Act3-1;エレベーターという密室


 足を使え、という言葉が、故佐々木辰樹の社員教育の根底にはいつもあった。

「仕事は、足で見つけるもんだ――そう思って努力を怠るな。努力はいちばん身近にあっていちばん人の心に訴える誠意の表現方法だ」

 それは社長の口癖として社内の隅々にまで行き届いていた。辰樹は仕事の合間をぬって社内を歩き回り、時には総務や秘書課……社員食堂にまで顔を出すまめな男だったから、入社して数カ月なんていうヒラの社員の中にも、辰樹に激を飛ばされたことのある者は少なくなかった。

「出世の道はいくらでもあるんだぞ。この会社には年功序列なんて言う面倒くさいシステムはないんだ。きみの給料は……手取り付き二十五万から三十万と言ったところだろう。だが来年それを二倍、三倍にする事だってできる。どうだ、出世したくはないか」

 ……なんて言うことを、社員食堂でつかまえた二十五、六の総務課の男の横に座り、同じようにカレーライスを頬張りながら喋っていた、という話は社内では別に珍しいものではなかった。
 そしてその言葉通り、驚くほどの短期間で出世した社員は多い。
 熱意のある若者が辰樹は好きだった。そうした連中を叱咤激励し、自分の活力の源としていたのだ。

 だから……と言うのではないだろうが、社員の中には、

「ぼくはエレベーターは使いません。たとえ最上階――二十三階の社長室に行く用事ができたとしても、階段をかけ上がります」

 と張り切る熱血野郎が多かった。
 もともと佐々木建設本社ビルは、その規模から考えるとエレベーターの数は少ない。
 五基ほどあるエレベーターはいつもフル稼働していると言う状態なのだ。だから急ぐ用件の時は、どうしても走る事になる。

 もちろん、そうした辰樹の言葉に左右されなかった者たちもいる。
 重役の多くは辰樹が階段を使って社内を回っているのを横目に、なかなか来ないエレベーターを悠然と待って、1フロア下のボタンを押していた。
 走り回るのはヒラのやることだ。といった考え方は、例えば副社長である西崎昌明にも染み着いていた。
 明確な区別はないのだが、社内のエレベーターの五号基はそうした重役たち専用のものだという不文律が、いつの間にか出来上がっていた。

 そのエレベーターの五号基に、西崎昌明とアーマス・グレブリーは乗り合わせてしまった。
 偶然である。
 アーマスにとっては、不運だとも言えた。
 エレベーターという密室は――特にその乗員が見知らぬ二人であった場合、なんとも言えない気まずい沈黙に支配される。自動ドアの上に表示されるフロアの数字をじっと睨んで、それでも時折、ちらりちらりと横に立っているやつを伺ったりせずにはいられないような、ひどく居心地の悪い時間を過ごさなければならない。ちらちらと相手を伺うその視線が、ぶつかってしまったりしたら、もうどうにもならない。

「いや、こりゃ、どうも……」

 とかなんとか、訳の分からない常套句を何とか思いつき、引きつったうすら笑いを浮かべる事ができれば上出来である。
 そしてそのあとには、さらに輪をかけて気まずい沈黙が続くと言うわけだ。

 それが……『知っているけど、知らない事になっている相手』だったりしたら、なおさらだ。
 この仕事を与えられるにあたって、アーマスはすでに西崎の顔写真を坂井から渡されていた。
 その名前も、副社長という役職も知っている。
 そして、この西崎こそがあの(当事者でないアーマスにとっても)不愉快きわまりない脅迫状の差出人の容疑者のひとりだった。

(いっそ顔なんか覚えておくんじゃなかった)

 後悔先に立たず、ということわざはアメリカ人にとっても有効である。
 しかもアーマスが扉の閉まる寸前に飛び込んだこの五号基は、そこから上は重役たちの領域となる十五階までノンストップで上昇するよう設定されていた。

(……い、生きた心地がしない……)

 思わず閉じたドアにすがりつき、がりがりと爪を立てたい気持ちでいっぱいだった。それをしなかったのは、この上突飛な行動をして、西崎に顔を覚えられたくはないという、なけなしの理性と自制心のおかげだった。
 その、アーマスの呻きが西崎に聞こえたわけはないのだが、西崎の方も終始苦虫を噛み潰したような表情を崩さなかった。
 重役エリア直行のエレベーターに乗り合わせた見慣れぬ外人の若造が、脂汗を浮かべて自分を盗み見ているのに気づけば、西崎でなくとも怪訝に思うものだろうが……なにより西崎には社に出入りする世間知らずそうな若い者が同じエレベーターに乗り合わせたという事が目障りでならなかった。

 十五階に着くとアーマスは転がるようにしてエレベーターから逃れた。そのアーマスと入れ違いに若い男がエレベーターに乗り込んで行った。

(今のは……確か……)

 男の顔を見たのはほんの一瞬だったが、アーマスはそれが義一の秘書である高槻洋二だと気づいた。
 エレベーターの扉が閉まる瞬間、西崎が高槻を見て、何かを口にしたようだった。それは、親しげに呼びかけているようにも見えた。

 人事課のオフィスは八階にあった。
 十五階の重役フロアに迷い込んだアーマスが、そのオフィスを探し出すためには、階段を昇ったり降りたりに疲れ果て……このままでは収拾がつかん、とばかりにもう一度正面玄関に戻り、受付嬢の説明を聞かなければならなかった。

「アーマス・グレブリー君ね。……ふぅん、ゼロワンSTAFFからの派遣か。あそこ、オフィス・コンパニオンはよくよこすけどねえ。プログラマーってのははじめてじゃなかったかなあ。ああ、吉沢派遣の口利きね……」

 デスクの横にパイプ椅子を置いて座ったアーマスをじろじろと見ながら、人事課長は言った。アーマスに話しかけている、というよりは……紹介状に目を通す間の時間稼ぎに何も考えずに口だけを動かしているといった感じだ。
 相変わらずミミズののたくった跡のような、読みづらい文字で書かれた派遣契約書を読む事にも、すでに熟練していると言うふうである。もちろん、契約書を書いたのは中川である。
 その契約書を見て、アーマスが、

「俺の方がまだYOUより日本語書くの、うまい」

 と感嘆したほど、その字は破壊的なものだった。
 普段から、中川は字が下手である。その上この契約書を書いたのが、『こうじや』で行われたあの怒涛の宴会――『佐々木義一を社長さんにしちゃおう作戦(仮/中川による命名)』の実行メンバーである隠密チーム『佐々木ファイブ(仮/坂井による命名)』の結成記念『味噌おでんを食べよう宴会(仮/杜沢による命名)』改め『おでんはともかくがんがん飲みましょ宴会(仮/真奈美による命名)』席上であったのだから、無理もないが……。
 どうでもいいが、命名センスのない者ばかりが見事に集まったチームだと、アーマスは思う。

「ふんふん、採用には問題はないよ。ゼロワンSTAFFだけなら断ったところだが、吉沢派遣が絡んでいると……どうもね。あそこの社長さん、うるさくって」

 人事課長はそう愚痴をこぼすように言って、煎茶をすすった
。  茶を運んできたのはもちろん、ゼロワンSTAFFから派遣されてきたお茶汲み娘である。一目見て、ああ、こいつは絶対中川が唾つけてやがるな、と思わせるタイプの女だった。つまり、「頭も尻も、同じように軽そうな」やつである。

 アーマスをどうやって佐々木建設に潜り込ませるかというのは、坂井と中川がずいぶん頭を悩ませた手口だった。オフィス・コンパニオンならいくらでも方法はあるのだが、プログラマーのような純粋な技術職では、ゼロワンSTAFFにはなかなかつてがない。派遣業という職種上、中川の方から出向いて行って、

