ACT6-6;少女の恋を守るために……
 三時……。
 広川のところにかかってきた音声のみ、しかもボイスチェンジャーを使った謎のタレ込み電話は、ラブシック騒動の内幕を暴露するその手がかりの受け渡し時間を、確かにそう指定した。
 だが、三時になっても約束の場所にタレ込み電話の相手は現れなかった。

「俺をからかってるつもりか……っ!」

 広川は三時二分を指している腕時計を見つめて、多少……いや、かなり苛立ち始めていた。
 ボイスチェンジャーを使ったその宇宙人のようなすっとんきょうな甲高い声に、もちろん聞き覚えなんかあるわけはない。だが、受け渡し場所がここだと言うだけで、「犯人」を断定するのはたやすいことだった。
 19号埋め立て地、ダラットホテル。
 わざわざこんな辺ぴな場所の−−ほとんど知られていないホテルを指定する裏には、広川に対する極めて悪質な、嫌がらせスレスレのいたずら心を感じさせる。そして、そんなことを考えつくようなお調子ものは、広川の知っている限りあの人材派遣屋くらいしかいない。
 だが……そう分かってはいても、広川にはこのタレ込みを無視することはできなかった。八方手を尽くして調査を続けていると言うのに、情報は相変わらず霧の向こうにかすんでいる。
 警察が乗り出したことにより探偵のほとんどは事件から手を引いてしまい、横のつながりは断ち切られたも同然なのだ。そうした中で、それが例え人材派遣屋の持ってきた極めて信頼性の薄い情報だったとしても今はすがるしかなかった。
 ラブシックをペンの力で暴くこと。……そして、その存在を明らかにする。
 広川にとってその目的こそが何よりも重要なことなのだ。
 そのためには……今はプライドを捨てても耐えなければならない。

 時計はすでに三時五分を指していた。

 そしてその同じ時、沫雷はダラットホテルを訪ねていた。少し前に事件があったとかで営業を停止しているホテルの中は満足な掃除もされてはおらず、薄汚れて廃虚のような感じだった。
 人の気配は……ほとんどない。

(三時五分なんて……中川社長もまた半端な時間を指定したもんだな……)

 もちろん沫は、中川の、

『ただ手がかりを暮れてやるんじゃ面白くないから、ちょっと広川の旦那にも苛々してもらうか……』

 ……というセコイ考えには気づいていなかった。
 喧嘩腰の議論でゼロワンSTAFFを辞めてしまったことを、やはり一言謝っておこう。今後彼のもとで仕事をすることはないだろうが、やはりあんな風に喧嘩別れというのも後味が悪いものだ。……そう考えてオフィスを訪れた沫に、開口一番、

「正義の味方の役……やんない?」

 などと持ちかけた中川に、そんな人の道を説いたところで無駄だということは、まだ沫には分かってはいないようだった。

 中川の持ちかけた仕事は至極簡単なものだった。
 19号埋め立て地のダラットホテルにあるジャーナリストが手がかりを取りに来る。手がかりが彼の手に渡れば、おそらく警察が動くのと同じ早さで……いや、ひょっとしたら警察より早く事件の内情が暴露されることになるだろう。ラブシックが今もまだ少女たちの間でやりとりされている可能性は極めて低いが、皆無とも断定はできない。そんな少女たちが警察に追われるより、雑誌に乗った記事を読んで薬から手を引く方がいいだろう。
 接触するべきジャーナリストについては、中川は何も言わなかった。向こうはお前のことをよく分かっているから、とそう言っただけだ。
 合い言葉は、

『恋をするには絶好の日和ですね』

 沫に与えられた取り引き相手の手がかりはたったそれだけだった。
 ただ、ラブシックの手がかりを奪おうとする暴漢がいるかもしれないから、充分注意してほしい。お前は見かけは華奢だが腕も立つって言うし……頼れる奴は他にはいないんだ。
 その神妙な言葉から……たぶん真奈美や広田なら、中川の悪巧みを見抜いていただろう。そのふたりをまとめて(わんたん小僧をオマケにつけて)『晶』へ出向かせたのはそのためだった。
 そして、沫はふたつ返事でOKした。
 自分の会社の儲けにだけこだわっていた中川が、少女たちの行く末を案じてマスコミと手を組むことに踏みきったことに対して、

(やはり彼にも正義はあるんだ……)

