Act6-6;ジャーナリストの復讐
 新たな噂を誘発することになるのは充分に承知していたが、もうそれについては諦めたとばかりに、マイヤーは香南を連れて豊島マリーナの近くで唯一終夜営業しているファミリーレストランに現れた。
 午前一時を過ぎていたが、店内にはサバイバルゲームに興じていたと思われるエアガンを持った軍事学部の学生の姿が見られた。

「………………」

 迷彩模様のタンクトップにM60を背負った少女を連れて入ってきたマイヤー助教授を見て、店内の全員が言葉を失った。

「あ、あれがウワサの不治の病の美少女か……?」

「俺にはただの元気なガキにしか見えねえぞ」

 一瞬の沈黙の後、窓際の席でメニューに顔を押しつけ、足をぶらぶらさせている香南を盗み見る学生たちの間にはさまざまな憶測の言葉が飛び交ったが、マイヤーはそれらのすべてを無視していた。そんなものにいちいち耳を貸していたのでは寿命が縮む。

「大した食欲だな」

 ようやく注文を決め、ウェイトレスにハンバーグ定食(ライス大盛り)とチキンバスケットを頼んだ香南に、マイヤーはすでに運ばれてきていたコーヒーに口をつけてあきれ果てた口調で言った。

「えへへ、そう?」

 香南としては、もう一品スパゲッティかグラタンでも注文したかったところだった。だが、さすがに「憧れのきみ」を目の前にして食欲に任せて食いまくると言うのは嗜みがないな……と涙を呑んで堪えたのだ。

「で……? 何なんだ、そのM60は」

「買ったの」

「盗んだとは思ってない」

「えへへ、欲しかったんだぁ。今日ね、病院にお金払うのに銀行行ったから……」

「それを持って銀行に行ったんじゃあるまいな?」

「違うよぉ。ついでによっちゃんにもらったお金降ろして玩具屋さん行ってきたの。前からお金貯めて買おうと思ってたんだ」

「……まさか、それを見せびらかしに来たのか?」

「それもあるけどね、あのね、香南……軍事学部に入ろうと思って」

「ぶっ……」

 その途端、マイヤーは飲みかけのコーヒーを吹き出した。

「………………………………軍事学部のキツさは並じゃないぞ」

 明らかに、そのマイヤーの口調は動揺していた。

「うん。でも大丈夫。香南、まーちゃんと一緒にいるためなら、何だって我慢しちゃうっ!」

「…………(大声を出すなっ!)」

 だが、そんなマイヤーの抵抗もすでに遅すぎた。
 1キロメートル四方に響き渡るんじゃないかと思われる香南の声を押し止めることはできはしない。

「おおおおおおおおお……っ!」

 店内の客の間にそうどよめきが起こる。
 心なしかその数はマイヤーと香南が入ってきたときより増えているようにも思われる。

(……佐々木義一のボディガードが終わって講座を再開したら……こいつら全員、血反吐を吐くまでシゴいてやる……っ!)

「香南……お前は歳はいくつだ」

 運ばれてきた料理をがっつき始めた香南に、マイヤーが尋ねた。実際のところ、マイヤーはこれまで香南の年齢をはっきりとは知らなかった。
 誘拐事件の時に義一が真奈美と香南の事を「年頃の娘」と言っていたのさえ不思議に思っていたのだ。
 ただでさえ日本人は若く見える。
 香南などマイヤーの目から見れば小学生と言っても通用しそうな外見なのだ。(内容も小学生並みだと思っていない事もないのだが……)

「……十五だよ。八月の末にねえ、十六歳になるの」

(いずれにしろ、入学できるのはまだ先の事だな)

 そう気付いて、マイヤーはほっと胸を撫で降ろした。

「香南ね、高校に行ってないからまずは高校に入って……転入ってできるのかなあ? 良く分かんないけど……それで三年生になったら、軍事学部に入学させてくださーいってお願いしようと思うの」

「…………」

「香南ね、軍事学部に入ってまーちゃんといっつも一緒にいたい」

 香南が珍しく真顔でマイヤーを見つめた。
 マイヤーの顔をのぞき込むようにして身を乗り出す。

「おおおおおおおおお………………っ!」

 店内が、再びどよめいた。
 その数が……さっきより増えているように思えるのは気のせいではないだろう。

「…………」

「まーちゃんって……寡黙だね」

「寡黙なのは最初から分かってた事だろう?」

「えへへ、そこが魅力」

 そう言って、香南はえげつないと表現するのがもっともふさわしいだろうと思われる笑顔を作った。

「…………」

 マイヤーはめげた。
 そして再び、

「おおおおおおおお……っ!」

 すでに店内は満席状態である。
 その上まだ、三台ほどある店内の公衆ヴィジホンからはフル稼働しており、学生たちが仲間をかき集めるための電話がひっきりなしにかけられていた。

「…………まあ、止める権利は俺にはない。個人の自由だからな」

 マイヤーは必死に平静を保とうとした。
 ここで慌てれば、飛んで火に入る夏の虫……店中に溢れ返って聞き耳を立てている連中に面白おかしくはやし立てられる火種を作るだけだ。

