act.5-1;がらぱごす


 根戸宏は、滴り落ちる汗を拭った。びっしりと下生えの草々が密集し、足に絡みつくため、思いの他歩みが進まない。額から頬からうなじから背中から、じっとりと汗がにじみ出す。

「暑いな……」

「ほんま、ごっつぅ熱ぅてたまりまへんな」

「いや、暑いんだ……」

 確かに日頃運動不足でないとは言い難いが、この暑さが運動によるものでないことだけは根戸にもわかった。
 弱々しく木々の梢から漏れる日差しは、確かに1月下旬のものとは思えなかった。
 鬱蒼と生い茂る木々はまるで天然のビニールハウスだ。密林独特のむっとした青くさい草の匂いと、不快指数を上昇させる湿気が立ちこめている。
 ここが21号埋立地……東京ガラパゴスの姿だった。

 飛鳥龍児にアンカーマンを押しつけた根戸宏は、いやがる新田アインワース雅文一人を連れだして、21号埋立地・別称「東京ガラパゴス」に先行ロケーションにきていた。
 如何に「南海の孤島」のイメージが強くとも、21号は東京湾のただなかである。チャーターした小型のホバー・ボートで上陸し、軽く下見をしても日帰りのできる場所のはずだった。
 19号埋立地側の荒れた湿地帯にホバー・ボートを揚陸し、あたりを見回した根戸の前に21号埋立地の鬱蒼とした蒼い緑が立ち広がっていた。
 湿地帯とおぼしき場所には、新浜の野鳥の楽園を思い出させる葦が生い茂っている。これは埋立地には珍しくない植物だ。わずかな泥土の上にびっしりと生い茂る葦と波打ち際は、海沿いの鳥たちの格好の餌場となっている。波打ち際には茶色い東京湾の海水と、藻とゴミとが打ち上げられていた。今が秋ならきっとクラゲもたくさん浮いていたことだろう。
 泥土の上についた足跡を見ながら、根戸がつぶやいた。

「シギ、コサギ、ウミネコ……いやぁ、いるいる。こっちの大きいのはアオサギ……いや、ダイサギかな? あ。イソシギがいる!」

「詳しゅうおますな根戸はん」

「常識、常識☆ とりあえず、冬場の鳥は勢ぞろいってところで……群島の他の島に飛んできている鳥とあまり変わらないみたいだねぇ」

 キャメラを担いだ新田は、泥土に足をとられないように注意しながら根戸の足跡を追った。足を踏み入れるたびに葦の根本から何かがとびはねて逃げて行く。
 あまり広いとは言い難い湿地帯を抜けて緑の洞へたどり着いた。そこから先がこれまでの湿地帯とは明らかに違う場所であることが感じとれる。1月下旬の冷たい風をよせつけない、むっとした気配。樹木の気配と「何か」の気配が感じられる。
 草むらから緑の洞に踏み入る根戸を背後から新田が撮影する。海沿いに良く見られる帰化植物であるアメリカ松が、いつのまにこんなに成長したのかと思われるほどに、威風堂々とそびえ立つ。

(……門やな……)

 それは、ジャングルの入口にそびえ立つゲートに見えた。緑の洞穴の門番。
 新田は頭を振って妄想を払うと、キャメラのフレームからアメリカ松を追い払い、19号を探した。
 運河の向こうに19号埋立地「ネオタウン」が見え、葦の合間に載ってきたホバー・ボートが見えかくれする。その距離は決して膨大に広いわけではないのだが、密に茂る葦はホバー・ボートを覆い隠してしまうかのようだ。
 19号の遠景から見えかくれするホバー・ボートをパンする。新田のキャメラから、風に揺れた葦がホバー・ボートを隠した。
 新田のキャメラに不安が映る。住み慣れた東京からこんなに近いのに……否、ここも住み慣れた東京のただ中のはずなのに、なぜか心細かった。ホバー・ボートで十数分の伊島が妙に遠く思え、ホバー・ボートが頼りなくも唯一の非常口のようにも感じられた。

「いくよぉ」

「へ、へぇ。今いきまっさかい、まっとくんなはれ」

 根戸の声に我に返る。根戸はいつもと変わらない不敵な笑みを浮かべている。にくからず思うその笑みが、今はなぜか頼りがいのあるもののように思える。新田にとって、都市の常識が通じないここでは、普段と変わらない根戸だけが見慣れた現実なのだ。都市の庇護に慣れた新田にとって、今頼るべきものは根戸以外になかった。