「こういうのが入りましたんで……ひとつご検討を」

 てな訳にはいかない。
 あくまでも企業からの派遣の依頼があってこそ、成り立つ契約なのだ。
 そこで中川が、求人情報誌バイト時代に知り合った派遣会社の社長に頭を下げて、吉沢派遣に来ていたプログラマーの派遣依頼を譲ってもらったのだ。書類上ではゼロワンSTAFFから吉沢派遣に派遣されたアーマスが、さらに佐々木建設に派遣された事になっている。
 中川は菓子折りを片手に、アーマスを連れて吉沢派遣を訪れ、あの手この手で吉沢派遣の社長のご機嫌をとり、最後は泡風呂ご招待券五枚で話をつけた。

「バラしますよ」

 という坂井の一言がなければ……中川には逆立ちしたってできないようなまめな行動だった。

「それにしても、グレブルさん?」

「グレブリーです。アーマス・グレブリー」

「ああ、すまんすまん。そういや、昔の映画俳優にグレゴリー・ペックってのいたっけ。んーーー、大して似てないな」

「……」

 思わず絶句、しかし、

(ひょっとして笑った方が良かったのかもしれない)

 と思い直して、なんとか苦し紛れの笑顔を作った。

「ところでその、なんだ、グレブリーくん。きみ、昨日来るはずじゃなかったの。吉沢さんからはそう連絡もらってたんだけど……」

「……(^^;)。ワタシ、ニホンゴヨクワカラナァイ」

 昨日、あの宴会の余波による二日酔いで中川と共にダウンし、とてもじゃないが出社できなかったのだとは、さすがに口にするのがはばかられた。




Act3-2;女スパイは初出社する

 アーマスが佐々木建設の重役フロアで遭難しかけていた頃、もうひとりのスパイも行動を開始していた。
 日下部真奈美その人である。
 真奈美が今日、派遣先であるディア・グルッペ・シュペーア極東支部を訪ねる事になったのは、チャン・リン・シャンがこの日を指定してきたからだった。昨日は一日、二日酔いで呻いているアーマス(中川の方は例によってアスピリン1錠で回復していた)の看病をしていた。もちろん真奈美は、アーマスの三倍、中川と比較すれば七、八倍の酒を飲んでいたのに二日酔いどころか、

「やっぱお酒飲んだ次の日って、調子いいなあ」

 と、絶好調だった。

「ずるいぞ、この化け物」

 とは中川は言わなかった。
 言わなかったが、目がそう語っていた。

 まあ、ともかくそういう訳で、真奈美は伊島のDGS極東支部ビルに入った。
 すでに汗ばむ陽気である。バスを二回ほど乗り継ぎ、ちょっと道に迷って十分くらい歩いて目的地にたどり着いたときは、着慣れないスーツに身を包んだ真奈美はすっかり汗だくになっていた。
 このスーツは、とにかく何とか二十一歳に見せるように努力しよう、と坂井が買ってくれたものだった。気前のいいおじさんである(最も、金の出所は別のところにあるのだが、そんな事を真奈美が知るはずもない)。そして出がけに中川が三十分ほどかけて念入りにメイクをしてくれた。
 どうしてそんなものを持っているのかは謎なのだが、中川がどこからかエイボン化粧品の商品サンプルをごっそり取り出して見せびらかしたあたりから、怒涛のメイク地獄は始まった。

「これはアイシャドーか? それからこれは……何だか良く分からないな。頬紅はどこだ? まあいい。ピンクのアイシャドーで代用しよう。眉もちょっと揃えて……問題は髪型だよなあ。この尻尾みつあみじゃあんまりだ」

 完全に楽しんでいたのだと、真奈美は思う。
 リカちゃん人形にでもなった気分だった。
 それでもまあ、とりあえず……ディスコのお立ち台に昇る女子大生くらいには大人びたところで中川の魔の手から逃れる事ができた。

 だが、その苦労も……チャン・リン・シャンの前に出ると虚しいものだった。

「ずいぶん、お若いようだけれど……本当に二十一? 私には、十六ぐらいにしか見えないわ……」

 と、あっさりと見破られてしまった。
 しかし、そこでたじろぐ真奈美ではない。

「童顔なのかなあ。よくそう言われるんです。肌の手入れには気を使ってるしぃ。やっぱりぃ、肌の衰えって恐いですよね。三十過ぎると、いくらきれいな人でもがくっと肌が年老いるでしょう? そのあとにいくら頑張ってお化粧してもねえ?」

「……ムカッ」

 額に青筋が浮きそうなチャンを、あえて無視して真奈美は言葉を続ける。

「三十過ぎちゃうと、もうダメですよね。チャンさんって、お肌の手入れ、なに使ってるんですか? あたし、いろいろ聞いておこうと思って……。若いきれいな時を大事にしたいですよね、やっぱり。チャンさんだって、そうだったでしょう? やっぱり女は三十になるまでが花ですよね」

「………………………………私はまだ、二十九よ」

 女って、コワイ(^^;)。
 秘書課のオフィスで睨みあうチャン・リン・シャンと真奈美の間には、目には見えない稲妻が飛び交っているようでもあった。
 こんな風に誰かを挑発し、怒りをかき立てるなんてのは、もともと真奈美の性分にあった事ではなかった。
 だが佐々木建設を脅迫しているかもしれないDGSに単身乗り込んで行くという重大任務を命じるに当たって、中川からは、とにかくあーぱーな女の振りをしろと言われていたのだ。
 仕事は適当にやっつけて、あとは周囲の人間の噂話に耳を傾けておけばいい。絶対に勝手に行動するな、と珍しく真面目な表情で説明した。
 坂井からDGSの動きを聞いて以来、中川も独自に彼らのことを調べていた。
 真奈美にはその結果は、

「金持ちって、俺、キライよ」

 と、僻み半分の愚痴をこぼしただけだったが、実際にはかなりの内情を掴み、そして脅威と感じているようだった。
 真奈美を受付嬢として潜入させよう、と坂井に言い出したのも、DGSが脅迫者なのだという中川なりの確信を抱いたからに違いなかった。
 だがまあ、そういうムズカシイ事は社長さんと坂井のおじさんに任せとけばいいや、というのが真奈美の考えだった。
 敵陣に一人乗り込んで行く女スパイ。あーぱーな女子大生崩れの受付嬢を装って、その裏であくどい脅迫者を懲らしめる正義の味方という役柄は、真奈美の希望を90%くらいはかなえてくれるものだった。
 だから中川に言われた通りにこんな性格の悪い、馬鹿女の振りをしているという訳だ。やってみると、結構面白い。病みつきになりそうな気もするあたりは、ちょっと恐いが……。

 あとは絶体絶命の危機と、盟友の助けを借りてそれを乗り越えるという筋書きが付加されれば完璧である。
 いずれにしても、こんな美味しい役は、存分に楽しまなければ損だった。

「日下部さん、あなたの教育はこのチャンに任されているから、覚悟しておいて頂戴ね。ビシビシしごくから。とりあえず、一週間後に社を上げてのパーティがあります。その日までになんとか使いものになってもらわないと困るのよね。まずは、化粧の仕方からじっくり教えて上げるわ」

 察しのいい秘書たちは、そのチャンの一言で、

「あ、私ちょっと社長室に書類届けてきますね」

 とか、

「そろそろ郵便物出しいかなくっちゃ」

 とか……次々に用事を思い出し、蜘蛛の子を散らすように姿を消してしまった。
 残されたのはチャン・リン・シャンと日下部真奈美だけである。

「お姉さんが、綺麗にして上げるからね、真奈美ちゃん」

 その、チャンの顔に浮かび上がった表情には危機迫るものがあった、と後に真奈美は語っている。
 そして舞台をDGS極東支部秘書課オフィスに移しての、怒涛のメイク地獄パート2は幕を開けたのだった。
 時折、オフィスからは、