「待っててくれる? 香南が入学するまで」

「……それは返答しかねる。香南が軍事学部に入学するなんて、いつになるか分からんからな。俺がいる間に来たいのなら、なるべく早く入学する事だ」

「うんっ!!! 頑張るっ!!!!」

「………………(大きな声を出すなと言っているっ!)」

「おおおおおおおお……っ!」

 すでにそのどよめきは、客の学生ばかりでなく、マイヤーの噂などこれっぽっちも知らないだろうと思われるウェイターやキッチンの奥の調理師にまで及んでいた。

 そのどよめきの中で……マイヤーは香南が軍事学部に入学したときの事を考えていた。男でも根を上げる軍事教練に、ちびでトロくさそうな香南が混じってとてとて走っているところを想像する。
 そして……めげた。

 ……かくしてマイヤー助教授の噂はさらにエスカレートすることとなった。
 翌日の昼過ぎには、

『マイヤー助教授が北海珍味売りの森沢香南(15)に言い寄られている』

 という「薄幸の美少女」説や「盗んだ仔牛」説に比べると格段に真実に近い新しい噂が軍事学部を中心に広まり始めていた。
 噂が、信じられないほどのスピードで広まっていく裏に、ジャーナリスト広川庵人の存在があることを、マイヤーは知る由もなかった。




Act6-7;それぞれの道
 社長就任式を明日に控え、義一と浩二は瑠璃島を訪れた。
 バイオスフィア計画の視察、というのが表向きの名目だったが、実際には社長就任が臨時株式総会で承諾されたこと、そして浩二が副社長を辞任するということを白葉に報告すると言うのが一番の目的だった。

「明日の就任式にはおいで頂けますか」

「私がそんな晴れがましい場所へ出て行っても、何もきみのためになるようなことはできんよ。義一くん、それはきみの戦いだ……そう言ったはずだろう? 私には、私がやるべきことが、私にしかできないことが山積みになっているんだ」

「……そうですね」

 そう言って宙を見つめ、義一は呟いた。
 白葉の答えは……聞くまでもなく分かっていたことだった。

「おめでとう、義一くん。私がきみに言えるのはそれだけだよ。あとは辰樹さんの時と同じように互いにいい仕事をするだけだ」

「ええ……教授を失望させることのないよう誠意を尽くします」

 その義一の言葉に嘘がないことは、白葉にはよく分かっていた。
 しかし、義一を……いや、佐々木建設をとりまく状況が決して甘くはないのだと言うこともまた白葉は知っていた。
 バイオスフィア計画からDGSは手を引いた。
 そのことは今日、正式に椎摩渚から白葉のもとにかかってきた電話で、渚自身が語ったことだった。
 だが、すでに下請け会社の一部には佐々木建設を離れ、DGSからの仕事を受ける意志を明らかにしている中小企業もあった。
 諏訪操が佐々木建設からの離反をほのめかした企業には、操と義一の会見の直後に丁重な謝罪状が送られていたのだが、バイオスフィアの利権とは無関係に、DGSとの新たな関係を望んだ企業も決して少なくはなかったのだ。
 そうした中小企業の離反は、佐々木建設にとって操が考えていた以上のダメージを与える事となった。

 だが……株の暴落も、西崎の失踪や社員の殺害といったスキャンダルも、義一の堅い意志を崩すことはできなかった。
 そして今度も、義一は決して膝を折ることはないだろう。
 白葉が考える以上に……そして辰樹の望んだ以上に……浩二の夢見た以上に、義一は佐々木建設を大きな器に育て上げて行くに違いない。
 白葉はそれを……確信に近い予感として感じていた。

「で、浩二くんはこれから……?」

「ええ。就任式で辞任を発表するつもりです。水族館を作る準備として、とりあえず水産試験場の鈴木教官の下で研修生として籍を置くことになりました。教官も快く受け入れてくださって……」

「うむ……そうか。それもいいかもしれんが、実はきみに紹介したい人がおるんだが……」

 白葉には何か別の考えがあるようだった。

「紹介……?」

「バイオスフィア計画の技術を海洋開発に応用したいと申し出ている女性がいる。すでにニュージーランドでサルベージとレスキューの『水天宮』という会社を営んでおられるんだが、そのシンクタンクを今度この人工群島に移すことになったそうだ。海洋開発と東京湾浄化計画の関連事業として海洋博物館……もしくは水族館を併設したいという希望もある。経営に通じ、しかも海洋開発に夢を馳せる人間としてきみのことを知ったらしくてね。ぜひきみを、取締役として迎えたいということなんだが……」

「僕を……取締役として……?」

 浩二は思わずそう聞き返した。
 水族館だけでなく、東京湾浄化計画というもう一歩進んだ計画に携わる事ができる。それは浩二にとって、思ってもみない魅力的な誘いだった。

「どうするかね、彼女に……マイア・I・リークという女性だが、一度会ってみる気はないかね?」

「そんな……僕の方からお願いして紹介して頂きたいくらいです。ぜひそのリークさんという方に会わせて下さい」

「そう聞いて安心したよ。海洋開発計画には水産試験場も絡んでくるだろう。鈴木くんには私から話してもいい。彼の事だ、一も二もなく賛成してくれるとは思うが……」

 話題が海洋開発の事に移り、浩二の表情は義一が驚くほどに生き生きとしたものに変わっていた。
 佐々木建設の副社長室で常に萎縮していた弟とは……まるで別人のように思える。そんな浩二の表情を見るのは、ずいぶん久しぶりの事のような気がした。

 