「こいつぁ、蔦……かね。ツタというかカズラというか……ツル性の植物には違いないとは思うんだが……新田くん、これ撮って」

 湿地の内陸部に控えている緑は小山のように見えた。そして先ほどのアメリカ松の根本あたりにぽっかりと開いた隙間は緑の洞のようだ。いわゆる樹木のようなものははっきりとは見えず、ただ緑のテーブルクロスをかけてあるように見えたが、根戸の指さす方向にキャメラを向けたとき、初めてそれが蔦であることがわかった。
 密林とも言うべき林と湿地の隙間を大量の蔦が仕切っている。蔦が林に蓋をしているのだ。

「さしづめ、緑のカーテンといった所だな。幹や枝振りが見えなくても当然だよ、こりゃ。きっと中には緑のカーペットが敷いてあるんだろーなぁ。歓迎いたみいるよ、ほんと。中に野営できる場所があればいいんだけど……」

 緑のカーテンを押し上げた根戸と新田は、緑の洞に足を踏み入れた。  

 

 


act.5-2;あんかーまん
 根戸宏の先行ロケーションは順調に進んでいるらしい。新田のとらえた映像は、ダイレクトにアーキペラゴ・ステーションに届けられている。
 飛鳥龍児はデータ中継室で記録を取りながら、映像に見入っていた。

「うーん……仮に根戸さんの話を割り引いたとしても、確かにこの21号って島はおかしいな」

「そぉ? 確かに森って感じはするけど、別にどうってことないありがちな森じゃないの?」

 アーキペラゴ・モーニング・ステーションの収録を終えた鵜飼クーミンは、モニタの映像をちらりと一瞥した。何か特別なものを期待していたらしいが、そこに映っているのがありふれた密林やジャングルであることを知って、期待はずれに感じたらしい。

「ありがちな森であることがおかしいんだ。これが沖縄や石垣島だったらまったく不思議はないんですがね、21号はどこにありますか?」

「東京都群島区南……東京人工群島の南端にして東京湾のまん中だったわね」

「おかしいでしょ? 東京湾のまん中に森があるなんて。それも……いくら島だからって、ガジュマル、モクマオウ、セイロンベンケイソウ、俺にはこの森は南の島の森に見えますね。例えるなら、そうだな……夢の島の熱帯植物館か、小笠原みたいな感じかな」

 小笠原と言えば東洋のガラパゴス。東京の真の最南端に位置する村落のある島である。沖縄・石垣島などのようにトロピカルな南の島のイメージが思い浮かぶが、オガサワラ・ノスリ、メグロなどの天然記念物に指定された鳥類に限らず、ムニンヒメツバキ、ムニンビャクダン、モモタマナなどの植物の固有種も数多い。まさに、ガラパゴスの名にふさわしい島である。
 21号埋立地に名付けられた「東京ガラパゴス」という名は、東京「湾」の南の果ての島にはうってつけであった。

「熱帯植物館から漏れたんだろうか。しかし漏れただけじゃ、ああは繁茂しないよなぁ。植物館の外は熱帯じゃないんだし……」

 モニタには喜々として歓声をあげる根戸の姿と、鬱蒼とした密林が映り続けている。 根戸の背中は汗に塗れて黒々としている。
 飛鳥はモニタの映像の一部をカード・メモリにダビングすると、それをポケットにしまいこみ新田の同僚に声をかけた。

「ちょっと……専門家の所に行ってきますんで、ここ、よろしく」

「ごめんくださーい」

 根戸のマンションの隣室をノックする。
 まだ日も高く、普通の勤め人ならば自分の職場で暇を潰している時間である。しかし、この部屋の住人は、そうした世間のルールからはずれて自由に時間を決めることのできる職業の人間であった。

「ごめんくださーい。きょ・お・じゅーっ、御在宅なのは解ってるんですよー!」

 ドアの向こうにもそもそと誰かが動いてる気配がした。ドア越しに声が聞こえる。

「なにかね? 新聞ならいらないよ」

「何十年前の話をしているんです。いまどき新聞勧誘なんかいませんよ」

「えーとね、それじゃ宗教なら間にあってるよ」

「それも違います」

「いったい何かね。私を白葉透と知っての訪問かね?」

「存じてますとも。都立東京洋上大学農業工学科主任教授・白葉透農学博士。研究所の方にお伺いしたら在宅勤務とうかがったので、失礼かと思いましたが直接訪ねさせていただきました。私、ASの飛鳥龍児といいます」

 ドアがわずかに開いた。チェーン・ロックの向こうに、ロマンス・グレーのおぢさまが泥のように眠そうな目をして立っている。在宅勤務中というよりは、明らかに二日酔いのように見える。
 怪訝そうにこちらをうかがう白葉教授に取り入るために、飛鳥は必死に食い下がった。

「いつも隣室の根戸がお世話になっています。私、根戸の部下にあたる者でして、教授から賜った贈り物の数々のご相伴をさせていただいています。先日のおせち料理、誠においしゅうございました」