 と、安堵にも似た気持ちを抱いていた。
 仕事の為に、自らの正義感をも押し殺さなければならなかった中川も、きっと辛かったに違いない。沫はそう考えて、中川からの依頼を受けたのだ。
 −−お人好しにも程があるぞ、沫。


 外階段に面して小さな窓のある二階の客室。
 そこで広川はまだ苛々とタレ込み電話の相手が現れるのを待っていた。
 三時六分−−。
 小さくノックが聞こえた。

「開いているぞ」

 広川はそう低く答えた。ドアからは離れ、身構える。
 タレ込み電話では、暴力団とつながりを持つ探偵くずれがラブシックの手がかりを狙っているのだとほのめかしていた。万一……入ってきたのがそういう連中なら、容赦はできない。
 ラブシックを暴き、そして根絶すること。
 少女たちを食い物にする恋の麻薬・ラブシックを、コカインやクラックなどと肩を並べる麻薬にしてはならない。このまま永遠に−−闇に葬られなければならないのだ。
 まだ、手遅れではないはずだ。
 そう信じたい。
 そしてそのために……広川はできる限りのことをしたかった。

 ゆっくりとドアが開き、室内を窺うように人の気配が動いた。

 外階段に面した窓が大きな音を立てて弾け、そして室内に発煙筒が投げ込まれたのはそのときだった。
 さらに火薬の臭いが広川の鼻をくすぐった。

「……爆弾?」

 その足元で爆竹が盛大に鳴り響く。
 爆竹の音に身構えたのは広川だけではなかった。部屋に入ってきた沫も。煙に遮られた視界に男の姿を認めて腰を落とした。
 中川の言っていた暴漢かもしれない……。
 その考えが何よりも早く沫の意識に浮かび上がった。

 そして広川と沫は……同時に相手に殴りかかった。

 ふたりとも、腕っぷしには自信があった。こんな場所でラブシックの手がかりをみすみす奪われるようなヘマはしないという意気込みもあった。
 例え相手が何人だろうが、倒してみせる。
 そして、ラブシックの手がかりを守らなければならない……。
 その正義感が、仇になった。

 互いの拳が相手を捕らえようとした瞬間……それが暴漢でも探偵崩れでもなく、SNSで何度も顔を会わせたことのある友人なのだと先に気づいたのは広川の方だった。

「…………沫?」

 だがその瞬間、沫の拳は広川の顎をまともに捕らえていた。

「広川さんっ!?」

 沫がそう叫んだときには、広川は弾き飛ばされて床に倒れていた。そしてゆっくりと煙の薄れていく視界に、窓から顔をのぞかせてにやにやと笑っている中川の顔が見えた。

「…………あなたって人は…………」

 続く言葉は見つからなかった。


 昏倒した広川のそばに手がかり(コインロッカーから見つかったサクマドロップスの缶入りのラブシック、陽子のスケジュール帳、築地がもらってきた山田製薬の社長秘書・笹倉加世子の名刺。もちろんすべては『こうじや』の紙袋に入っている)を置き、

「すみません、広川さん。−−今度奢ります」

 そう一言言い残して沫は部屋を出た。


 くらくらする頭を抑えて広川が立ち上がったとき、もうそこには誰もいなかった。

 

 


ACT6-7;恋の引っ越し便
「…………………………………………………………………………………………………」

 豊島・軍事学部一角の助教授室には重苦しい沈黙があった。

「な、なんですか。これは……」

 マイヤーは喉の奥にわだかまる低い声を、やっとの思いで絞り出した。
 その彼の前には、パイプ椅子にちんまりと座ってチャンの入れてくれたコーヒーをすすっている森沢香織の姿がある。

「くれぐれもお礼を、と主人にも言われてるのよ。ほんの気持ちなんだけど……」

 そう言って、香織は36歳という年齢を改めて(今度は別の意味で)疑いたくなるようなガキっぽいにぱにぱ笑いを浮かべた。
 軽い脱力感とともに彼女の顔から視線を反らし、決して力持ちとは見えない香織がはるばる神奈川県から担いで来た段ボール箱を見つめる。そこには……大量のアジの開きがぎっしりと詰め込まれていた。