 建設中のバイオスフィアJ−Uの前で話し込んでいる三人の姿を、マイヤーは離れたところから見守っていた。今朝、出勤するまで香南につき合う羽目となり、結局一睡もしていない。だが……単に徹夜をしたという以上に疲労していることを、マイヤーは決して表に出そうとはしなかった。
 いつも通りの無表情で、義一の身辺に気を配っている。
 佐々木建設を離れて新しい自分の道を歩む弟の姿を見つめる義一の表情は、これまでマイヤーの見慣れた、敏腕冷酷な青年実業家のものではなかった。
 そして今こうして見ているのが……義一の本来の姿であるに違いない。
 彼は決して冷酷なタイプの男ではない。
 家族を思いやり、会社という組織を守る包容力を持った男だ。
 マイヤーは三ヶ月もの間常にその影に寄り添って――父の死に対する疑惑が……彼の手から会社を奪い、宇宙への夢を奪おうとしたさまざまな敵の存在が、義一を追いつめ、時として冷酷と思える決断を強いてきたのだと気付いた。
 あんな形でDGSと結託し、裏切る事をしなければ……義一は西崎を副社長の座にとどめたままで社の拡張を計画していたに違いなかった。

 明日……義一が佐々木建設社長に就任したその時点で、「次期社長・義一」の生命を守るというマイヤーの仕事は終わる。
 マイヤーは再びもとの……軍事学部助教授としての生活に戻るのだ。
 そして義一もまた、新しい自分の道を歩き始める。

 そこから先には恐らく、義一とマイヤーの人生に接点はないに違いない。




Act6-8;嵐の予感
 聖武士がアブシンベル縁島を訪れたとき、中川は留守だった。今日は朝から鎌倉へ行くと言って出かけてしまっている。そして真奈美も月曜日の結婚式の準備に追われて、家出中だったはずの自宅に戻ったため留守にしていた。
 聖を出迎えたのは……何の因果か留守を任されていた一匹の猿――アインシュタインだった。
 もちろんアインシュタインに留守を頼んだのは中川ではなく、真奈美である。

「……なんでお前がこんなところにいるんだよ」

 アインシュタインを見降ろして、聖はそうため息をもらした。

「ウキキ(ぼくはもういちにんまえのりっぱなすぱいなんだ。だからこうしてるすばんというじゅうだいなにんむをまかされているんだ。すごいだろー。ほめてほめて)」

 心なしかその口調は某中川に似てきたような気がする。……気はするが、もちろん聖にはアインシュタインの猿語は理解できない。
 分かっているのはダラットホテルからの二度目の脱出の時、なぜかその場に居合わせておたアインシュタインが、いつの間にかこのゼロワンSTAFFにすっかり馴染んでいると言う事だけだった。

 

 そしてその頃……。
 中川は鎌倉から戻り、スーパーで買い物を終えてアブシンベル縁島の入り口にたどり着いていた。
 エレベーターを待っている中川の横にひとりの女が立っている。

「……アブシンベル縁島って……ここですわね?」

 女は中川にそう声をかけた。
 鮮やかな青のノースリーブのワンピースに真っ白なつばの広い帽子。
 中川好みの――そして多分中川には高嶺の花と言えそうな、いい女だった。
 恐らくマンションの前に止まっていた派手なスポーツカー(注/メタリックオレンジのカブリオレである)は彼女が乗ってきたものだろうと中川は判断した。
 判断の基準は特にない。
 いい女だから高い車に乗っているだろうという、いわば「当てずっぽう」に近い仕事師の勘というやつである。いい加減だが、当たっていない事もない。

「ええ。何でしたらウチに上がってお茶でも飲んで行きませんか。ちょうど茶菓子を買ってきたところだし……」

 ナンパというにはちょっと所帯臭い(^^;)。
 その言葉に女は顔を上げた。三十位……と中川は踏んだ。この勘は……踏んだだけに終わった。

「……せっかくですけど、今日は娘に会いに来ましたの」

「娘……?」

 つまり人妻なのである。しかしこのマンションにこんないい女は住んでいない。住んでいたとすれば、中川が見落とすはずはない。

(離婚した亭主のもとに幼稚園くらいの娘が預けられていて、今日はその娘に会いに来た。……要するに、バツイチだが独身)

 つくづく……身勝手な勘である。

「ゼロワンSTAFFって何号室かご存知? ウチの娘、その会社にご厄介になっているらしいんですの」

「……………………ぜろわんすたっふ?」

 一瞬、頭が白かった。
 むらむらと沸き上がっていた下心が、音を立てて崩れていく。ゼロワンSTAFFにご厄介になっている娘と言えば、ひとりしかいない。
 日下部真奈美(16)である。

「真奈美の……かーちゃん? あのぶっちぎれた電報よこした……?」

 真奈美の母親=年齢が三十歳という事は有り得ない+辰樹の愛人だった女。
 ……という図式が一瞬のうちに中川の脳裏を駆け抜けていった。
 なんてもったいない。
 もとい……。

 とんでもない女をナンパしてしまった。

「あなたがゼロワンSTAFFの社長さんでいらっしゃる中川克巳さんね?」

「……え、ええ……まあ。そんなところです」

「そんなところって……どんなところ?」

 中川は返答に詰まった。
 何が苦手って、こういう「ハイパーなおばさん」くらい苦手なものはない。それがなまじ美人で明後日には嫁になる女の母親と来た日には、

(ケツまくって逃げたい……)

 以外に浮かぶ言葉はない。

 

 そして中川がエレベーターの前で拾ったいい女……いや、日下部真砂美を伴って部屋に上がったとき、アインシュタインによってきっちり掃除されたゼロワンSTAFFのオフィスでは、聖武士とアインシュタインが一房のバナナを睨んで膝を突き合わせていた。