「おお! 君は根戸くんの関係者かね。いや、そうかそうか。これは悪かったね。今開けるから、ま、入ってくれたまえ」

 おせち料理を誉められたのが嬉しかったのか、白葉教授は顔をほころばせて飛鳥を招き入れた。

「どうも、失礼します」

 飛鳥は根戸直伝の笑みを浮かべながら白葉教授の部屋に足を踏み入れた。
 あからさまに二日酔いの白葉の様子から、宴会後の散らかった室内を予想していたのだが、意外に整っている。

「いや、散らかっていてすまんね。昨日ちょっと講座の宴があって学生がなだれこんでねぇ。恭子の弔いだってんで飲み狂った学生がいてね、これが酔いつぶれるまで付き合っておったんだ。最後まで残ってた女子学生が片付けてくれなかったら、とても見せられないような有様で……」

「どなたか学生の方がお亡くなりになったんですか?」

 一瞬、根戸のマンションで会った平山恭子の泣き顔が飛鳥の脳裏を掠めた。

「いや、ホルスタインだよ」

 半纏にジャージというオフタイムのお百姓さんのような軽装をした白葉教授は、部屋の中央の囲炉裏の前にいそいそと茶受けを並べ始めた。かりんとう、濡れ甘納豆、味噌玉、雷おこし、鳩サブレ、あられ……きっとこのあられは例の農工科自慢の新種米『群島の夜明け』シリーズで作られたものに違いない。

「このあられは、我が農工科自慢の『群島の夜明け』で……」

「あ、いやおかまいなく」

 根戸宏の部屋への怒涛の食品テロを思いだした飛鳥は、不意に不安になった。このまま黙っていたら、炬燵の上に茶菓子が山と積まれそうな気がしたのだ。

「若いもんが遠慮なんかしちゃいかん。甘いものがだめなら、酒はどうかね? この酒は『群島の夜明け』で仕込んだ『夜明け前』という……」

「いえ、まだ日も高いですし、今日は仕事でお邪魔させていただいてますんで……」

「キミ、大人になるとね、飲むのも仕事になるんだよ」

 白葉教授は有無を言わせずに、茶碗に冷や酒を注いだ。
 どうやらこの人物は、田舎の農家の親戚のような性質らしい。もてなしといえば、怒涛のような食べ物と酒。それはあくまで本人にとっては好意の表れであり、最大限のもてなしである。もちろん、自分の手がけた食べ物を、少しでも多くの人に味わって貰いたいという、食べ物に関わる人間が少なからず持っている意識も手伝っている。
 しかし、半ば根戸化した飛鳥の目には、白葉のもてなしは根戸家への食品テロを思い起こさせた。

(人間、ただでこんなに人にものを贈るはずがない。きっとこれには裏がある)

 根戸や飛鳥の気持ちもわからないではない。しかし、世の中には色々なタイプの人間がいるわけで、中には本当に何の下心も持たず、相手の迷惑も省みず、たとえ食品テロと思われようとも、最大限のもてなしを敢行してしまう人間も実在するのである。
 事実ここに。

「いや、あの……(ここで負けしてしまったら負けだ! そうだ、気迫だ!)……今日は教授にぜひご意見をいただきたいと思いまして。まずはこれを見て下さい」

 飛鳥は部屋を見回して壁面モニタのコンソールを探した。コンソール・パネルのスロットに、カード・メモリを差し込む。コンソールが自動起動し、壁面のモニタに先ほどの先行ロケーションの映像が映し出された。

「ご存じかもしれませんが、このたび我々ASでは21号埋立地を取材することになりました。で、今、担当ディレクターの……隣室の根戸がですね、本取材の前に先行ロケーションを敢行している最中でして。これは、ついさっき根戸から送られてきたばかりの映像を記録したものです」

 白葉はモニタに映る映像を食い入るように見つめていた。

「キミ! これは……!」

「お気づきになりましたか、教授」

「この背中を見せている男が根戸くんかね? いや、残念。正面から映っているものはないのかね。私はまだ彼に会った事がなくてねぇ」

「……教授ぅ! そんなことは問題じゃありませんってばさ! 見て欲しいのは、根戸の周囲の木です。林です。森です。
 教授は洋上大農工学科において、農業工学・植物工学を研究なさっているその道のエキスパートでしょう。そして、あの瑠璃島の……バイオスフィア実験島のバイオスフィアJ−IIの、植物環境の設計者でもいらっしゃる。
 この映像に映っている森は、21号埋立地の中にあるものです。この映像を見て、平然としていられるほどあなたは素人ではないはずだ!」