 思えば8月4日−−どこで調べ上げたのかは不明だが、総量10キロにも及ぶ北海の珍味を背負って、

「まーちゃん、お誕生日おめでとーーーーー」

 ……とぶちかましたのは、確かにこの香織の娘だった。
 商売ものを、しかも数で圧倒してマイヤーに押しつけるその感性は、遺伝と言うより他にはないものだろう。つくづく、メンデルの法則が恨めしかった。


 とりあえず気を取り直し、マイヤーは再び香織に視線を戻した。今日は、相談しなければならないことがあるのだ。大量のドライフィッシュ(アジの開きはマイヤーにとってまだ未知の食物だった)に脱力して用件を忘れる訳には行かない。
 この「お礼」は気持ちだけありがたく受け取って、後は三人組にでもくれてやればいい。奴らならきっと、この大量の食品のありがたみも分かるだろう。

「実は今日、不動産屋に連絡を取りまして−−」

 マイヤーは病院から脱走させた香南を現在は伊島の「高級」マンションにかくまっていること。縁島公営住宅が崩壊の危機に直面していることを告げ、新しく香南を住まわせる場所を探すことにしたのだと話した。
 「高級」マンションの持ち主であるチャン・リン・シャンは、

「あら、いつまで使っててもいいのよ」

 ……とシラッと言ってのけたのだが、やはり彼女に借りを作ったままにしておくのはどうも居心地が悪かった。加えて、マイヤーはその「高級」マンションの名前にも一抹の不安を覚えていた。

『三宅グランドコート』

 それが、MILの三宅教授となにがしかの関係のあるマンションなのかどうかは、その名称だけで判断することはできない。通りすがりの久慈を捕まえて尋ねてみたところ、三宅というのはそれほど珍しいファミリーネームではないと言うことだった。
 だが……マイヤーだとて群島の住人として、同じ洋上大学の教職員として三宅の噂を知らないわけではなかった。
 チャンと三宅が親しいらしい……という中川のちっともありがたくない情報が、このときマイヤーの頭の中でケルン大聖堂の鐘のように警鐘を打ち鳴らした。

(早く引っ越し先を考えるに越したことはない……)

 引っ越しについて、香南を説得するのはそれほど難しいこととは思えなかった。だが香南にその引っ越し先を探させることについては、マイヤーは不安以外のどんな感情をも持ち合わせることはできなかった。
 手付け金にしろと言って渡した十万円を握りしめて不動産屋へ行き、その十万円で敷金、礼金は勿論、半年分の家賃まで払って来た香南の価値観は、マイヤーには到底理解できるものではなかった。
 ……いや、安価が悪いなどと言うつもりはない。
 問題は香南の借りてきた部屋の方だった。少なくともマイヤーにとって、三畳一間、トイレも風呂もないその部屋は、十六歳の女の子の生活の場として「いい環境」とは口が裂けても言えないものだ。
 幸運なことに、炉島不動産は手ごろで環境のいい物件をいくつかピックアップしてくれた。その中にはアブシンベル縁島の物件もあったのだが、それは敢えて見なかったことにした。

「そうねえ。いつまでもハインリヒさんのお友達のお家にご厄介になってもいられないものね……」

 そのマイヤーの苦労を知らず、香織は至って暢気である。

「あ、そうだわ!」

 突然、香織が声を上げた。

「なんです?」
「お世話になったハインリヒさんのお友達にも、お礼をしなくちゃね」
「………………(^^;)」

 マイヤーは言葉を失った。
 ……が、段ボール箱に詰め込まれたドライフィッシュを見おろしてすぐに気を取り直し、チャン・リン・シャンの名前と伊島にある彼女の勤務先を教えてやった。そして、

「彼女にはいろいろ世話になりましたから……」

 とつけ加えることも忘れなかった。
 うち続く苦悩で、マイヤー助教授も多少性格が変わってきたのかも知れない。


 香南の新居は、縁島の南端−−窓から豊島の見えるこぎれいな二階建てのマンションに決まった。『第24ひよこマンション』というそのネーミングセンスには、多少神経を疑う要素も含まれているが、その点はとりあえず目をつぶっても害のなさそうなものだった。
 マイヤーが手配し、森沢香織の名義でその『第24ひよこマンション』の201号室を借りた。費用は折半ということになり、マイヤーにとっては今回も予想外に低予算でことが運んだ。