「……なんだ、そのバナナは」

 その状況を一瞥して、中川が最初に発した言葉がそれだった。

「チキータバナナだ」

「銘柄なんて聞いてねえ」

「土産だ」

「猿に?」

「あんたにだよ」

「ところで……何でお前がここにいるんだ、SD聖」

「……………………喧嘩売ってんのか?」

「それが留守宅に勝手に上がり込んだやつの言う台詞か? 真奈美はどこに行ったんだ」

「俺が来たときは、この猿しかいなかったぜ」

 アインシュタインは客がくるとインターホンを取る事ができる。訪ねてきた客の声が、聖のものだと判断する事だってできた。そして、カギを外し、ドアを開けて客を招き入れる事だってできてしまう。……だが、アインシュタインにそんな事ができるなんて、中川が理解しているはずはない。

「真奈美のやつ、カギ掛け忘れたな」

 そうぼやいて中川は玄関を振り返り、そこに立って中の様子を伺っていた真砂美に上がってくれと声をかけた。

「客なら、今日は帰るよ。社長さん、怪我の具合は?」

 実は、聖武士は中川の見舞いに来ていたのである。もちろん、聖の性格でこの中川を相手に素直に、

『見舞いに来たんだ。……でも、思ったより元気そうだな。安心したよ。無茶しないで養生して早く治せよ』

 なんてな事を……例え逆立ちしたって言えるわけはない。
 見舞いの品についてもずいぶんと頭を悩ませたのだが、シータ=ラムの、

『見舞いならバナナに決まってるじゃない』

 という強力な助言により、チキータバナナに決まったのだ。
 なぜバナナなのかは……もちろん聖の伺い知るところではない。とりあえずラムは、バナナを「贅沢品」だと思う戦中派ではないはずだから、インドでは見舞いにバナナを贈る習慣があるんだと思うより他にない。
 まあ実際にはキャノンボールレースの準備に追われて、その場しのぎの返答をしたと言うのが正解だろうが……。

「あ? ああ、怪我ね。うん、大丈夫……。まあ座れよ。せっかく来てくれたんだ、ゆっくりして行けよ。今、お茶出すから」

 不気味なほどにこやかな笑顔を浮かべて、中川は立ち上がりかけた聖を、すがりつくようにして引き留めた。

「……客じゃねえのかよ」

「遠慮するなよ、友達じゃないか。武士くん」

「あんたに気安く友達呼ばわりされる覚えも、武士くん呼ばわりされる覚えもないぞ」

「まあまあ、堅い事言わず……」

 そう言って、真砂美の座ったソファの前にずずいと聖の身体を押しやる。

「克巳さん、こちらの方は、社員でいらっしゃるのかしら?」

「いえ……そのー、えー、仕事を発注している相手で……。まあ、その友人と言った方がいいような……」

「……だから俺は……!」

 という聖の反論は、中川の哀願する目線できれいに「なかったこと」になってしまった。

(早く退散した方がいいのかも知れない……)

 中川のしどろもどろの対応を見ていれば、相手がただ者でない事だけは分かる。だが、ここで聖をおとなしく帰してくれるほど中川は諦めのいい性格をしてはいなかった。真奈美が帰ってくるまで、何が何でも聖を引き留めておくしかない。
 真砂美とふたりっきりになるなんてのは……自殺行為に他ならないのだ。
 こんな「美女」と密室にいて何もしないと思うほどに、中川はその方面の信頼を寄せられてはいない。
 その上……真砂美はあの「三級宴会技能士」真奈美の母親なのだ。
 真砂美の座ったソファの前のテーブルにいつの間にか置かれた一升瓶を見れば、その実力は自ずと知れる。

(今飲んだら……身の破滅だっ!)




Act6-9;その日のSNS
 電報にあった通りウェディングドレスをせしめようと真奈美は深川の自宅へ戻ったのだが、残念ながら留守だった。
 ブティックの方も店番のバイトの女の子に任せっきりにして、今日は朝から外出しているのだという。そしてダイニングテーブルには、

『図書館で勉強してます。夕御飯までには戻ってきます――真由美』

 ……というきっちりとした楷書体の置き手紙が残されていた。
 しかたなく真奈美は置きっぱなしになっていた荷物の一部をまとめ、宅急便でアブシンベル縁島へ送ると自宅をあとにした。
 まっすぐ帰ればいいようなものだが、中川も朝から留守にしているので、この際羽根を伸ばしてしまおうとばかりSNSへ出かけた。

「三日月さーん、ビール下さい」

「……昼っぱらから未成年にアルコールが出せるか!」

 入ってきた真奈美の第一声に、その言葉が返ってくる。
 相変わらず、三日月は店番を押しつけられていた。シータ・ラムは……もちろんキャノンボールレースの準備にてんてこまいで、

『店番どころじゃないわよ』

 ……という忙しさなのだ。

「だってー、暑いんだもん」

「アイスコーヒーで我慢してて、頼むから」

「未成年だって、もうすぐ人妻なのに……」

「幼妻に出すビールなんてない!」

「うーん、仕方ないなあ。じゃあ、今日のところはクリームソーダで手を打っておこうっと。……その代わり、結婚披露パーティの料金、サービスしてね☆」

 ……結構調子のいいやつである。

 