 飛鳥の根戸張りの畳み掛けるような論陣を受けた白葉の目が、研究者の色に輝いた。

「この映像は本当に21号からのものかね?」

「間違いありません。つい1時間ほど前に生中継で送られてきたものです。1月下旬の東京湾の島の一つに、現実に存在している森の映像です」

「……信じられん。見たかね、キミ」

「セイロンベンケイソウですか?」

「ああ、ハカラメかね。あれはそんなに珍しいもんじゃないだろ。葉っぱをちぎって放っておけば、どんどん芽を出して繁殖する。えーとね、キミ、小笠原に行ったことあるかね? あっちではこれをみやげ物屋で売っておるんだ。1枚200円でビニール袋に入っててな。いや、本当は金だして買わずとも、小笠原ならその辺の道端にいくらでも生えている雑草でなぁ。海岸べりから山のてっぺんまで、島中のいたるところに生えておってな。私も内地に持ち帰って近所の公園にばらまいたことがあるくらいで……」

 飛鳥は白葉教授の話をさえぎった。

「教授!」

「ああ、いかんいかん。そうじゃなくてね、さっきの映像もう一度リプレイしてくれないかな。現物を見たほうがわかりやすいだろ。えーと……ああ、これこれ」

 白葉はモニタの画像を静止させると、根戸がかきわけている奇妙な形の熱帯植物を指した。

「ほら、根と葉が上と下にそれぞれこう放射状に……なんというかな、タコの足のように生えておるだろう。これはその名の通り『タコノキ』といってなぁ。小笠原の固有種なんだが。なぜこんな場所に生えておるんだろう」

 白葉はモニタに映るタコノキをじっと凝視した。
 飛鳥は白葉の横顔を見ながら、根戸のようにねちっこく言った。

「ねぇ教授。興味をそそられませんか? よろしければ我々と21号埋立地に御一緒していただけませんか? ここは、まさに『東京ガラパゴス』です。東京湾のただ中に、南洋の植生が存在している。そして、ここにありえないはずの植物もだ。きっと、他にも驚異の世界が開けているに違いありません。新種の植物が自生していることだって考えられます」

 白葉の肩が新種の植物という言葉にぴくりと反応したが、飛鳥はそれには気づかなかった。

「……誠に……実に興味深い。しかしながら、私もバイオスフィアの植物環境設計者としての仕事もあってな。そうそう現場を離れるわけにもいかんのだ。しかし、だが、うーむ……」

 白葉は逸る心を抑えながら、なお映像から目を離さずにいた。

「しばらく考えさせてくれたまえ。いや、そんなに長くはとらせない。
 私は時間が作れないが、私の代わりに密林の専門家を紹介できるかもしれない。彼は凄いぞ。密林の植物だけじゃあない。生物全般にまんべんなく詳しい。特に美味しい食べ方や、捕まえ方にも詳しい。密林につきものの原住民との折衝もお手のものだ」

 根戸の番組企画意図を知ってか知らずか、白葉教授は『密林の専門家』を自分の代役として根戸宏探検隊に同行させることを約束した。それが誰であるか、飛鳥龍児が知るよしもなかったが、白葉教授が知る限り今もっとも21号に行くべき人間であることは間違いなかった。  

 

 


act.5-3;しいききん
 かつてのライバルであったソビエト連邦の瓦解を受けて世界のリーダーを誇ったアメリカと、ECというひとつの国になったヨーロッパが、自閉症児のように膝を抱え始めた1990年代。世界経済が低迷を続けていた時に、唯一経済成長を続けていた国がある。
 この日本という国は、世界中の富を簒奪する経済破壊者として、資本主義経済圏の友邦国家にさえ危険視されていた。アメリカやECなどの諸国家が日本国政府に政治的外圧をかけたが、優位に立っているはずの諸国の経済には何の回復も見られず、相変わらず日本だけがゲームに一人勝ちをしている状況が続いていた。

 日本を外交訪問した大統領に付き従ってこの国を訪れたアメリカ経済界の老人たちには「日本国」の発展とその競争力がどうしても理解できなかった。大名商売を続けてきたアメリカには、日本国内での過酷な競争を勝ち抜くための企業努力など知るべくもなかったからだ。あまつさえアメリカにしがみつく資本家たちは、アメリカの利益を守るため、保護主義閉鎖貿易の方向へ向かおうとした。資本主義経済圏の第一任国を自称するアメリカの行動は、共産主義同様、資本主義さえも末期に近づいていることを示していた。
 自由競争を根幹とする資本主義経済は、個々の競争力の他に競争すべき「市場」が無限に拡大して行くことを前提としている。しかし、地球上はブロック化しつつある世界経済にとってすでに無限の広さを持つ市場ではなくなっていた。
 自ら共産主義を否定し、その瓦解に諸手を挙げて喜びながら、資本主義経済圏は共産主義を適用しなければ切り抜けられないような難題にたどりついてしまったのである。