「きゃーーー、何するんですかぁ。お姉さんったらH!」

 なんていう真奈美の愉快そうな悲鳴が洩れていたという証言もないではないのだが、とりあえず密室と化したオフィスで何が起こっていたのかは謎である。

 そして数時間後、中川のメイクでは「あーぱーで尻の軽そうなイケイケ」みたいだった真奈美は、チャンの思い描く理想的な受付嬢近い出来に……つまり「適度につつましやかで適度にお利口そうな」女に変身していた。これならば、二十一ですと言っても何とか通用する。

「まあっ! これが私?」

 すでに真奈美は仕事を忘れてただ楽しんでいるだけである。
 鏡を見つめて目をお星様で光らせながら、芝居っ気たっぷりにそんな事を言う余裕さえあった。
 彼女は根っからこういう仕事に向いているんだと感服せざるを得ない。

 そしてチャンも、華麗なる変身を遂げた真奈美を見てご満悦といった様子だった。但しこちらには、真奈美の脳天気につき合ってやれるほどの余裕はない。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、タバコを口へ運ぶ。

「明日からはその顔で出社してね」

「何なの、そのイカ薫は」

 退社時間間際になって、イカの薫製、あわびの干物、干し海老、鱈の干物などを山程抱えて社長室に現れた神野麗子を見て、椎摩渚は呆れた表情になった。

「秘書課に訪問販売が来たらしくて……チャンの連れてきた新しい受付嬢が調子に乗って買いまくったんです」

「無能な女を連れてきたものね。まあ、いいわ。そこに置いていって」

「………………食べるんですか?」

「ダメ?」

「……いえ(^^)」

 微笑をもらし、麗子は1キログラム入り北海の珍味パックをふたつ、渚の机に置いた。

「株の買い占めの方はどう?」

「順調です。すでに20%が集まっています」

「……そう。今夜、西崎に会うつもりなの。伊島プリンスに部屋をキープしておいて。あなたの彼の方はどうなの?」

「さあ……まだなんとも。兄が恐くて後込みしているという感じです。でも、脈はあります。このまま説得を続ければ抱き込めますわ」

「あなたってコワイ女ね」

 渚はふっと少女のような微笑をもらした。
 そしてヴィジホンに手を伸ばし、すでにかけなれた佐々木建設西崎副社長室の直通番号をプッシュした。




Act3-3;そしてまた、ある日の『味の屋』

「千尋ちゃん、これ奥のテーブルの方にお願いね」

 今日も『味の屋』には紀美枝の明るい声が響いていた。
 昼食時はもう外していたのだが、店内は相変わらず一息着く間もないくらいの繁盛ぶりである。

「はあい。あと、ハンバーグ定食と納豆、それにおしんこおねがいしまぁす」

「はい。……あ、いらっしゃいませ」

 調理の手を止めて、ふと紀美枝が顔を上げた。

「こんにちわーーー」

 そこには、十五、六と見える迷彩模様のタンクトップを着た少女が、スポーツバッグをぶら下げて立っていた。

「お席の方へどうぞ」

「北海の珍味の訪問販売です」

「……はい?」

 戸口のところでつっ立っている香南をテーブルへ案内しようとした『味の屋』のバイト、シーラ・ナサディーンが、突然のその攻撃に言葉を詰まらせた。

「でも、その前に……ご飯ください」

「は、はい」

 香南は呆然としているシーラを横目にすたすたとテーブルの方へ歩いていった。
 シーラは気を取り直し、メニューを香南の前に突き出した。

「ご注文は?」

「ごはん」

「……ええと」

「あのね、ご飯なの。何とか定食とかじゃなくて、ご・は・ん。お茶碗にね、杓子でぺたぺたってしてね」

「ご一緒に、お味噌汁もいかがですか……?」

 ……と、思わず『まぐまぐバーガー』のアルバイト娘のような笑顔を浮かべてしまうシーラであった。
 味噌汁、という言葉に香南の顔がちょっと動揺したようにも見えた。

「えーーーとお」

 安っぽい財布をのぞいて、ひい、ふう、みい、と小銭を数える。
 が、ご飯をもらうのもはばかられるような金額しか持っていない。佐々木義一にスパイとの連絡係として雇われたのだから懐具合はよさそうなもんなのだが、銀行が大の苦手なのでなかなか金を下ろしにいかれないのだ。
 金を下ろす方法が良く分からずにキャッシュディスペンサーの前をうろうろしていると、どこからともなく背広姿に銀行の腕章をつけたおじさんが現れる。

「どうしたんですか、何か分からない事でも?」

 そう言って、声をかけてくる。
 どうでもいいが、彼らに何かを尋ねても、一度として要領を得る答えが返ってくる事はないのは何故なんだろう。銀行側は案内係の教育をもう少し考えて欲しいものだ。
 まあ、銀行への苦情はともかくとして、香南はあの案内係のおじさんがコワイのである。
 言ってみればちょっと高そうなブティックに冷やかしで入った瞬間に、口が達者でやり手そうな、たぶん美術系出身なんだろうな、と思わせるハウスマヌカンにぴったりと背後に張り付かれてしまったときのような恐怖を感じるのである。

(それでも今日はいい加減、行かなくっちゃなあ。明日っからご飯も食べらんないし……この服も、三日くらい洗濯してないしなあ)

 そう考えているうちにシーラが注文通りの「ご飯」を運んでくる。

「わーーい。ありがとお。あっ、オカカが乗ってる、うれぴーーー」

 思わずうるうると涙で目を潤ませる。
 ご飯一杯という余りにもびんぼぼな注文に同情した紀美枝が、特別にサービスしてくれたのだ。まるで一杯のかけそばのような美しいエピソードである。

「ううーーん、ご飯おいしいーー」

 そう本気の歓声を上げながら、ご飯をかき込む。不器用そうな握り箸。マンガの欠食児童のように顔にご飯粒が飛ぶほどの犬食いだった。思わず周囲の客が、

「………………」

 と、眉を寄せてしまうような、非常に汚らしい食べ方だ。
 一分とかからずにご飯を平らげると香南はすっくと立ち上がり、テーブルの上に食品サンプルを並べ始めた。

「あ、あのーー」

 シーラの言葉も香南の耳には入っていなかった。
 その辺にいた客を片っ端からつかまえて試食させ、値段の交渉を始める。客がなかなか買わないと分かると、次の手段はひとつしかなかった。

「踊りますっ! \(^_^)/」

 これである。

「あ、女将さん、お勘定」

「俺も、そろそろ行かなくっちゃ」

 香南が踊り始めるのを、黙ってみながら食事を続ける客などそうはいない。あっという間に、満席近かった店内はすっかり寂しくなってしまった。

「営業妨害じゃないの、これじゃあ」

 シーラは不機嫌だった。だがその不機嫌な表情などどこ吹く風で香南は踊っている。

「お店も空いてきたし、ちょっと休憩にしたら? シーラ」

 中嶋千尋は慌てていない。
 さすが、あの食品テロリストと恋に落ちる神経はひと味違う。

「あ、あたし一袋買って帰ろうかなあ。透さんが宴会やるときにいいと思うの。ね? シーラ。そう思わない?」
「同意求めないでよ」

「珍味屋さん、うちも頂くわ。おいくら?」

 カウンターから出てきて、紀美枝も声をかけた。
 めげない性格である。もっともこの際買ってやった方が面倒が少なくて済む、と思ったからなのかも知れないが……。
 そして残り少なくなった客の中には、その香南をじっと観察している一対の目があった。

「あー、ちょっと待って」

 千尋と紀美枝、それに押しまくってシーラにまで珍味パックを売りつけて意気揚々と引き上げようとする香南を、呼び止めたのは広川庵人だった。

「五パックくらいまとめて買って上げるからさ。ちょっとここで待っててよ。あ、女将さん、この娘に何でも好きなもん食べさせてやって。勘定は俺が払うから。――あ、しばらく電話使うけど、いい?」