 その真奈美の背後では、今日も夜木直樹と三輪祝詞がビールを酌み交わしていた。

「夜木さん、やっぱりトレーニングの後のビールは旨いですね」

「……これが仕事をやり遂げたあとのビールだったりすればサイコーなんだけどなあ」

 さっきから、ふたりはその会話を……聞いている方がうんざりする程繰り返していた。そして、夜木がため息をもらすたびに、

「まあ、今回は相手が悪かったと思ってあきらめましょうよー。それより、飲もう、がんがん飲んで忘れましょう!」

 と、三輪が夜木にビールを勧める。
 その調子ですでにふたりは六杯目に突入しようとしていた。

 夜木が荒れているのは……今朝方の一本の電話のせいだった。
 失踪中の雅一を追い続けてすでに幾星霜、夜木はめでたく舎弟となった三輪と連日追跡を続けてきた。
 ……が、手がかりらしい手がかりも見つからないままだったのだ。
 そして今日、

「やっぱり仕事が上手く行っていないからといって、これ以上連絡を入れない訳には行かないだろう」

 と考えてDGSのチャン・リン・シャンに電話を入れたのだ。
 そしてその夜木に返されたのは、

「あーら、夜木くんお久しぶりー。今日はどうしたの? ………………え、雅? もしかしてまだ雅のこと探ってたの? 嘘ぉ」

 という、余りにもあっけらかんとしたチャンの高笑いだった。

「あれねー、もういいや。今日、佐々木建設の新社長が就任式やるのよ、知らなかった?」

 雅の捜索に必死で、ニュースになんか目を通す暇があったものかと言う夜木の言葉が、あのチャンの耳に届いていたとは思えない。

「ごめんねー、私ちょっと忙しいのよ。今度知り合いの娘が急に結婚することになったから、その披露宴でみんなを驚かせるネタを考えないと……。雅の件はそう言うことだから、ご苦労様。また何かあったら声かけるわ。その節は宜しくね」

「…………………………」

 チャンが通話を切ってしまった後も、夜木はヴィジホンのモニターを睨んだまま発する言葉を失っていた。

(あんまりだ)

(あんまりだ)

(あんまりだ……)

「祝詞っ! SNSに行って飲んだくれるぞ……いや、その前に稽古つけてやる。くそ――、新しい仕事にありつく前の景気づけだぁぁぁぁぁっ!」

 そして、二人はSNSに乗り込んだのだ。
 結局夜木にとって今回の仕事の成果と言えば、三輪祝詞という弟子兼仕事のパートナーを得たこと、そして、

「自分がこんなに女装が似合うとは思わなかった……」

 と新たな自己の長所を発見したことくらいだった。
 まあ、DGSは金払いが良かったから、決して損をした訳ではないのだが……。

 

 さらに真奈美が帰ったあと、杜沢跡見がSNSを訪れた。
 今日は客の入りが良い。

「杜沢さん、珍しいですね、こんな時間からおいでなんて……」

「ああ、出発の前に挨拶をして置こうと思ってね。アイスコーヒーください。ガムシロップ抜きでね」

 そう言って杜沢はカウンターのスツールに腰をおろした。

「出発?」

 注文のアイスコーヒーを作りながら、三日月は眉を寄せた。

「ええ……しばらく群島を離れようと思って……」

「どちらにいらっしゃるんです」

「アフリカに……ちょっとね」

 杜沢はそう言って、言葉を濁した。
 だが、彼の言おうとしていたことが何であるのか、三日月にはすでに分かっていると言う表情だった。
 以前この店で飲んだときに、杜沢は三日月に過去の話をしたことがある。
 かつて……杜沢が叔母のマイア・I・リークとともに遺跡調査のため訪れたアフリカの地で出会った少女……今も杜沢にとって忘れられない女であり続けているレラのこと、そしてそのレラは政治的な陰謀に巻き込まれて生命を落とした。
 そのときに負った心の傷は、今も杜沢の中で決して癒えることはない。
 そして今も傷が……杜沢を追い立てている。
 真奈美と香南が誘拐された事件で、杜沢に冷静さを失わせたのもまた……その傷だった。

(このままではいけない。自分自身で決着をつけなければならない)

 杜沢にそう決断させたのもまたあの事件だった。
 あの戦いに利用されるだけの弱者だった浩二が自分自身の力で立ち上がり……父と同じように夢を追う者となって力強く歩み始めたように、杜沢も過去の傷を克服して新しい人生を切り開きたかった。
 その為にもまず……アフリカへ行かなければならない。
 行って、レラの死をしっかりと受けとめることが、その第一歩だと思えたのだ。




Act6-10;月を見る者
 佐々木建設新社長就任パーティは7月19日、午後二時より伊島プリンスホテルで行われた。
 株主と関連会社の代表に新社長・佐々木義一が挨拶することが目的であり、マスコミに公開するつもりはない……という理由で、就任パーティでの取材を申し込んだテレビ局や雑誌記者などはすべてシャットアウトされた。
 マイヤーだけでなく警察も懸念していた環境保護団体からの攻撃は、会場となったホテル前での座りこみなどの比較的穏やかなものだけで終わり……就任パーティはつつがなく終わった。

 客の間を忙しく挨拶して回る義一の姿を、マイヤーは離れた場所から見つめていた。その義一の傍らに寄り添うように、社長秘書となった秋山の姿がある。
 それが……彼らのあるべき姿なのだと感じさせられる。