 そして、香南の引っ越しはどこまでも簡単に進んだ。香南に引っ越しのことを告げ、

「わーい、引っ越しだ。引っ越しだーーーー」

 という歓声をうんざりするほど聞かされた約五分間をのぞけば……。
 何しろ、香南の荷物と言えばスポーツバッグ一個にちゃっかり収まってしまう衣類と寝袋、マイヤーからせしめた野戦服、飯ごう、スプーン、フォーク各一個、電気炊飯器、M60とその付属品(最近広田が改造したので、付属品が増えている)、新しい制服と学生鞄(まだ教科書やノートなどは揃っていない)、あとは大量の北海の珍味くらいなものだった。

「引っ越しするなら、車調達して上げるわ」

 そう言っていたチャンの言葉通りに、崩壊寸前の公営住宅A棟前に現れた4tトラックがむなしく見えるほどのコンパクトな引っ越しである。


「………………広い」

 部屋に入った瞬間に漏らしたその香南の言葉には、多少エコーがかかっていたような気がするのは、たぶん勘違いではないだろう。

 『第24ひよこマンション』201号室−−六畳(洋室)+ダイニングキッチン、ユニットバス。ベランダ有、日当たり良好、冷暖房完備。

 香南にとっては、贅沢の極みである。


蛇足ではあるが、その日……軍事学部の演習場ではアジの開きを焼く学生(外国人留学生の姿もちらほらと見受けられた)たちで深夜まで賑わい、そして翌日……伊島のDGSビルには段ボール箱三つ分の『感謝のキモチ』が配送された。
 さすがのチャン・リン・シャンもしばし言葉を失い、段ボール箱の一つをその場でまるごとゼロワンSTAFFへ送らせた。

 しばらくの間、群島は何となくアジの干物臭かった。

 

 


ACT6-8;恋しい喝采の中で……
 警察の対応は素早いものだった。
 航空警邏隊が入手した手がかりと、禁断症状からほぼ回復した花村桜子と橋本陽子の取り調べから得た情報からラブシックの出所を山田製薬と断定し、すぐに本格的な捜査に踏み切ったのだ。
 主犯と見られる専務の佐野の名前はすぐに浮かび上がってきた。
 佐野のコネで就職し、研究室をひとつ任されていた男が内密に佐野からの指示を受け、ラブシックを製造したのだということが、研究室のヴィジフォンのメモリーに残っていた会話で明らかになったためだ。

 朝一番の講義を受けて、昼前に山田製薬に出社した綾子は……そこで警察に連行される加世子の姿を目撃した。
 すでに綾子は中川からラブシックと山田製薬の関係について聞かされていた。だから、驚きはしなかった。
 ただどうしても−−その時になってさえ加世子がそんな事をした理由が分からなかった。
 加世子は逮捕を覚悟していたのかもしれなかった。驚きとか、不安とか、罪の意識とか……同僚の視線の中で手錠をはめられる時に誰しも抱きそうな感情の動きが、その時の加世子の表情からはきれいさっぱり抜け落ちていたからだ。
 それはまだ夢の続きをぼんやりと思い続けているような、現実感のない表情だった。

『大学生でしょ? ……人生で一番恋が楽しい時期よね』

 脱いだジャケットをハンガーにかけようとロッカーを開けたままで、綾子はその加世子の言葉を思い返していた。
 加世子は、辛い恋をしていたのかもしれない。
 その恋の傷が−−今度の事件の引き金になったのかもしれない……。
 それが専務との不倫なのか、もっと別の……例えば彼女がまだ大学生だった頃にした恋だったのか、それは綾子には分からなかった。
 警察の男たちにこづかれるようにして出ていく加世子を……綾子はただ黙って、じっと見つめていた。


 冷たい手錠の感触を肌に感じて、加世子は促されるままに車に乗り込んだ。
 その目は、加世子をはさむようにして乗り込んだ警官の事を見てはいなかった。動き出した車の窓の外に見える黄色く色づいた銀杏の木も見てはいない。
 何も見てはいなかった。

 あの少年に会ったのはいつだっただろう。
 線の細い金髪の少年。
 ルイス−−そんな名前だった。
 顔は、もうはっきりと思い出す事はできない。
 出会ったのは、深夜の公園。ひとりぼっちでブランコを揺らしていた加世子に足どりの定まらない少年が近づいてきたのだ。
 酔っているのだと思った。