 そう言って広川庵人は店の片隅に置いてあるカード式のヴィジホンへ走った。
 呼びだしたのはもちろん、ミハイル・ケッセルである。

 ミハイルが『味の屋』に現れたのはそれから約三十分後だった。
 その間に香南は和風ハンバーグ定食とカレーライス大盛り、それにコロッケふたつをぺろりと平らげ、店の片隅で週刊少年ダンプを広げた上につっぷしてくーくー眠っていた。




Act3-4;にこにこマーク(と、昔私は呼んでいた)

「おおーーーい、起きろ。新しい客だぞ」

「ほえ?」

広川の声に、香南が顔を上げる。
 まだ、目は醒めていない。

「きゃ……客?」

 紹介されたミハイルの方もたじろいでしまうが、しかたなく財布を出し、寝ぼけ眼の香南に金を差し出す。

「じゃあ、貝柱1パックね」

「しけてんなあ。1パックだけえ? せっかく待ってたのに」

 寝起きの香南は、機嫌が悪いのだ。
 まあ、いつもとあんまり変わらないってハナシもあるが……。

「おまえ、あんだけ食っといてそりゃあねえだろ」

 横から広川が口を挟んだ。
 挟みたくもなる。香南の底無しの胃袋に収まった和風ハンバーグ定食とカレーライス大盛り、それに5パックと言ったのになぜか7パックも売りつけられてしまった大量の北海珍味の代金を考えれば、三十分くらいの待ち時間などものの数には入らないだろう、と言いたい。
 紀美枝に1パック、千尋に1パック、シーラに1パック、広川に7パック。それだけ売ればすでに一日分のノルマはこなせているだろうに、と考えて、広川ははたとある事に気がついた。香南はすでに総量10キログラムにも及ぶ北海珍味パックを売っているのだ。
 それだけでも脅威である。
 あのちっぽけなスポーツバッグにどうしてそんな量の珍味パックが入るのか? いや、入るわけはない。それなのに彼女はまだ売ろうとしている。
 謎である。
 が、深くは考えたくなかった。
 考えると……なんだかとっても後悔しそうな気がする。(^^;)

「ううーん。まあ、いいっか。はい、帆立て貝柱ね」

「はいはい、どうもね。待たせて悪かった。お詫びにこれを上げよう」

 そう言ってミハイルはポケットからピースバッジを取り出して香南の赤いサスペンダーにつけてやった。黄色の地にシンプルで太めのラインでにっこり笑った顔が記されている、あれだ。

「ありがとーー。お兄さん、いい人だね」

 香南はもらったバッジを嬉しそうに見つめてころりと態度を変えた。香南には、物をくれる人はどんなに怪しげでも「いい人」に見える。
 そのおかげで子供の頃、誘拐されかかったことは自覚しているだけで三回もある。

「大事にしてやってよ」

「うんっ!」

 元気な返事を返す香南に、広川とミハイルはついにやりと笑いを浮かべてしまった。

 佐々木建設副社長のところへ取材に行った折り、広川は香南を目撃していた。ミハイルがナンパしようとしていた案内係の女に連れられて、広川たちと入れ違いに副社長室へ入って行ったのだ。

(臭い)

 と、広川はその時に感づいた。
 別に一週間も風呂に入っていなかった香南が、ではない。(それも確かに感じなかったではないのだが……(^^;))
 わざわざ副社長室に北海珍味の訪問販売を呼びつけるという不自然さが、だ。
 三千歩くらい譲れば、実は義一の好物が北海の珍味であり、訪問販売員を社に呼んでまで手に入れたがっているんだと言えないこともないのだが……。
 北海珍味の訪問販売と称して群島中の企業という企業、家庭という家庭を絨毯爆撃のごとく攻めまくっている森沢香南なら、彼とスパイとのパイプ役にはぴったりのはずだ。それを見過ごして、するめをかじっている佐々木義一ではあるまい。
 義一には無碍にあしらわれた広川だったが、それで諦めるような往生際のいい性格はしていなかった。なんとしても食い下がって、辰樹の死の原因を突き止めてみせる……そのためにもまずは『味の屋』のうまい飯を食って鋭気を養おう!!!
 と思っていた矢先に香南が現れたのだ。
 飛んで火に入る夏の虫とはこのことだった。
 ミハイルが香南にやったバッジには、ミハイル特製の超小型ビデオカメラが内蔵されていた。かつてASで行われた報道特番で活躍した、あの猫の首輪にセットされた三宅総研のカメラを子細に研究した上で作り上げたものだ。もちろん、これには自爆装置はついていない。(^^;)。やはり人命は尊重しなければなるまい。それが例え森沢香南であったとしてもだ。

 『味の屋』を出たあと、ミハイルはまっすぐ広川のアパートに戻った。
 DKを入った奥の六畳間にこたつと卓袱台が並べて置かれ、その上を様々な電子機器が占拠していた。
 それらはミハイルが出かけている間も仕事を続け、卓袱台の横に並べたモニターに軍事衛星から送られてきた映像を映し出していた。
 佐々木建設本社、DGS極東支部などをマークし、義一とその周辺の人物をチェックするためだった。さらに電波盗聴衛星を使い、無線電話や、すでに佐々木建設本社ビル内に仕掛けられている盗聴機からも情報を得る……という予定だった。
 しかしそれは、金も時間も手間もかかった割に、あまり成果を上げる事はできなかった。
 脅迫する側もされる側も、易々と覗き見されるほどに世間知らずではなかったからだ。防衛手段は彼らの方にもある。
 かくしてミハイルが手に入れる事のできた情報と言えば、総務部長が人事課の何とかちゃんと浮気してるとか、禿で出腹のシステム管理部長が女房に逃げられたとか言った、やくたいもない日常的な世間話レベルのものばかりだった。

 しかし、今度は初っぱなから場外ホームランをかっ飛ばしていた。
 森沢香南は『味の屋』を出たあと、あのバッジをしたまま隣の『こうじや』に入って行ったからだった。

「佐々木のよっちゃんがね。車変えたの知ってる? よっちゃんの新しいボディガードになったまーちゃん(注/マイヤーの事である)ってね、カッコいいの」

 ずかずかと店の奥の座敷に上がり込んで行って、香南は坂井を相手に世間話を始めていた。絶対に似合わないと断言できるあだ名だったが、「佐々木のよっちゃん」が、佐々木建設副社長佐々木義一のことなのだと気づくのは困難な事ではない。
 つまり、香南の胸につけたバッジの映し出すうらぶれた味噌屋こそが、佐々木義一のスパイなのだ。

「よっちゃんね、変な事言ってたよ。秘書の名前は高槻洋二だ……って。何のことか香南にはわかんないけど、坂井のおっちゃんに言えば分かるからって」

「アンディが偵察から帰ってくるまでに、どのくらいの情報が集まるか、楽しみだな」

 ミハイルは香南の甲高い声を聞きながら思わず含み笑いをもらしてしまった。
 卓袱台の横のモニターには、何故からラブホテルの裏口からこそこそと入っていく不倫っぽいカップルの姿が映し出されていた。

「これ、部屋の中も映せるかな……?」

 ミハイルはモニターの前に腰を下ろし、担いで帰ってきた北海の珍味に手を伸ばした。これからまた佐々木建設を探ってくるという広川に7キロ分の北海の珍味を押しつけられた事もあって、帰りはタクシーを拾うのも恥ずかしいような格好になってしまった。
 とりあえず貝紐の袋を開け、口へ運んだ。
 ラブホテルの部屋の中には噂に名高い回転ベッドが安っぽいピンクの布団とすでに下着姿になっている女を乗せてくるくると回っていた。