「マイヤーさん」

 そう声をかけられてマイヤーは振り返った。
 浩二がそこに立ち、ウィスキーのグラスを差し出していた。

「ありがとうございます。今日まで、兄を守ってくださって」

「私はもらった金の分の仕事をした……それだけだ。礼など言われる筋合いじゃない」

「秘書の秋山にね……いろいろ調べてもらったんです。ずいぶん、たくさんのことが分かりましたよ。西崎さんのこと、高槻くんのこと。それに妹のことも。……あなたのおかげだ。感謝します」

 その浩二の言葉に、マイヤーは何も答えなかった。
 ただ彼の差し出したグラスを受け取り、口をつける。ウィスキーの味が喉を熱く広がっていく。

「うまいな。……久しぶりの酒だ」

 義一のボディガードとなってから三ヶ月……まったく口にしていなかった酒の味が快かった。

「もう仕事のことは忘れて……ゆっくり飲んで行ってください」

 そう言い残して、浩二はマイヤーのそばから離れた。
 菱島駿河重工の社長である菅野がその浩二を呼び止め、話しかける。
 マイヤーは空になったグラスをテーブルに置くと、ゆっくりとした歩調でホールの出口へ歩いて行った。
 接客係の開けた扉から静かな廊下に出るとき、ふとホールの奥を振り返った。そこにはもう彼の守るべき者の姿はない。ただ佐々木建設の新しい社長の堂々とした姿があるだけだ。

 

 客が来ているという伝言をウェイターに伝えられて浩二はパーティを中座し、ロビーに出た。
 そこに待っていたのは……浩二の思った通りの人物だった。

「やはり……あなただったんですね。パーティが終わったらぼくの方から伺おうと思っていたんですよ――神野さん」

「盛況のようね」

 神野麗子は初めて浩二の前に姿を現した時と同じように……自信に満ちた表情を浮かべている。
 その彼女には、敗者という言葉は似合わなかった。

「敵情視察ですか?」

「まさか、DGSはそれほど未練たらしくはないわ。私はあなたの様子を見に来ただけよ。結局佐々木建設副社長を辞任すると耳にしたのでね」

「ええ。……るるいえ海底開発という新しい計画に加わることになりました。思っていたより早いうちに水族館を作ることができそうです。水族館ができたら神野さんにも招待状をお送りしますから、ぜひいらして下さい」

「西崎の失策は……あなたが傀儡どころか、実は社長の器だっていうことに気づかなかったことね。DGSもいい恥をさらしたものだわ」

「ぼく自身、自分がこれほど強くなれるとは思っていませんでした。……あなたのおかげなのかも知れませんね」

「そんな言い方をして欲しくはないわ」

「神野さん……『2001年宇宙の旅』って映画観たことありますか」

 突然、浩二は話題を変えた。

「ええ……あるけれど、それがなにか?」

「父が宇宙を目指すきっかけとなったのが……あの映画なんです。その父の影響で、ぼくも子供の頃から何度も観ました。ぼくにはね、あの骨を振り上げるヒトザルが、兄のように見えるんです」

 キューブリックの監督した映画版では古代の地球に生きるヒトザルには特に個性はなく、ただひとつの群れとして描かれている。……勿論その個別の名前も表現されていない。
 だが、クラークの書いた小説版ではそのヒトザルが父親の死と対面するという、映画にはなかった描写がされ、『月を見る者』という名前を与えられている。
 そして『月を見る者』はモノリスに触れることで進化への新たな第一歩を踏み出すこととなるのだ。

「ロマンチストね」

 口調こそつっけんどんなものだったが、麗子には浩二の気持ちは分かっていた。
 浩二は決して『月を見る者』にはなり得ない。
 宇宙にホテルを建設したい――その辰樹の野望を受け継ぐことは、浩二には決してふさわしい道ではないのだ。

 

 パーティを中座した浩二は……そのまま本社ビルに戻った。
 佐々木辰樹の息子として入社して以来、ずっと使い続けてきた副社長室に明かりもつけずに長い間たたずんでいた。
 すでに部屋の内部は片づけられている。
 書類棚を占めていたファイルはすべて処理され、浩二の私物も自宅へ送られた。このオフィスを住居としてきたグレゴリオとマキューシオもすでに水産試験場へ移され、明日になれば壁一面を占領していた特注水槽も撤去されることとなるはずだった。
 そして……このオフィスは新しい副社長に引き継がれるだろう。

 すでに義一は新しい副社長二名を発表していた。その中には西崎の娘婿である橋川の名も上がっている。




Act6-11;嵐
「あのー、パソコン屋です」

 野村はインターホンに向かってそう言った。
 味噌屋から始まって中国人の知り合いまで延々と続くあの謎の質問を覚悟してきたのだが、今日はすんなりと扉が開いた。
 だが、玄関先で彼を迎えた中川の……不気味なほどの歓迎スマイルが野村を前回ここを訪れたときと同じ不安に陥らせた。

「良く来てくれたな、野村くん」

 たしかこの間来たときは「おい、パソコン屋」だったはずである。

(……来るの、やめれば良かった)

「あのー、パソコンの調子はどうかと思ってお伺いしたんですけど……お客様のようですので出直しますぅ」

 部屋の奥から聞こえてくる真砂美の高笑いを聞けば、逃げ出したくなるのは野村だけではあるまい。だが、きびすを返そうとしたその野村の襟首を、中川の手ががっしりと掴み上げていた。

「上がれよ」

 押し迫ってくる気迫とは裏腹に、その顔がにこやかな歓迎スマイルを形作っている辺りに危険な臭いがする。しかも中川の歓迎スマイルはすでにひきつって、震えているのだ。

「……(^^;)」

 逆らうのは危ない。
 ……だが上がればもっと恐ろしい事が待ち受けているような気もする。

 