『お酒……飲み過ぎたんじゃない?』

 そう声をかけたのは加世子の方だった。酔っぱらいに話しかけた事など、それまでには一度だってない。ただそのときは、無性に人恋しかった。ひとりぼっちで誰も待つ人のないアパートへ帰るのが辛かったから……誰にでもいい、声をかけてみようと思ったのだ。

『薬だよ。−−恋の夢を見る、薬』
『うらやましいわね。私もそんな薬、飲んでみたいわ』
『飲んでみる?』

 そう言って……まるでキャンディーを分けてくれるような気軽さで、ルイスと名乗った少年は小さな薬の包みを加世子に渡した。

『なんていう薬?』
『恋煩い(ラブシック)の薬だよ。−−ぼくが作ったんだ』

 ルイスのその言葉に、加世子は笑った。
 −−なんだ、子供の遊びじゃないの。

『飲まないの?』
『水がないと……飲めないわ。粉薬を飲むのは苦手なのよ』
『じゃあ、ジュースを買ってきてあげる。公園の入り口に販売機があったはずだから』

 そう言って、少年は身を翻した。
 揺れるブランコから腰を上げて、加世子はそのまま少年が歩いて行ったのとは反対の方向へ歩き始めていた。
 てのひらにラブシックの包みを握りしめたまま足早にその場を立ち去る。
 少年と話をしたことで−−それは短い時間だったけれど−−少しだけ気分が軽くなったような気がした。

 そう……それだけの事なのだ。

 その包みを不倫相手の佐野に見せたのも、ちょっとした気まぐれだった。いや、彼とのつきあい自体が、加世子にとってはただ寂しさを紛らわす為の気まぐれに過ぎなかった。
 佐野は優しかった。
 その優しさに誠意や愛情を感じる事がなかったとしても−−加世子の回りにいたボーイフレンドたちが欝陶しがる彼女の甘えを、そのまま受けとめてくれた。ホテルで会うその短い時間だけは……。
 アメリカでほんの一時期流行した恋の麻薬のことを聞いた事がある、と佐野は加世子の持っていた薬を見て言った。
 だが、薬についての話はそれっきりだった。

『ふたりでいるときくらい……仕事の話はやめて』

 その加世子の言葉が、佐野の言おうとしていた言葉を押しとどめてしまった。
 ハンドバッグに入れてあった包みがなくなっている事に気づいたのは、三日も経ってからだった。

 佐野が社の研究室を動かしてその薬を解析しているのだと知ったときも、別になんとも思わなかった。心が麻痺したように−−麻薬というその言葉に反応する感情をなくしていた。
 試しに飲んでみないか−−。
 その佐野の言葉にさえ、危険を感じることができなかった。いつもそうしてきたように、ただ佐野の言うがままになっただけだ。
 それは加世子にとって居心地のいい隷属だった。
 決して傷つく事のない生温い恋が、その関係の中にはあるように思えたのだ。
 だが、加世子の見たのは穏やかな恋愛の夢などではなかった。
 かつて彼女を打ちのめした激しい恋が、加世子の身体を揺さぶるように蘇った。

(あの恋の中で感じたエネルギーは、今はどこに行ってしまったんだろう)

 もう一度そんな恋をしたいと……そう思いはしなかった。
 その恋が刻みつけた傷に背を向けて、新しい恋をしようと思ったわけでもない。
 ただその傷の痛みを思い出し、自分の抱いたいくつもの鮮烈な感情を見つめているだけで満足だった。
 少女だった頃に繰り返し見た映画のように……その日々を見つめているだけで良かったのだ。傷つきながらもついには恋を手に入れるあの女優の姿が自分自身と重なり会っていくのを夢見るその瞬間が好きだった。幾度も幾度も……その光景が鮮やかなシーンのように浮かび上がってくる……その熱い陶酔が好きだった。

 オールナイトの映画館で出会ったあの少女たちがどうなったのか、加世子は考えたくはなかった。ただ、恋の夢に追われて人を傷つけた彼女たちの激しい思いに、心の擦り切れるような嫉妬を感じている。

 その光景は、美しかっただろうか。
 嵐のような激情にかられて恋を奪った私より……美しかっただろうか……。

 加世子にはこうして連行されていくその瞬間さえ、それが映画館のスクリーンに映し出されたシーンのようにしか思えなかった。
 口元に謎めいた微笑を浮かべて男たちにせきたてられて歩く自分を、もうひとつの遠い視線で見つめてじっと喝采を待っていた。
 ラブシックは何も生み出さない。
 ただ自分自身の心の奥底を覗かせただけなのだ。
 それを加世子は狂気の中で悟っていた。