 このまま限られた市場=地球の中で総数の決まってるチップを取り合っているだけでは、今以上の収益は上げられない。競争力で勝る企業体の一人勝ちを政治圧力をもって抑え続ければ、いずれ世界規模の共産主義的な要素を隠し持った管理貿易の時代が訪れるだろう。しかし、人類の持つ「より以上を求める本能」を騙し続けることは、この上なく難しいはずだ。
 共産主義化した管理貿易を続けて地球を蝕んで生きていくか、新たな市場を自らの手によって切り開いて行くか。現状維持かステップアップかの選択が人類全体に対してつきつけられたが、それに対する解答を模索したのは歴史の常に従って、ほんのひとにぎりの人々だった。
 時代の方向性を選択した集団……それは国家ではなく、政治家でもなかった。資本主義経済という概念が出来上がる以前から、政治家や革命家に出資し、カネの動きから歴史を紡いできた人々。人類にとって大いなる選択は、またしても彼らの思惑によって選ばれていたのである。
 彼らの選んだ道は「市場の創造」であった。

 新たな市場の創造……地球という市場が有限であるように、地球上で産出される資源もまた有限であった。完全に身動きがとれなくなってしまうにはまだしばらくの間があったが、そうなってからでは打つ手がない。彼らは、余力のある内に地球以外の場所を「市場」に変えてしまおうという試みに着手していたのである。
 宇宙開発を本格的に行なうことを決めたのは国家ではなく欧米の資本家だった。
 様々な宇宙開発に裏から資本協力してきた彼らは、20世紀末に打ち上げられた低軌道実験宇宙ステーション・フリーダムのラボから得られる最新実験データに基づいて、数々の薬品・材料などの新製品を得た。これにより宇宙市場の将来性に確信を持った欧米の資本家は、宇宙進出に本腰を入れるため『C基金』と呼ばれるシンジケートを作ったのである。

 ただの金持ち・富豪には、C基金への参加は許されなかった。「世界を動かす」ことを実際にやってのけるために必要なカネを持っていること。そしてすぐにでもそのための行動を起こせる、金の使い途を知っていること。そして、決して損をしないこと。……シンジケートに名を連ねる者たちは、すべてこの過酷な条件を満たしていた。

 その日、某国某所のとある一室にある大理石張りの白く冷たいテーブルには、各財閥のトップや総代理人が席を並べていた。もしここに米LIFE誌の記者がいたら、恐らくこう評するに違いない。『フィクサー(黒幕)たちの同窓会』と――。

「ジェントルメン。貴重な時間を割いていただいたことを感謝する」

 テーブルの上座に座るシルバー・ブロンドの老紳士が、くぐもった英語で開会の言葉をのべた。通信システムの進化によって、いわゆるTV会議が普遍的なものに変えられて久しい。こうして会議のためにのみ、超VIPと目される人々が一堂に会するのは、極めて異例のことだ。もし、この日この場にテロリストの襲撃でもあれば、世界の経済地図が大きく塗り変えられてしまう危険さえある。今日の会議には、危険を冒してでも集わねばならないだけの重要な議決事項が盛り込まれているのだ。
 西洋人たちに混じって、下座に一人の日本人が座っていた。歳の頃は50代くらいだろうか。精悍でエネルギッシュな顔立ちをした日本人は流暢な英語を操って、対岸の席に座る紳士に微笑みかけた。

「こうして直接お会いするのも久しぶりですな、公爵」

「今日は歴史的な日だ。モニタ上で済ますというわけにもいくまい。時にミスター渋沢、東京はどうかね? 東京人たちは、相変わらずかね?」

「相変わらずです。東京人工群島の開発は日々順調に進んでいます」

「そうか。ならば金の出し甲斐もあるというものだ」

 2000年前後から本格化した東京の開発は、東京都の独力によるものではなかった。如何に東京都が数兆の累積黒字を持ち、日本経済を引っ張り上げてきた巨大経済都市であるとはいえ、たかだか一地方行政府である東京が、独自にこのような巨大事業に着手することなどできるはずはなかった。東京人工群島開発にも、確かにC基金の資本が流されていたのである。

「C基金に名を連ねる皆様の出資がなければ、東京人工群島の開発は思うにまかせなかったに違いありません。我が東京都の悲願である、東京の国際拠点都市化、しいてはアジア・環太平洋に於ける拠点化、東京フロンティア計画の実現は、すべてC基金の理解と助力の賜物でしょう」

