に座っている香南を振り返ることもせず、ただ前だけを見て運転を続ける。
 そしてマイヤーもまた、香南に対して言ってやる言葉を見つけ出せずにその重々しい沈黙を耐えていた。
 心の中で、何かが激しく自分自身を責めたてているのを感じている。

(俺はなぜこうして香南をかくまおうとしているんだろう)

 警察に任せれば、ようやく薬の禁断症状から立ち直った香南を再び傷つけることになりかねないから−−それは理由の半分でしかない。「俺」が香南を守ってやりたい、と感じているのはもっと別の思いからのはずなのだ。
 その答えを、形のある言葉にすることをマイヤーは自分自身に強いていた。それをしなければ、今のまま足踏みを続けるだけだ。そしてまた……香南を泣かせることになるだろう。

(保護者だからなのか……)
(親父の真似をしてやりたいだけなのか……)
(そうじゃない)
(守りたいから、この娘を……大切に思っているからだ)
(それなのになぜ、親父の振りをする)
(香南の気持ちを無視して−−親父ぶって見せているのはなんのためだ)

 ……この娘を、傭兵にしたくはない。

(こいつは自分の気持ちにはどこまでも素直だ。俺が戦場に戻ると言えば、黙って従うだろう。俺の生き方を変えることなんて、思いつきもせずに……)
(俺はこの娘を、人殺しに育てたくはない)
(香南が軍事学部に入学すれば、他の生徒たちに対してしているのと同じように……戦う技術を教えることになるだろう)

 だが、本当にそれだけなのか?
 確かに香南に人殺しをさせたいなどとは思わない。戦場で薄汚い殺意につき動かされる香南を見たくはないと感じる。
 だが……。
 その葛藤のままに、マイヤーは夜の街を当てもなく走らせた。
 猛スピードで疾走する車の助手席で、香南はおびえたようにマイヤーを見つめる。
 これまで、マイヤーのそんな顔を見たことはない。
 マイヤーの存在を、こんなに男っぽいと感じたことはなかった。いつもの、困ったように言葉を飲み込むマイヤーではない。
 びりびりと張りつめた激情が、その無表情な顔の向こうにあるのを感じていた。

(守りきれない……そう感じているからじゃないのか)
(だから逃げているんじゃないのか。香南から……香南の気持ちから……)
(自分の知らない場所で俺が死ぬことを香南が恐がっているように……目の前で、守りきれずに香南が死ぬことを恐れているからじゃないのか)

『軍事学部へ行きたい』
『まーちゃんと一緒に戦争に行く』

 その香南の言葉を聞いて以来−−ずっとマイヤーのささくれた気持ちを逆撫でし続けていたのは、香南を守りきれないかも知れない自分自身への不安からだったのだ。

『まーちゃんが戦場に行くなら……香南も行く』

(守りきれるのか……)
(……そんなことを約束してやれるはずはない)
(しかし……共に戦うのなら……)

 マイヤーはブレーキを踏んだ。
 タイヤを鳴らし、アスファルトの路面に黒くラインを残してマイヤーの車は豊島マリーナの入り口に急停止した。

「……まーちゃん?」

 香南のその声に、マイヤーは堅く握りしめていたハンドルを離した。
 コートのポケットに突っ込んだままになっていたキーホルダーにふと手をやる。

「俺は……戦場に戻る」

 低い声だった。
 そのマイヤーの声に、香南の身体がおびえたようにびくっと震える。

「すぐに、じゃない。だがきっと……いずれ戻ることになる。俺の生きる場所は、所詮あそこだけだ。それでもいいなら、それでも俺についてくると言うんなら軍事学部へ来い。俺のパートナーは、戦えなければダメだからな」

 表情はいつもと少しも変わってはいない。
 だがそれでも……照れを隠してマイヤーは香南から視線をはずした。

「ホントに……? まーちゃん」
「ああ」
「一緒に行ってもいいの?」

 マイヤーは答えなかった。ドアを開け、車の外に出る。
 海から吹き付ける強い風が冷たい。ふと時計のカレンダーに目をやった。日付はもう十月三十一日に変わっている。

(いつの間にか……冬になっていたんだ)

 ラブシックの幻覚症状に陥った香南を見つけたあの暑い夏の終わりから−−こんなにも長い時間が流れていたことを、改めて感じさせられた。


「……?」

 一瞬、香南は目を丸くした。
 今朝方は結局睡魔に負けてマイヤーの車の中で眠ってしまったはずだった。だが、いつの間にか、豪勢なマンションの部屋に移っているのだ。
 広い寝室。
 その真ん中に置かれたキングサイズのダブルベッドに、香南はマイヤーの野戦服を抱えこんで眠っていたのだ。

「……伊島だ」

 窓の外のビル郡を見つめて、香南はそう気づいた。
 磨き込まれたフローリングの床をぺたぺたと踏んで、香南は寝室を出た。リビングの片隅のソファに、膝から下をはみ出させてマイヤーが眠っている。
 疲れているようだった。
 香南がその顔をのぞき込んでも、気づいた様子はまったくない。

「疲れてるんだね、まーちゃん」

 香南はそう呟いて寝室へ戻った。レースのベッドカバーをはいで毛布を引きずり出し、眠っているマイヤーにそっと掛ける。

「ごめんね……」

 マイヤーの寝顔のぞき込み、香南はそうぽつりともらした。
 言おう言おうと−−ずっと思いながらついに言えなかった言葉……。

「心配掛けて……ごめんね」

 マイヤーの顔をのぞき込み、香南は目を閉じて顔を近づけた。
 だが、一抹の躊躇がその行動を押しとどめる。
 唇が触れ合う寸前で香南は堅く閉じた目を開いた。
 眠っているマイヤーの吐息が頬に触れる。

「…………」

 香南はゆっくりと顔を上げ、触れることのできなかった唇の代わりに、そっと指をマイヤーの唇に押し当てた。

「ありがとう、まーちゃん」

 

 

――最終話に続く