(喝采が鳴りやんだら−−もう一度、恋を探そう)
(もう一度、もっと激しい恋を……)

 

 


ACT6-9;恋の闘い
 謎の麻薬−−ラブシックのスクープ記事が掲載された週刊オリエント・ジャパンが発売されたのは十一月二十日−−笹倉加世子が逮捕されたその日だった。


 …………その麻薬は恋煩い−−ラブシックと言う名で、サクマドロップスの缶に入れられて、主として『まぐまぐバーガー』を中継点に流通されていた。
 同種の麻薬として十年ほど前、シアトルで売春の常習犯によって使われていた謎の麻薬『カウント』があった。『カウント』はその存在が表面化するとともに市場から姿を消し、廃人となった中毒患者数名を残して事件は迷宮入りとなった。その影には、大がかりな組織(恐らくは国家規模のものであろう)による人体実験の噂さえあったものだ。
 今回の『ラブシック』事件にも、規模こそ小さいが組織のバックアップがあったことは間違いない。女子高校生を中心に取り引きされていた『ラブシック』は丸薬状、ピンク色の糖衣のなされたもので、設備の整った製薬会社などが事件に関わっていたものと思われる。
 ラブシック中毒によって傷害事件を起こしたふたりの少女は現在警察病院に収容され、禁断症状からの回復を待って本格的な取り調べ、裁判を受ける事となっている。
 警察の発表をそのまま信じるとすれば、いまだ彼女たちはラブシックの入手先さえ証言してはいないという。
 本誌の調査によれば、ふたりの少女は『まぐまぐバーガー』での流通の中心に立ち、仮にY製薬と名付ける製薬会社秘書から渡されたラブシックを売っていたようだ。

週刊オリエントジャパンより 抜粋

 麻薬追放キャンペーンの最終回を飾る五ページ程の記事には、桜子と陽子が(名前はもちろん伏せてあったが)オールナイトの映画館で笹倉加世子と会い、ラブシック数百錠を渡されたことも書かれてあった。
 ふたりの女子高校生はたった一度だけY製薬の秘書と会い、その後は麻薬を扱った映画や小説を読みふけって手口を考え、犯罪を実行に移したのだ。
 広川はその記事を、陽子のスケジュール帳に書き連ねられていた日記をもとにして書いた。
 笹倉加世子がラブシックを渡したのが桜子と陽子のふたりだけだったのかどうかは広川には分からなかった。
もっと別の場所に……もっと別の手口でラブシックをやりとりしていた者たちがいたのだという疑惑を捨てきってしまえた訳ではない。
 例えば桜子の事件が最初に報道された日、同じようにその自殺が報じられた中学生の少女は、桜子や陽子とはまったく交際がなかった。彼女の自殺がラブシックにつながるかどうか……それは断定できないままに終わっている。少女の部屋から発見されたのはサクマドロップスの缶だけで、そこからはラブシックは発見されなかったのだ。
 だがそうした明かしきれなかった謎を残しつつも、広川はその成果に一応の満足を感じていた。
 この記事によって、ラブシックが“恋のおまじないの薬”などではなく……場合によっては生命をも脅かす麻薬なのだと知らしめること。それが、広川のめざす目的だったのだから……。

 ラブシックのスクープ記事の掲載された週刊オリエントジャパンは、笹倉加世子らの逮捕のニュースとあいまって驚異的な売り上げを記録した。
 それはまだ氷山の一角なのかも知れない。
 しかし……彼は群島の探偵たちと同じように自分にとって最善と思える行動をとったのだ。


「ボクたちのしたことって結局なんだったのかな……」

 まぐまぐバーガーの一角で週刊オリエントの記事をぼんやりと読みながらシータはそうぽそりと呟き、テーブルを挟んで向かいに座っている姉のジーラを見つめた。
 ジーラは返事をせず、ただ黙ってコーラのストローを口に含んだ。
 下校途中の女子高校生が、店頭に戻ったサクマドロップスの缶をテーブルに乗せてラブシックの噂話に花を咲かせている。
 逮捕から数日が経ち、週刊オリエントだけでなく他の雑誌やTV番組などでもラブシックの事件の詳細が明かされ始めている。
 きっかけ――それだけだったのかも知れない。
 事件はもう終わったことにされてしまっている。ジーラの手元には調査を依頼した探偵たちからの請求書がちらほらと届き始めていた。
 手元に送られてきた請求書の中には、ジーラが声をかけた覚えのない、見知らぬ探偵たちのものが数枚混じっていたが、それも群島中を沸かしたラブシック騒動に比べれば可愛いものだった。

(私のところへ請求書を送れば金が出るとでも噂が流れているのかしら?)