「礼には及ばない」

 日本政府にいくら圧力をかけても経済的安寧が得られないことにいらだった欧米の資本家は、日本経済の鍵を握っているのが日本政府ではなく東京都であることに気づいた。
 東京の消費者は過酷な要求を出し続ける。そのため企業は、これに応えるために次々に新しい技術を開発してきた。しかもそれをすぐに実用化しなければライバルを出し抜いて生き残ることができないため、自然と優秀な競争力が身についていく。この異常なまでに貪欲で贅沢な消費者を集中して抱えている東京で勝ち抜くことが、企業の競争力を高めてきたのだ。
 当の企業も、必ずしも余裕のある研究体制を持っているわけではない。湯水のように資金を注ぎ込んで基礎研究に勤める欧米研究者にはとても信じられないような貧弱な環境で、些末な研究を金に変える錬金術のような術が行なわれていた。
 また、東京は日本の「首都」であるという肩書によって、「中央」のイメージを持つに至った。東京の名さえついていれば、商品にも企業にもハクがつく。人々はこぞって東京の名のつくものを求め、「東京ブランド」の商品を売りさばくマーケット、「東京」はますます巨大化していく……。まさに東京効果とでも言うべき現象によって日本経済は支えられていたのである。

「皆様の見識に感謝します」

「ミスター。日本政府より東京都の方が優秀であると信じているからこその援助であることを知っておいてほしい。C基金は東京に出資する。その代わり、東京は我々の目的に助力してもらう」

「私が都知事を務めているかぎり、東京に可能なことはさせていただきましょう」

 東京都知事・渋沢功一は席を立つと、C基金のメンバーに一礼して退出した。  

 

 


act.5-4;みつりんのせんもんか
 原始技術研究所の境伸也は、19号埋立地「ネオタウン」のBAR・白薔薇のカウンターで、琥珀色の液体の中に揺れる氷を見つめていた。
 原始技術の再現と考察を旨とする原始技研は、皆、貧乏である。その上、野卑で野蛮で、文明が苦手である。かどうかは定かではないが、そういうイメージは拭えない。
実際彼ら原始技研のメンバーは、ほとんど例外なく誰一人としてこういう雰囲気の場所は似合わなかった。
 大して研究費がかからないからいいものの、実収益をほとんどあげることのできない貧乏学科のため、こうしたオシャレな場所によりつく機会もカネもないというのが実状かもしれない。燃え盛る炎の周囲で手作りの白い濁り酒をかっくらいながら蛮声をあげるのが似合う者ばかりであり、境もそういったメンバーの一人……否、代表格であったはずだ。
 しかし、今日の境は日頃のイメージを払拭してあまりある憂いをたたえていた。
 白薔薇のマスター・青木礼は、タンブラーの水滴を拭きながらカウンターの二人の会話に耳を傾けている。

「今日、白葉教授から連絡がありましてね。21号に行ってみないかと……」

「21号埋立地? そりゃまた、西町より妖しい場所だね」

 カウンターの人物の代わりに、マスターが応えた。19号埋立地といえば、人工群島のゴーストタウンかスラム街と言われる、どちらかといえば寂れた雰囲気の島である。
 その昔、約40年前にテストされた兵庫県芦屋市のシーサイドタウン計画のデータに基づいて、世界最大規模の高層住宅街となるべく不動産系企業の社運を賭けて建設された。しかし、計画は頓挫。壊すにも金がかかり、立て直す後継業者も決まらないまま、アジアなどから流入して来る出稼ぎ労働者が住み着き、特に西街は犯罪者の巣窟となりさがってしまった。

「火渡貴子はバリ島出身でしたから……もしや里心がついて、バリ出身の出稼ぎ労働者と接触でもしているのではないかと思ってもみましたが……。彼女の性格を考えたら、それもありそうにない話でした。あんなに気の強い直情的な娘が、昔の思い出を匂わす他人にすがりつくはずはないですよね。それに、19号にはバリの匂いはしない……」

「それで、21号を?」

「ええ。白葉教授に見せて貰った映像は、まぎれもなく南洋の密林でした。我々原始技研なら、狂気乱舞するような環境です。おそらく、彼女でもそうでしょう。僕は……あの映像のどこかに彼女が映っているんじゃないかって思いましたよ。ガジュマルのかげ、ギンネムの後ろに映ってやしないかってね」

 境はグラスを手にすると、薄まりかけたバーボンを煽った。よく冷えたフォアローゼスが喉を灼く。大して高い酒ではないのだが、洋酒を飲み慣れない境の身体はほどよく火照っていた。