Act3-5;伊島プリンス

 西崎が椎摩渚の呼び出しに応じてホテルのロビーに現れたのは午後七時をまわった頃だった。
 平素はどこへ行くにもお付きを従えて歩く西崎が、珍しく一人であった。
 フロントを通して渚がすでに部屋に入っていることを確認すると、エレベーターへ向かう。
 最上階のロイヤルスィート。
 たった一晩で数十万の金を客に吐き出させるこのホテルの最上の部屋だった。
 渚との密会はすでに三回を数える。だが、渚が西崎に身体を許したのは最初の一度だけだった。それだけで、西崎をDGSの手駒に据えるという目的を達成するには充分だったのだ。
 西崎は、辰樹とは違った意味で貪欲な男だった。
 そして能力よりもその貪欲さで佐々木建設副社長にまでのし上がった。
 辰樹が宇宙開発という野望を抱いて社を拡張していく影には、常に西崎昌明の存在があった。実績を得るために金をばらまく辰樹の下で、手堅く……いや、ある意味では姑息な手段を使ってでも……金を掴んで行く西崎がいたからこそ、佐々木建設は三流の下請けから、奇跡的とも言える早さで業界のトップに君臨する企業になり得たのだ。
 相反する存在でありながら、二人は奇妙にバランスを取りながら歩んできた。
 西崎は副社長という肩書きに不足を感じてはいなかった。
 辰樹の掲げる野望を利用して社を拡張し、莫大な利益を手にする事にこそ、西崎の関心は向けられていた。彼に取っては、辰樹もまた傀儡に過ぎなかったのだ。
 しかし……傀儡と呼ぶには辰樹はあまりにも金のかかる存在だった。
 宇宙開発という分野に、西崎とて魅力を感じていなかったわけではない。
 だが、ケタ外れの金を必要とする上に、常に危険がつきまとい……そしてつぎ込んだ金を回収するまでに気の遠くなるような長い時間のかかるその仕事に、先陣を切って飛び込んで行きたいと思うほどに無鉄砲ではなかったのだ。
 そこが辰樹と西崎の……最も大きな違いだった。
 宇宙という巨大な荒野を開拓するのはフロンティアスピリット溢れる隣国に任せておけばいい。佐々木建設は都市を「生み出す」のではなく、「育てる」側に回るのだ。

 辰樹がバイオスフィア計画への参入を押し切ったとき、辰樹と西崎がぎりぎり均衡を保ってきたそのバランスは脆くも崩れさった。

 椎摩渚が接触を計ったとき、西崎はすでにバイオスフィア計画の買い手を模索していた。
 まさに渡りに船、というタイミングだったのだ。
 そして彼女の身体は、西崎の大食らいな欲望を満足させるのに充分な物だった。
 しかし、西崎が渚への愛欲に溺れ、彼女の下僕に成り下がったかというとそうではなかった。
 一人の女に執着するほど、西崎はつつましい性格をしてはいない。
 彼女を手に入れ……そしてその背後にあるDGSという巨大な権力をも自分の物にしたかった。かつて辰樹をそうして扱ったように、より大きな傀儡を欲していたのである。
 表面上は彼らにへつらう存在となることにも何の躊躇も感じてはいなかった。

「……これで、佐々木建設の株は20%がDGSの物になった訳だ」

 ソファに座った渚のウェストから腰にかけてのラインに、執拗な愛撫を加えながら西崎はため息をもらすように呟いた。
 DGSは株を操作して義一を牽制するため、すでに『広川書店』というダミー会社を設立。DGSにアルバイトとして出入りしている雅一を無理矢理その社長に押し込んでいた。
 この会社を使って個人投資家を扇動し、佐々木建設の株を買い占めるためだった。
 そうした画策はすべてDGS総務部長である神野麗子によって行われていた。渚はその計画を許可しただけだった。

(だがそれが……この娘をDGS極東支部マネージャーたらしめる資質なのだ)

 西崎はそれに気づいていた。
 三十前の若さで巨大企業の極東責任者となった渚は、だが、能力的には凡人に近い存在だった。
 彼女の武器は男の欲望をかき立てるその肢体であり、常に有能な部下を従える強運であり、そしてなによりビジネスの面で人を惹きつけるカリスマ性だった。

「あなたの持ち株を合わせれば、過半数を越えるわ。……辰樹の持ち株が宙に浮いている今ならばね」

「株値が上がりきったところで一気に吐き出そうと言うのか。世間が黙ってはいないだろうな。佐々木の株は暴落し、DGSには巨額の金が転がり込むんだ」

「明日には結果が出るでしょうね。その上で記者会見を開く積もりよ。世論が味方につくかどうかは行動によってではなく、そのあとのフォローによって決まるわ。そうでなくて? 西崎」

「……コワイ女だな、渚は」

 ついさっき、渚が麗子に向かって投げかけたのと同じ言葉を、西崎は口にした。

「目的のためなら、盟友の死をも望むあなたにそんな言われ方をするなんて……心外ね」

 服に合わせた淡い水色の扇で口元を隠し、渚は微笑を浮かべた。
 少女の無邪気な笑みのようにも見え……そして淫らな色香を漂わせる、退廃の微笑だった。

「特ダネを、頂いたな」

 同じ伊島プリンスのラウンジで広川はドライマティーニに口をつけ、満足げにひとりごちていた。
 ホテルで密会する佐々木建設副社長西崎昌明と、DGS極東マネージャー椎摩渚。
 辰樹の死への疑惑がなくても、それは売り物になるゴシップだった。
 ミハイルが同行していなかったため、ふたりの姿を収めたのは小型のインスタントカメラだったが、それでも証拠としては充分なものが撮れている。

「あとは北海珍味娘のほうからどんな情報が手に入れられるかだな。義一の使っているスパイが分かったら、そっちにもアプローチをかけよう」

 これまでに集まった情報をミハイルに確認しようと、広川は携帯電話を取り出した。
 自宅の番号を呼び出しながら、ふっと視線を周囲に泳がせる。
 ビールやケーキの並べられたショーケースの向こう……エレベーターホールに近いロビーの一角に一人の男の姿を認めたのはその時だった。