 請求書を見つめてジーラは苦笑し、見知らぬ探偵たちには調査料の代わりにサクマドロップスを送ろうかと思いついた。
 ……ちょっとした、イタズラ心だった。


 そのジーラたちから少し離れた場所で、小岩井志織と杜沢修子が……同じように週刊オリエントの記事を読んでいた。

「陽子さん、きっとずいぶん回復したのね」

 青少年の麻薬汚染を報じるその暗い記事の中から、志織はそのことを読みとって、表情を明るくした。

「……警察の取り調べが始まってる、って書いてあるもの。きっとちゃんと話ができるように回復し始めてるんだわ」

 陽子の事件は今もショックだったが、そう考えれば少しは安心してくる。
 事件のことを知ったとき……それがラブシック中毒の禁断症状によるものだと聞いて志織は陽子に面会したいと思った。

『きっとまたすてきな恋ができるよ』

 その言葉を彼女に伝えたかった。
 勿論――警察病院に収容された陽子に面会をする手だてはなかったのだが。
 薬の力に頼りたいと思うほどに、陽子が憧れていた恋のかたち。それは志織にとっても決して遠いものではなかった。
 志織も陽子と同じように恋に悩み、傷ついたことがある。

『だから……もう負けないで。一緒にがんばろう。恋は闘いだものね』


 店を出ていくとき、ジーラは修子と志織を振り返った。
 ラブシック騒動の中心に立ったふたりの少女に会ってみたいような、そんな気がする。
 そして彼女たちがまだ恋に悩んでいるのなら、何か助言をしてあげたかった。
 思い詰めて何かを傷つける前に……守って上げたい。

 

 


ACT6-10;恋しくなった時きみは……

 クリーニングから帰ってきたばかりの服をトランクに積めると、荷造りはすべて終わった。
 家具はもう処分され、身の回りの荷物を積めたトランクふたつ分以外の荷物はすべてレンタルトランクルームに移した。がらんとした、何もない部屋。その片隅にまだ諒の匂いが残っているような未練を、アーマスは治癒しかかった傷のむずがゆいうずきのように感じていた。
 痛みはもうない。
 それでも……やはり忘れることはできなかった。
 忘れるほどには諒は遠い過去ではないのだ。目を閉じれば今でも諒の笑顔が鮮やかに思い返される。
 公営住宅A棟崩壊の危機――それはアーマスにとって踏ん切りをつけるにはちょうどいいチャンスだった。
 群島を離れよう。
 何か新しい生き方を見つけるために……。
 帰ってくるかどうかは、アーマスには分からなかった。どこへ行くかも決めてはいない。空港へたどり着いたら、そこで行く先を決めるつもりだった。
 ――気楽にやればいいじゃないですか。
 その坂井の言葉がふと耳の奥に蘇る。

(そうなれればいいんですけどね……坂井さん)

 部屋を出て、アーマスは郵便受けをのぞいた。郵便は昨日のうちに局留めを申請してあるから手紙など届くわけもないのだが、身についた習慣はこんな時にも顔を出すものだ。
 ふとそのとき、アーマスは群島で暮らした短い時間の中でダイレクトメール以外の手紙など一度も受け取ったことがなかったのだと気づいた。アーマスから誰かに手紙を送ったということも……そう言えばなかったような気がする。
 郵便という手段そのものが、今では古くさいシステムとなっているのだというせいも勿論ある。だがそれだけでなく……ここでの生活を、何かその場しのぎの仮の宿のように感じていた自分自身の気持ちを思い知った心地になった。
 手の届く範囲にしか友人はなく、その交際も決して深いものではなかった。
 プログラマーとして働いていたときも、ゼロワンSTAFFの派遣スパイとなってからも常にアーマスの人間関係には仕事に絡んだ義理や責任があったように思う。
 諒はそんな中でたったひとり……何の義務感も負い目もなく思いやり、その温もりを信じてともに生きて行けたはずの女だった。