「……ファッションショーですか?」

 結局、強引に引きずり込まれたその室内を一望して、野村は呆気にとられて呟いた。
 そこにはアインシュタインと聖武士、日下部真砂美が狭苦しそうに座り、さらに二体のマネキンにウェディングドレスとグリーンのイブニングドレスが着せられていた。ソファにはタキシードが二着――これは白と黒。赤いサッシュが目を射るほどに鮮やかである――が広げられ、なぜかマネキンの足元には誰も手を付けていない水羊羹と葛桜、それにチキータバナナひと房が置かれている。

「真奈美じゃなかったのね。……こんなに遅くまで連絡も入れずに出歩くなんて、克ちゃんちょっと甘やかしすぎてるんじゃない? ビシッと躾なきゃダメよ」

「こっちの台詞ですよ、真砂美さん」

「いやぁねぇ真砂美さんだなんて他人行儀な」

「……他人ですって」

「お義母さんとか、ママとか……いくらだって呼び方はあるじゃない」

「勘弁して下さいよ」

 すでに、中川は完全に真砂美のペースにはめられている。

「あのー、状況が見えないんですけど」

「あんた……上がった事一生後悔するぞ。絶対逃げられないって思った方がいいからな」

 二人の会話に口を挟もうとした野村に、聖がそう忠告する。
 すでに聖は一時間もの間、中川と真砂美に挟まれて座らされていた。何度も逃げ出そうとしたのだが、そのたびに、

「友達じゃないか」

 と中川に詰めよられ、挙げ句に羽交い締めを食らって脱出を諦めた。
 ちなみに、聖はダラットホテルからの脱出の際に肋骨二本を折る怪我を負っている。しかし中川が……そんな「細かい事」を気にしているはずはない。
 ヒビの入った自分の肋の痛みは分かっても、折れた他人の骨は痛くはない。中川克巳はそういう男なのである。

「あのー、あのですね、ぼくはまだ仕事が……」

「堅い事言うなよ、友達じゃないか」

 中川はすがるような目で野村を振り返った。
 いつの間に「友達」になったのかは……野村も知らない。

「お友達もたくさん来てくれたし、そろそろ始めましょうか、克ちゃん。コップ出してね。おツマミ何かあるかしら?」

 そう言って、真砂美は改めて一升瓶をテーブルの上にどんっと乗せた。
 その気迫に圧されて、三人の男の表情がすっと青ざめた。

 

「克ちゃーん、ただいまぁ。お客さん来て……」

 そこまで言って、真奈美は言葉を失った。
 部屋の奥から聞こえてくる高らかな笑い声は、どうしたって聞き間違えるものではない。

(……なんでお母さんがここにいるの?)

 部屋を覗くのが……何となく恐かった。
 しかし、恐いという点では真奈美より部屋の奥で真砂美の酌を受けていた野村明彦の方が上だったに違いない。
 中川は最初の一杯であっけなく潰れ(潰れたあと騒がなかったところを見ると、恐らく狸寝入りである)、聖は中川が潰れたところで頼みの綱のアインシュタインを連れてさっさと帰ってしまい……野村はひとり取り残されたのである。

(どうして……何故なんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!)

 未だに、自分の身に何が起こっているのか、野村は完全に理解してはいなかった。

「お母さん、いったい何なの、これ」

「ウェディングドレスよ」

 そう、こともなげに言って真砂美はにっこりと笑った。
 さすが……真奈美の母親なだけの事はある。

 そして母と娘に野村が挟まれたまま……祝宴は深夜にまで及び、真砂美が帰るまで、中川はついに目を覚まさなかった。




Act6-12;超格安物件
「…………………………………………………………………………………………………」

 長い沈黙だった。
 三畳ひと間の真ん中にマイヤーは呆然と立ちすくんでいた。
 はっきり言って、狭い。
 息苦しさを感じるほどに狭い。
 その上……天井が低い。

 

 佐々木建設の社長就任パーティを中座して、軍事学部の助教授室に戻ってみると、その扉に、でかでかとA1サイズの模造紙が張り付けられ、そこに香南のものと思われる極太サインペンの文字で、

『まーちゃん、お部屋借りたの。住所は、え――――と、縁島団地のA棟1Fのワンルーム。一番はじっこの部屋だよん。(か)』

 なぜメモに「え――――と」まで書かなければならないのかという疑問も、「縁島団地A棟1Fのワンルーム」は住所でも何でもないという怒りも、その模造紙の余白部分に殴り書きされた軍事学部の学生によると思われるえげつない落書きの数々の前には霞んでしまう。
 そしてマイヤーは握りつぶしたそのメモを片手にこの部屋を訪ねてきたのだ。

 

 部屋にはキッチンと呼ぶのが申し訳なくなるような流し台がひとつ、他では絶対に見る事はできないだろうと断言できる小型の湯沸かし器が、シンクの上に取り付けられている。
 そして、風呂もなければトイレもない。

 ……という「神田川」も真っ青の絵に描いたような貧乏所帯である。
 確かにワンルームかもしれないが、普通こういう部屋をそんな小シャレた名前で呼ぶ奴はいない。

「……なんだこの部屋は」

 ようやく、マイヤーが口を開いた。
 そのマイヤーの足元で、香南が寝っ転がって『味の屋』からくすねてきた少年ダンプを読みふけっている。

「いい部屋でしょ? 群島でね、ここより安い部屋はないって管理人さんも太鼓判押してくれたもの」

 満面にこれ以上はないと言う最高の笑顔を作ってマイヤーを見上げ、香南はちょっと得意そうに言った。
 管理人の言葉を疑う積もりなど、マイヤーには毛頭ない。
 ついでに、「群島でここよりひどい部屋はない」とマイヤー自身が太鼓判を押してやりたい気分だった。