「……!!」

「ハロー? アンディ?」 (・。・;)  電話の向こうから、ミハイルの声が聞こえる。

「北海珍味娘が活躍しているよ。義一のスパイをやっているのは……。どうした? アンディ、何かあったのか?」

「……高槻、洋二」

「高槻?」

 そのミハイルの声は、広川の耳には入っていなかった。
 ロビーにいた佐々木義一の秘書、高槻洋二を追った広川の視線は、閉じるエレベーターの扉に遮られてしまった。

「確かに、高槻洋二だったんだ」

 慌ててラウンジから走り出す。
 高槻の乗ったエレベーターは最上階までノンストップで上がって行った。

「お客様、清算前にロビーにお出になられては困ります」

 広川を追うようにしてレジ係の女が走ってくる。

「……どうかなさったんですか? ご気分で?」

「どうした、アンディ。何があったんだ」

 レジ係の女の声と、電話の向こうのミハイルの声がだぶって響いた。
 そして広川庵人は……佐々木辰樹の後継者争いをめぐる謀略のもうひとつの一端を掴んでいた。




Act3-6;その男、マイヤー

『秘書の名前は高槻洋二だ』

 そう書いたメモを義一が香南に渡したのは、高槻が電話を取るために席を外した一瞬のことだった。
 ハインリヒ・フォン・マイヤーはその場に居合わせていた。

「……どういうこと?」

 メモを見ても、それがどういう意味なのか、香南には分からなかったようだった。
 だが、義一は敢えてそれを説明しようとはしなかった。

「そう伝えてくれればいい。それで分かる」

 きょとんと首を傾げている香南にそう言っただけだ。
 マイヤーは相変わらずそうした義一の画策に無関心を決め込んでいたのだが、その一片メモから、義一が抱き始めている高槻への疑惑を敏感に感じとっていた。
 ボディガードとして雇われるにあたって、義一はマイヤーに社内の主だった人物に対して行った身上調査の結果を見せていた。
 その中にはもちろん高槻のものもあったのだが、その結果を見る限り、高槻はシロである。
 調査の結果は……他の誰よりもきれいな物だった。
 三年前に入社してからずっと、秘書課に籍を置き、飛び抜けた実績もない代わりに、仕事に不慣れな新入社員が、誰でも一度は犯しそうなミスさえ記録には残っていない。
 社内にはこれと言った友好関係はなく、もちろん重役との縁故もない。
 実家は地方のごく平凡なサラリーマン家庭。
 現在は築地のマンションで一人暮らし。月八万の家賃をきちんと期日までに収めている。
 女関係にも目立つものはなく、金遣いも決して荒くはない。公共料金はすべて銀行引き落とし、ただの一度も延滞したことはない。ローンは現在は月に三万五千円程度。彼の給料から考えれば、無理のない金額である。
 だがその取り繕ったような潔癖さが、高槻の平凡な印象にひどくそぐわなかった。
 彼の身上書は、きれいすぎるのである。
 マイヤーはそう感じ、義一も抱いているのだろう高槻への疑惑を捨てずにはいられなかった。だがそれを義一の前で口にした事はない。
 ボディガードとして義一の傍らに常にぴったりとついていながら、マイヤーが憶測や自分の意見を口にした事は一度もなかった。
 口数の少ない男だった。
 だが、単なる身辺警護というだけでなく、脅迫者の目を引くための存在だという自分の立場を良く理解していた。平素なら目立たぬように気遣うところを、敢えて人目を引き、印象づけるように振る舞う。
 義一に大仰とも思える防衛のための装備を用意したのもそのためだった。
 防弾装備付きのリムジン、ボディアーマーの準備の為に本社に業者の者を呼びつけるなど、脅迫者への警戒を現すように次々と金を使った。

(しかし高槻が脅迫者の側の人間だとすると……ちょっと厄介だな)

 防衛だけでなく、反撃の手段が欲しい、とマイヤーは考えていた。
 軍事学部助教授である権限を悪用すれば、拳銃の一丁や二丁、何とかならないでもない。もちろん、今も昔も日本の銃刀法のうるささは変わらない。そうそう拳銃を乱用できるとはマイヤーも思ってはいなかった。
 敵の見えないこの戦いで、相手に銃を突きつけられる事態は想定しにくいが、それでもいざというときに攻撃に転ずる事のできる用意だけはしておきたかった。

  

 森沢香南のピースバッジによる情報は、その後も垂れ流し状態でミハイルの持つ液晶テレビに映し出されていた。

(……しかし、バイタリティ溢れる奴だなあ)

 そう、感心せずにはいられなかった。
 カメラをしっかりと構えて撮しているわけではないから、送られてくる映像は常にふらふらと揺れている。
 その上香南は走る。
 踊る。
 こけたりもする。
 三半規管は至って丈夫なミハイルだが、その映像を見ていると、つい気分が悪くなってきてしまう。

(乗り物酔いってのは……こういう状況なんだなあ)

 ビールを飲むのは、早々にやめるよりなかった。あとはもっぱら、帆立て貝柱とイカの薫製を胃袋に詰め込む作業を続けている。

 まあ、そう言う具合で一日が過ぎ去った。
 味噌屋での世間話の他は、特に収穫と言えそうなものはなかった。連絡係としての仕事はほとんどせず、一日中、北海の珍味を売りまくっているのだ。
 そしてとっぷりと日も暮れた頃、香南は人気の少なくなったある大学の施設に入って行った。
 群島区豊島……と言えば、賢い読者のみなさんには良くお分かりだろう。
 そう、香南は軍事学部の校舎へと入り込んで行ったのだ。

(……軍事学部もお家騒動に絡んでいたのか?)

 という、ミハイルの憶測は完全にハズレだった。
 実は、香南は住所不定である。
 商売の拠点となっている縁島の地下鉄駅のコインロッカーを三つ、四つ物置代わりに使い、夜は適当に寝る場所を捜して暮らしている。風呂は銭湯、洗濯はコインランドリー、トイレは公衆便所を使っている。(そのため、群島内の公衆便所にかけては、右に出る者はないほどの情報を蓄積している。桜の見える丘公園のトイレは比較的新築できれいだが、紙がない。炉島明神のはトイレットペーパーの紙質がいい……といった具合だ)
 寝るための場所……というのは結構難しいようにも思えるが、群島内には大学の施設がひしめいている。夜になればそうした施設はどこも人気がなくなってしまう。洋上大学ではその辺の規則がそれほどうるさくない事もあって、完全な無人になることは少なかったが、それでも香南の一人や二人、潜り込んで眠るくらいのスペースはあるものだ。
 それが今夜は、たまたま軍事学部を選んだと言うだけのことだ。
 開いていて、寝心地の良さそうな部屋を捜して、薄暗くなった構内をうろうろする。一時間くらいもうろうろしているうちに、目的は家捜しに変わっていたりもする。
 珍しそうなものをいろいろ引っ張り出してみる。
 それが本物の拳銃や手榴弾だったりもするから、軍事学部は恐い。

(こいつは、浮浪児か……)

「どこで寝ようっかなぁ」

 とか、

「毛布も置いてないなんて、シミったれてるってもんよねえ」

 なんていう独り言をぶちぶちと言っているのを聞いているうちに、ミハイルも香南が軍事学部に潜り込んだ意図を掴んできていた。

(それにしても、軍事学部をねぐら代わりに使うとは……。大物なのか、よっぽどの阿呆か……。うううーーーーん、後者だろうなあ)

 やがて、画面ががくんと傾いた。
 薄暗くなった画面に、本棚が真横になって映っている。
 香南は、膝を抱えて横向きに眠るのが癖なのだ。

「彼女の一日はこれで終わりかあ……」

 ため息をつき、ビールを取りにダイニングの方へ歩いていく。

「なあんか、肩こっちゃったよなあ。アンディは帰ってこないし……。何やってんだろうなあ? ……伊島プリンスでいい女でも引っかけたのかなあ。そう言えばさっきの電話、何だったんだろうなあ。高槻洋二……高槻? ううううーーん、どっかで聞いたような気が…………」

 ぐびり、とビールを一口飲み、缶を持って六畳間に戻る。
 軍事衛星からの映像を撮しているモニターには、深夜の佐々木建設が映し出されていた。残業しているらしい人影がまだ明るい室内にちらちらと見えている。

「たかつきようじ、誰だっけなあ」

 その時だった。香南のピースバッジが映し出す光景に変化が起こった。
 香南が寝ている部屋の電気が、突然ついたのである。
 香南は寝ている。
 まだ寝ている。
 ……まだ寝ているらしい。(^^;)
 ようやくもぞもぞと身体が動いた。
 そしてその視界に……金髪角刈りの大男、軍事学部助教授ハインリヒ・フォン・マイヤーの姿が飛び込んできた。
 がばっと身体を起こす。
 画面の変化を見ていれば、そうした香南の動きは手に取るように分かった。
 ミハイルが度肝を抜かれたのはそのあとの、香南の行動である。

 マイヤーは愛用の拳銃GLOCK19を持ち出すために、自分の教授室に、忍び込んだのだった。
 彼にとっても、その時起こった事態は、想像を絶するものだった。

「憧れの君っ!」

 という、悲鳴に近い叫び声。
 そして次の瞬間、ミハイルの見ている画面は(正確には香南は、だが)その金髪角刈りの男に向かってダッシュした。
 そしてすかさず、タックル……したんだと思う。
 画像が思いっきりぶれ、元に戻ったときには助教授室の薄汚れた天井が画面一杯に広がっていた。

 返り討ちにあったらしい。

「お、おいっ!」

 事態をようやく判断して……自分が弾き飛ばした相手が、スパイとの連絡係である北海珍味娘だと気づいて、マイヤーはさすがに慌てた。
 突然予告もなしに飛びかかってくるもの……それらをすべて敵とみなし、即座に反撃に出る、という訓練が、マイヤーの身体にはしっかりとしみこんでいた。そういう習慣は、こういう時には災いする。