「だから。21号に行こうと思うんです。21号にはバリの面影がある。たぶん、火渡貴子はあそこにいる……だから会いに行くんです」

 隣の人物が沈黙を破った。

「会ってどうするの?」

 身体をピッタリと覆う黒衣。エメラルド・グリーンの瞳にプラチナ・シルバーのボブ・スレイヤー・ヘアの凛々しい女性、ESSEことエッセンシャル・コンディショナーは、ときどき見せる冷やかな声で言った。

「あなたとその娘の経緯はよくわかったわ。あなたがその娘を心配していることも。でも、その娘は承知の上であなたの元を去ったのでしょう。無理矢理連れ戻した所で、あなたの元には根付かないんじゃなくて?」

 ESSEの言うとおりかもしれなかった。会って……会ってどうするのだ。今更どんな言葉をかけてやれるのだ。

「……」

「火渡という娘、あなたにとって大事な存在なのかしら?」

「磐田教授亡き……いや、磐田教授が不在の間、原始技研を預かるのが僕の使命です。僕にとって、研究員は誰一人欠くことが出来ないくらい大事な存在です。
 研究員が袂を分かつのはしかたないことなのかもしれないけれど……その真意を理解できないままに、道を違えるのは納得の行くものじゃない。僕は……僕は会わなければ、彼女に会わなければいけない気がするんですよ」

 境という男は、どちらかといえばおっとりとしているタイプだった。世事に動じない、というより動揺が湧いてくるのに時間がかかるのだろうか。彼の見ている時間は世間一般のせわしないペースとは少々違うのかもしれない。また、19号を根城とするESSEの知っているそれともまた違うようだ。
 今日の境は、ESSEの知っている境とも少々異なって見えた。心配症で優柔不断、世間知らずで頼りない……ここには、そういう男はいなかった。

「私事だけど、今日はESSEさんにこのことを相談しようと思ってきたんです」

 ESSEはプラチナシルバーの髪を軽く揺すって応えた。

「相談も何も……あなたの答えはもう出ているじゃない。あなたの自由な精神が、あなたに囁きかけてるのよ。正しい、あなたの取るべき道を。あたしが指し示すべきことではないわね」

「そう……そうですね」

 ずっと神妙な顔をしていた境は、今日初めて笑みを浮かべた。ESSEは境の笑みを満足そうに見ながら、ほっとため息を漏らした。

「それにしても、なんだか会ってみたくなっちゃうわねぇ。あなたのような人まで、そんなに熱くさせてしまう、その火渡貴子という娘。あたし、そういう娘も興味あるな。もし、彼女に会えたら伝えておいてくれないかしら? 『私と寝てみない?』って」

 境は困惑したような顔をしたが、一瞬後にはESSEの言葉が彼女流のジョークなのだと解釈した。
 軽い気持ちの一言ではあったものの、ESSEの言葉は決してジョークなどではなかったのだが。  

 

 


act.5-5;うちゅうとうかぶしきがいしゃ
 ゴールドシュミット公爵は、上座から都知事の出て行ったドアを一瞥した。

「東京は相変わらず儲けさせてくれるな」

「新製品及び企業の鍛錬所にふさわしい都市ですからな、ここは」

 公爵の左隣に座る、レトロなソフトスーツに身を包んだ公爵よりはやや若いアメリカ人、ウィルヘルム・トーマス・ハート総帥が相づちを打った。

「自分のたちの努力不足を棚にあげて、商品開発もせずに市場解放を迫っていた30年前の先輩諸氏の気が知れませんな。同じアメリカ人として。
 この街では、良いものしか売れない。そしてより安くなければ売れない。より良く、より安く。この街で、消費者のニーズに答え続けることができれば、相当な競争力がついてあたりまえだった。東京に投資しつつ、その実状を知ることができたおかげで、当方の競争力も技術開発意欲も上昇した。収益を上げられる上に、企業体質の大改造までできたとなれば、まさに御の字です」

 それはウィルヘルム・T・ハートの素直な感想であった。
 アメリカの誇る新進気鋭の企業コングロマリットを操るハート財団は、ウェルヘルム・T・ハート総帥の父に当たるジョナサン・ハートによってその基礎が築かれた。ジョナサン亡き後、財団の実権はウィルヘルムに委譲された。若いウィルヘルムは、老朽化したグループを再編し、東京市場への参入と将来を見越してC基金に参加したのである。

「公爵の方はいかがですかな?」

「うむ。資本の回収率は悪くない。このまま、彼らにさっさと開発を進めさせ、圧力をかけるのもたやすいことだろう。この国も、この都市も、相変わらず外圧に弱い。それは30年たった今もまったく変わっておらん」