 

 そもそも……きっかけは、

『香南、軍事学部に入ろうと思って……』

 というあの恐いもの知らずな香南の発言だった。
 しかし……それにはまず高校を卒業しなければならない。
 以下は豊島マリーナ近くのファミリーレストランで交わされた香南とマイヤーの会話である。

『だからね、洋上大学の附属高校に入れてもらうの。高校には真奈美ちゃんもいるし、他にも面白い人結構いっぱいいるって言うし……』

『……高校に通うのはいいが、それにはまず生活面の改善が必要だろう。まさか、今後もずっとアーマスの部屋に居候という訳には行くまい? 住所不定の浮浪児を高校が受け入れてくれるとは思えん』

 アーマスの部屋の前に捨て子をしたのが誰なのかは、マイヤーは口にはしなかった。

『…………………………』

 そして香南は、軍事学部に入りたいという事以外、何も考えてはいなかった。
 それからが長かった。
 いや、長かったと言うより、要領を得なかったのである。

 両親は健在。神奈川県藤沢市在住、江ノ島の近くで干物屋を経営。現在は勘当されている身で、両親と連絡をとるのは構わないが、家に戻るつもりはない。中学を卒業して以来家には帰っておらず、その間はずっと北海珍味の行商をやりながら浮浪児同然の生活をしてきた。藤沢市の高校に在籍だけはしているのだが、入学式にさえ顔を出してはいない。

 ……と、これだけの事を聞き出すのに、マイヤーは朝までの時間を浪費させられたのだ。

『まずだな、帰れとは言わんから家に連絡をとれ。両親の承諾を得た上で、アパートでも借りて高校に編入する手続きをしろ。……ところで、金はあるのか』

『う――――ん、アパートっていくらくらいか知らないけど、よっちゃんからもらったお金があるから、半年くらいなら何とかなるんじゃないかなぁ』

 ……なるわけはない。
 マイヤーも、義一が香南に与えていた報酬が具体的にいくらだったのかは知らない。だが、たかが連絡係である。いくら義一が金払いのいい雇用主とは言ってもアパートを借り、高校に通って半年も暮らして行けるだけの収入がこの三ヶ月足らずの間にあったなどとは思えない。
 だが、それを香南に説明する事はマイヤーは省いた。
 賢明な判断である。平素から理解力の不足気味な香南が、今にも眠りそうなのを堪えているところへ、何を言っても暖簾に腕押し、糠に釘というやつだ。

『金は俺がいくらか融通してやる事もできる。とりあえず、不動産屋に行って適当な部屋を探してこい』

 そう言って、マイヤーは手付け金くらいにはなるだろうと、十万ほどの金を香南に渡していた。
 その十万円で香南は敷金、礼金はもちろん、半年分の家賃を前払いし、その残りで寝袋と飯盒、それにキャンプ用の小型ガソリンコンロを買った。
 さらに、

「おにゅうのシャツを買って、カルピスを買って、『味の屋』で「ごはん」を三回くらい食べられそうな気がする……」

 くらいの金額が手元に残った。
 家が手狭だったため、中学を卒業するまで押入を自分で改造した「秘密基地(という名前で呼ばれていた自室)」で育った香南には、三畳一間の狭さも気にならなかった。
 公営住宅の近くには設備のいい銭湯があるのはすでに知っているし、何と言っても公衆便所まで行かなくても、管理人さんの部屋のトイレをいつでも自由に使えるという便利さが魅力的だった。

 つくづく……おチープなやつである。

 しかし、傭兵時代戦場での決して快適とは言い難い生活を体験してきたマイヤーにも、もうじき十六歳になる女の子の日常の住環境として、この三畳一間が適しているとは思えなかった。
 まあ、立って半畳寝て四畳半、歩けば鴨居に頭をぶつけるマイヤーと、膝を抱えこんで半畳に収まって眠る香南とでは、スケール感が違うのも無理はないのだが……。いずれにしてもマイヤーは、

(……こんなに安上がりに済むとは思っていなかった)

 と呆れるばかりだった。
 これなら高校の授業料を別にすれば、義一からの報酬で半年くらい充分に食って行けそうな気もする。

 

 香南がマイヤーの援助を受けて借りた部屋は、公営住宅縁島団地A棟1F南はじに位置していた。いつも北海の珍味を売りに行くと野菜をくれる「おいちゃん」(注/白葉教授の事である)や、大食勝負で香南が負けたにも関わらず勘定を持ってくれた「なーちゃん」(注/ジーラ・ナサティーンの事である)など同じフロアに気前のいい顔見知りも多かったので、

「食うには困らないだろう」

 という期待が、香南の中に渦巻いていた事は間違いなかった。

 

公営住宅・縁島団地A棟1F

(日本庭園)
富吉宅富吉宅空き室空き室雅宅広田宅杜沢宅根戸宅白葉邸
(階段)(エレベータ)
香南宅空き室空き室水原宅火乃宅ラム宅高橋宅雅命宅ナサティーン家
3畳2DK2DK3DK2DK2DK2DK2DK3LDK

 香南の新居は……こんな環境にあった。




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(c)1992上原尚子.