「お、おい」

 香南は、白目を剥いて倒れていた。
 つま先で、ちょっとこづいてみる。
 反応は全くなかった。




Act3-7;困惑するスパイたち

 十五分経過。
 香南はまだ目を覚ましていなかった。
 マイヤーにおもいっきりぶん殴られた顔が、そろそろ腫れ始めている。息はあるので、死んではいないらしい。

「お、おい」

 この、マイヤーの台詞はすでに五十回を越えている。

 平素は沈着冷静なマイヤーだが、今はちょっと、いや、かなり……すごく慌てていた。香南を殴ってしまった事もそうなのだが、本当の原因は、もう一歩手前のところにある。

『憧れの君っ!』

 ……という、アレだ。
 実は香南は先だって、マイヤーに告白をしている。
 正確には、告白を「したつもり」になっている。
 だが、どこに、

『頭撫でさせて。タックルは我慢するから』

 なんて初対面のガキに言われて、それが恋の告白だと思う馬鹿がいるだろうか?
 白馬にまたがった王子様を夢見る女の子は、二十一世紀も花盛りとなった現在でも、決して少なくはない。
 香南も、そういう憧れを胸に抱いていた。
 否、修正を入れよう。それに「似た」憧れを抱いて、だ。物事は正確に伝えなければならない。
 白馬の王子様に思いっきりウェスタンラリアットかましたい。
 それが香南の身上だった。
 よくよく迷惑な性格である。全国の王子様諸氏には、くれぐれも白馬に跨って香南に近寄らない事をお勧めしたい。
 しかし、相手が悪い。
 結果的には、白馬の王子様(……マイヤーのことである。クスクス)に右ストレートを食らうという、予定外の事態が起こってしまった。

(ふられちゃった……)

 気絶する瞬間、香南が抱いた思いは、その一語に尽きる。

 しかし、マイヤーの方にはそんな積もりは毛頭なかった。
 ただ純粋に、慌てていたのである。
 何しろ長年女っ気のない場所で暮らしていたので、突然の告白に焦りまくっているのである。

(何とか、早く何とかしなければ……)

 とにかくここではマズイ。
 ここに香南を放置していくと、GLOCK19を持ち出した事が表沙汰にならないとも限らない。
 家に連れていく……というのも考えついたのだが、それは自殺行為というものだ。
 目を覚ました香南にまたぷっつんなアプローチをかけられたら、発狂してしまいそうだった(^^;)。

「そうだ、それがいい」

 そう、大きく呟くと、マイヤーは香南の身体を荷物のようにぶら下げて(せめてこんな時くらい「抱いて」行って上げればいいのに、と液晶テレビにくぎ付けになっているミハイルは思った)助教授室を出た。

  

 アーマスが帰宅したのは、午前二時近くになってからだった。
 一度は退社して、再び人気のなくなった職場にもぐり込み、コンピュータの端末を操作して西崎昌明と佐々木浩二に関する情報を引き出したのだ。
 こうして情報を引き出すために、入社第一日目と言うのに終業時間の大半をウィルスを仕掛けるために費やしてしまった。
 アーマスが仕掛けたのは多数のユーザーで利用されているLANのアクセス領域の障壁を破壊するプログラムである。情報保護のため、LANでは、領域侵犯のチェックは厳しい。そのチェックをかいくぐって情報を引き出す事は、アーマスにとっても容易な作業ではなかった。
 おかげで割り当てられた仕事はほとんど進まず、同じシステム部の連中には、早々と、

「使えねえ奴……」

 というレッテルを貼られてしまったようだった。
 不本意な事だが、しかたない。スパイとしての仕事が終わってからも、ここで仕事を続けられるかも知れないという淡い期待はそうして第一日目からあっけなく粉砕された。
 まあ、それはいい。
 仕事が終わったら中川を何とか動かして佐々木義一に、

「バラしてもいいんですかい、旦那?」

 とか言って詰め寄り、就職口を捜してもらおう。
 だんだん中川に感化されつつあるものの、アーマスはまだまだ善良である。

 アーマスが今日得た情報は、とりあえず三つほどだった。
 まずは佐々木浩二のもとをDGSの神野麗子が訪ねてきている、というもの。もちろん、この情報は一度削除されていた。だが、コンピュータの削除とはあまりあてになるものではない。アクセス・ポインタを書き換えて検索上は削除されている事になっていても、実際には別のデータが上書きされるまで、物理的には残っているのだ。アーマスが釣り上げたのは、そういう情報だった。
 そして西崎昌明の隠し口座に広川書店から一千万単位の金が二回に渡って振り込まれている事。
 同じ広川書店の名で、浩二の隠し口座にも三百万円ほどが振り込まれていた。
 浩二の口座に振り込まれた金については、手をつけた形跡は全くなかった。
 広川書店という会社についても調べようとしたのだが、強力なガードが施してあり、アーマスには全く歯が立たなかった。

「とりあえず、初日の成果としてはこんなもんか」

 アーマスはウィルスの痕跡を消し、入ってきたときと同じように裏口からこっそりと佐々木本社ビルから脱出した。

 そして自宅に戻ったとき、アーマスは自分の部屋のドアの前に、毛布にくるまれた物体が転がっているのを発見した。

「……? なんだ、あれ」

 近付いて毛布をめくってみると、森沢香南の顔が現れた。
 理由は不明だが顔半分がかなり無惨に腫れ上がり、死んだようにぐったりとしている。
 実際、アーマスは死んでいるのだと思った。
 が、すぐに、

「うぅぅぅぅん」

 と、苦しげにうめき声をもらしたのでほっと胸をなで下ろす。
 ふと見ると毛布には、

『この子をよろしくお願いします』

 と走り書きされたメモが安全ピンで止めてある。

「……………………」

 アーマスは言葉を失った。
 これでオムツと粉ミルクの缶でもそばにあれば、カンペキに捨て子である。

  

 香南が目を覚ましたのは、アーマスに引きずられて部屋に入り、ベッドに放り投げられたときだった。

「あれえ、どうしてグレちゃんがいるのお?」

 ぼけている……もとい、寝ぼけている。

「ここはあ、俺の家なの! 香南こそ、何であんなところに寝てたんだ?」

「……グレちゃぁん」

「それ、やめてくんない? 何度も言ったろ、俺はアーマスっての」

「失恋って、切ないね」

「はあ?」

 アーマスがあんぐりと口を開けて、香南を振り返ったとき、電話が鳴った。

「ちょっと待って。誰だろうな、こんな夜中に。――ハロー? 急用じゃないんなら、時計見てかけ直せよ。……え? ああ……いるけど。YOUの名前は? ……分かったよ。泣かすなよ、これ以上」

 森沢香南を頼む、と言ったきり、相手が黙り込んで名前も言わなかったので、それが香南の言う「失恋」の相手なのだろうと気づいて、アーマスは受話器を香南に突き出した。

『すまなかった』

 そう、一言だけ言って電話は切れた。
 マイヤーの声だった。
 そしてその声を聞いた途端、香南の表情がパッと明るくなった。今鳴いた烏が……という奴だ。
 まだまだ脈はあるっ!
 そう香南は確信していた。あの右ストレートこそ、(香南のウェスタンラリアットがそうであるように)彼の愛情表現に違いないわっ!