(俺は言葉が足りなかった。余りにも不器用だった。諒を永遠に失うほど……心のゆとりを失くしていたんだ)

 配達された郵便物はひとつもなく、ただ一枚のメモが入っていただけだった。薄いメモ用紙は継ぎ目に挟まってぴったりと側面に張り付いていたため、今まで見落としていたのだろう。

『香南は退院したがしばらく部屋には戻らない。心配はない』

 走り書きの英語でメモにはそう書かれていた。
 香南が病院から姿を消したのだと言う話は、容態を聞くために連絡を取った病院の看護婦からすでに聞いていた。
 以前アーマスに香南の相談を持ちかけたことをマイヤーはマイヤーなりに気にかけていたのだろう。アーマスに、一言心配するなと言っておきたかったに違いない。このところ外出が多くてヴィジフォンをかけても直接訪ねてきても捕まらないアーマスにメモ一枚でも香南のことを伝えたかったのだろう。

(幸せになれよ……香南)

 ドアの鍵を閉めて、ふと隣の部屋に目をやった。
 香南はもうここには帰ってはこない。もうアーマスが……香南に対して似合わない兄貴風を吹かす必要もないのだ。香南には、マイヤーがいる。マイヤーが彼女を守って……幸せにするだろう。


 待たせていたタクシーに乗り込むと、アーマスは空港へやってくれるように頼んだ。シートに深く身を沈ませて長いため息を吐く。すっかり色づいた銀杏の木の下に、諒が立っているような、そんな気がして発進した車のリアウィンドーを振り返る。
 だが、そこには諒の姿はなかった。
 こんなにも恋しく思う彼女の姿は……アーマスには見えない。


 マイアに頼まれた書類を提出したあと、諒は伊島の街をぼんやりと歩いていた。
 こんな風にぼんやりする時間も、今では少なくなっていた。仕事に対する思い入れが、日増しに強くなってくる。
 今はまだメッセンジャーでしかない。
 だがメッセンジャーのままでは終わりたくはなかった。例えばマイアがそうであるように自分自身のアイディアと意志とでプロジェクトを動かし、形ある成果を残すことのできる立場にまで上り詰めたい。
 それが今の『水天宮』での仕事なのかどうかはまだ分からない。
 ただ努力をするだけだ。
 そしてもっとたくさんのことを学びたい。

『書類を出し終わったら、少し休憩していいわよ。三時までに戻ってね』
(三時まで……か、あと三十分くらいぶらぶらできるな。……いいブティックがあるってマイアさんが言ってたの、確かこの辺だと思うけど……)

 余り来ることのない伊島の街を、諒は冒険気分でうろつき始める。
 高級なブティック。
 おしゃれなレストランや喫茶店。
 縁島や丹島の庶民的な雰囲気とはひと味違った群島の顔がそこにはある。

(新しいコートでも探しに行こうかな。……たまにはムダ遣いもいいよね)

 もう……冬になる。
 夏の記憶は諒にはすでに遠いものだった。振り返りはしない。ただ前を見て歩いて行けばいいのだ。
 自分の信じるままに……。
 自分自身の道を探して……。
 そうすれば、後悔することもない。
 失くした恋を悔やんで、誰かを憎むこともない。そんなことをせず、自分の幸福を実感していくことができる。

 一台のタクシーが諒の歩く舗道の横を走り抜けて行った。

『諒……』

 そう、呼ばれたような気がして振り返る。

 そしてタクシーの中で、アーマスもまた諒の気配を感じて顔を上げた。
 二人の視線が交わることはなかった。
 どちらも互いの姿を認めることなく、離れていく。

(ニューカレドニアへ行こうか……)

 車窓を流れる伊島の街並みを見つめてアーマスはそんなことをふと思いついた。
 諒と一緒に旅をした場所。
 あのときは何の疑いも抱くことなく彼女の笑顔を見つめていられた。それはアーマスにとって、忘れられない――そして何よりも幸福な記憶だった。
 諒の笑顔の記憶が、彼の意識の中で次第にその輪郭を……かつてアーマスを陥れた女に重なっているのだということには……アーマスはそのときまだ気づいてはいなかった。
 ただ……恋しかった。
 もう一度、諒に逢いたい。
 そしてあの時のように、彼の温もりを素直に受け入れてくれる諒を……抱きしめたかった。