 極めてご都合主義な性格なのである。

 その頃マイヤーは、アーマスの住むマンションの前の公衆ヴィジホンのボックスでくしゃみをしていた。大方、アーマスと香南が俺の噂をしているのだろう、と思った。しかしマイヤーは、その電話によって、墓穴を掘ってしまった事に気づいていない。

 そして広川のアパートでは、ミハイルがビール片手にまだ液晶テレビを見ていた。

「……病みつきになりそうだな(^_^)」




Act3-8;ブレーメ・シュトルム作戦

 チャン・リン・シャンの立案によるその作戦はブレーメ・シュトルム――華の嵐作戦と名付けられていた。
 つまり先日極東マネージャー椎摩渚が伊島プリンスで西崎にもらした、広川書店による佐々木建設の株の買い占めである。
 陣頭指揮を取った神野麗子の対応は早かった。
 株式市場が騒然とし始めた頃を狙って記者会見を行ったのだ。
 もちろん記者会見には代理の者を向かわせた。人材派遣会社ゼロワンSTAFFから派遣されてきた受付嬢見習い・日下部真奈美が、その代理人だった。

「ええーー、記者会見なんて困りますう。そんなところに出て、何言ったらいいかなんてあたし……分かりません」

「日本語が読めれば問題ない。急げ」

 麗子の態度は有無を言わさぬ強いものだった。
 記者会見で読み上げる為の文章を書いたメモを真奈美に渡し、用意してあった車に押し込むようにして乗せる。
 中川か坂井に電話をしたい、と思ったのだが、そんな余裕はなかった。
 麗子の用意した車には車載ヴィジホンもあったのだが、警備課の屈強な男二人に挟まれて座られてはどうにもならない。

「これは特別ボーナスよ。くれぐれもよけいな事は喋らないように」

 そう言って、二十万円ほどがキャッシュで入った封筒を真奈美の膝に投げると麗子はさっさときびすを返してしまった。

(あああーーーーん、どうすればいいの、社長さぁん)

 記者会見の会場は、伊島プリンスの「鳳凰の間」だった。
 小規模なパーティの会場などとしてよく使用される部屋だ。
 真奈美が入ってきたとき、室内はすでに業界紙の記者などで溢れ返っていた。ASのテレビカメラも来ている。特報として生中継されているらしい。

(テレビ見てたら……助けに来て、社長さんっ!)

 両わきを黒い背広の男にガードされて入ってきた真奈美に、一斉にフラッシュが焚かれた。

「今度の株の買い占めはどういうことなんですか?」

「すでに乗っ取りとの噂も流れていますが、佐々木辰樹氏亡き今、佐々木建設の経営に積極的に関与していくお積もりですか?」

「この時期、佐々木建設の株を買い占めたということは、次期社長選出の決定を下すためという見方もされていますが……」

 矢継ぎ早に質問が浴びせかけられる。
 その中には広川庵人の姿があり……そしてもう一人……いつの間にか広川書店の社長となっていた雅一の姿があった。

「どういうことなんだ」

 広川は雅に詰めよるようにして言った。

「分からない。分かるもんか」

「おまえの画策じゃないだろうな?」

「俺はしがないバイトだぜ? 上層部が何考えてるかなんて分かるわけないじゃないか」

(この記者会見が終わった時点で……彼らは買い占めた株をすべて売りに出す積もりだ。そうなれば佐々木建設の株は暴落する。防衛買いのために、佐々木建設とメインバンクは巨額の資金をつぎ込まなければならないだろう)

 それこそが、彼らの目的なのだ。
 広川はすでにそう感づいていた。

「と、当方としましては……投資のい……一環として株式を購入したものであります。今回、たまたまその銘柄がひとつの企業に集中しただけであり、が…………あ、すいません。該当する、企業への経営の参加は……まった……まったく考えておりません」

 真奈美の震える声が、何とか原稿を読み上げた。
 ここに来る車の中で二、三度の練習をしただけだから、これでも上等な出来だったと言わざるを得ないだろう。

「それが世間に通用する言い訳だと思うんですか? 20%もの株を所有する以上、株主として次期社長の決定権を持っているんだ」

「バイオスフィア計画はこのまま続けられるんですか? 社内にはすでに撤退の動きもみられるとか……」

「それは私にはお答えできません」

 真奈美はやっとのことでそう答え、警備課の男にこづかれるようにして席を立った。
 出口へ向かおうとする三人を、記者たちがわっと囲む。

「ノーコメント、ノーコメントだ」

 浴びせかけられるフラッシュから真奈美を守るようにして警備課の男は怒鳴った。
 それは記者たちに対して言っているのと同時に、真奈美にこれ以上の発言をするなと命じているようでもあった。

 そのニュースを、中川は自宅で見ていた。
 最後までは見ずに、部屋を出た。
 半年前に泥酔運転で捕まって免許を失効して以来駐車場で埃をかぶっていた車に飛び乗って伊島プリンスに向かう。だが、伊島に向かう道路は事故による渋滞で30キロ以下ののろのろ運転という状況だった。

(……畜生っ!)

 カーテレビに目をやった。
 もうニュース番組は終わっている。記者会見はほんの五分ほどで終わってしまったのだ。もう記者たちも伊島プリンスを引き上げたに違いない。

 そして、坂井も『味の屋』で偶然そのニュースを見ていた。

「まずいな……」

 小さく、呟いた。その言葉をシーラ・ナサディーンが耳ざとく聞きつけていた。

「珍しいわね、坂井さんが紀美枝お母さんの料理にケチつけるなんて」

「いや、料理の話じゃない。ちょっと……ちょっと電話を借ります」

 シーラはそれがテレビのニュースの事だろうかと、テレビの方を振り返った。が、すでにニュース番組は終わっており、歯磨き粉のCMが流されていた。

 坂井は緊急事態と考えて佐々木建設本社ビル副社長室の直通番号をプッシュした。
 もし西崎があのニュースを見ていたら……いや、必ず見ているはずだ。だとしたら、真奈美の顔を見ていたら、気づかないわけはない。彼女が、辰樹の娘である事を……。

「坂井です」

「申し訳ございません。副社長はただ今席を外されています」

「副社長……? 田中さんちじゃないんですか?」

「番号をお間違えのようですね」

「おかしいですね。滅多にこんな事はないのに。すいませんでした。それじゃあ」

 坂井はそう言って電話を切った。
 後悔が針のように心臓に突き刺さる。今のが義一の言っていた「秘書の高槻」であったに違いない。その高槻に坂井、と名乗ったのを聞かれてしまった。
 気づかれたかもしれない。その不安がどす黒く坂井の胸中に広がっていた。

 副社長室のデスクに座った高槻は、受話器を置き、デスクの上に置いてあった小型液晶テレビのスイッチを切った。

「坂井……それが、義一副社長のスパイの名か……」

 平素穏やかな高槻の顔に、せせら笑うような笑みが浮かんだ。

 そしてもうひとり……諏訪操はDGS企画調整局の自分のオフィスで、記者会見の様子を映し出すテレビモニターを見つめていた。

「やるものね、神野さんも……」

 そう呟いてモニターを切ると、ヴィジホンに手を伸ばした。

「もしもし? お祖父様? 操です」

 ヴィジホンのモニターには、政財界の大物として知られる諏訪周三の顔が映し出されている。厳めしいその風貌は、だが、目の中に入れても痛くないほど可愛がっている孫娘、操の顔を見て和らいだ微笑をたたえていた。

「帰国後のご挨拶にも伺わないで、申し訳ありませんわ。実は、操、お願いがございますの。今度、操の会社でちょっとしたパーティを企画しているんですけど……招待客の皆様、お忙しいご様子で、なかなかいいお返事頂けませんの。お祖父様からも、お口添え頂けないかしら……? お願いいたしますわ、呼んで頂くだけでいいのよ。ええ。……ええ、ありがとう、お祖父様。ご無理お願いして申し訳有りません。いいえ、大丈余よ、操ももう子供じゃないんですもの。……ええ。近いうちにお伺いするわ。久しぶりでお祖母様の点てて下さったお茶でも頂きながらお話したいわ。ええ。それでは、今仕事中ですので……。ええ必ずお伺いします」

 操は受話器を置いた。

「さてあとは何をしようかしら……? でも、神野さんの策が成功してしまえば私が手を下す必要なんてなくなってしまうんでしょうね。下手に動いてやぶ蛇なんて事になってもこまるもの……あとは彼女のお手並み拝見って感じかしら」

 小さく呟いて、操はつけっぱなしになっていたコンピュータのモニターに目を戻した。そこには佐々木建設とバイオスフィア計画に関する調査の結果が表示されていた。
 神野の動きが気になっていた。
 彼女はこの記者会見の裏で、佐々木建設の株を一気に売りに回っているはずだ。




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