「我々の東京に乾杯したいところですな」

「それも結構な意見だが、その前にお知らせすべきニュースが2件ある」

 ゴールドシュミット公爵に視線が集まった。

「まずひとつ。かねてより、我々C基金のスケジュールにあった新しい企業を、今日ここに発足させる」

 C基金のメンバーは、各々の前に並べられていた皮張りのブックレットを開いた。皮表紙には『アイランズ・オブ・スペース・コーポレーテッド(宇宙島株式会社)』という文字が金で箔押しされている。1ページ目にはこう書かれている。
『宇宙島不動産売買の基礎方針』
 そして、小さく赤いタイプ文字で『Your Eyes Only(最高機密)』とある。

「今はまだ、名目だけの会社だ。いや、ファニー・カンパニー(冗談企業)と思わせてもいい」

「会社のキャッチフレーズは『宇宙売ります』ですかな? 子供の頃読んだ……ハインラインの『月を売った男』を思いだしますな」

 ハート総帥が軽口を挟む。公爵は総帥を無視して先を続けた。

「ただ、C基金の名が表に出るような形での公表は好ましくない。当面、この会社の真の目的は伏せておくようお願いする。各人、機密の漏洩が起こらないよう注意していただきたい。
 そして、忘れないでいただきたい。我々C基金の本来の目的は東京を食い物にすることではない。この勤勉な働き者たちの住む都市をベースに、彼らを馬車馬のように働かせ、宇宙島不動産売買を現実のものとするための基礎を築かせることにある。
 宇宙開発は国家などに任せていては遅々として進まん。我々C基金の手で宇宙島不動産を現実のものとしなければならん。そして……」

 公爵は席を蹴って立ち上がった。

「我々C基金がその新天地を、支配する!」

 総帥、他のメンバーがそれに続く。

「そうだ!」

「神が天地を創造するのに6日を必要としたという。我々の新天地は6日では完成せん。しかし、新天地が現実のものとなったとき、我々は神に続く者となる。人類は地を離れ、より神の御元に近い天空に住まうようになるのだ。そのとき我々C基金は、新天地を管理し、統べる者となる。
 世界を動かすのは、イデオロギーではない! カネだ! 経済だ! 企業だ! ハレルヤ! 神の祝福あれ!」

 異口同音の興奮が室内を襲った。イギリス人ゴールドシュミット公爵の、カリスマ性溢れる弁舌を聞きながら、総帥は記憶の片隅にある何かを思いだそうとしていた。歴史上この上なく著名な弁舌家であり、アメリカ人にとって……いや、ユダヤ人にとって忘れることの出来ない禍々しい誰か。

(アドルフ……)

 公爵の姿に、総統と呼ばれた男の姿が二重った。
 なおも、支配者たる自らの未来を祝福する人々の興奮が支配する室内で、一人ハート総帥だけがその興奮から急速に脱していた。
 だが、ハート総帥もまた抜け目のない男だった。今は、いい。今はまだ、このままC基金に身を起き、ゴールドシュミット公爵たちと歩みを同じくすることが、ハート財団にとって得策であると直感していたからだ。
 宇宙島が現実のものとなったとき、それを手に入れるのははたしてC基金いや、公爵なのか。それとも……。

 総帥の一瞬の夢想を破ったのは、またしてもゴールドシュミット公爵であった。

「Shat Up Please.(お静かに) ジェントルメン。二つ目のニュースをお知らせしよう。ルフィー、入りたまえ」

 先ほど渋沢功一が出ていったドアの前に立っていたのは、若き私立探偵・ルフィー西石その人であった。

「さあ、こっちへこい。先年より東京人工群島に派遣していた、我がゴールドシュミット・ファミリーのホープであり、私の息子だ」

 ハート総帥は、年若い探偵を一瞥した。

「……正確には、公爵のミストラル(愛人)のご長男でしたな」

「……左様。ずいぶんとお詳しいようだが、総帥は我がゴールドシュミット公爵家の家系に御興味でもおありかな」

「いやいや……ルフィー西石氏は、東京人工群島でも格別に目立つ人物だという噂を、現地のエージェントから聞いておりましたもので。いや、ご活躍なによりです」

「ルフィー……あれだけ言ったのに、まだわからんのか。いいかげんに探偵などという仕事はやめろ。そもそも探偵が目だってどうする。お前には所詮、隠密行動などできんのだ。
 騎士道精神を持って正々堂々渡り合うことを常とする高潔なイギリス人には、探偵などという下卑た職業は向かん。犬のようにはいずりまわり、身分を偽って騙しあうなどおまえには絶対にできまい。そういったことが得意な探偵といえば、マーロウ、スペンサー……見ろ、皆アメリカ人ではないか」

 ハート総帥が、むっとして付け加えた。

「お言葉ですが公爵。シャーロック・ホームズという希代のコカイン中毒探偵はイギリス人ではありませんでしたかな」

 公爵は再び総帥の言を無視すると、改めてルフィーをC基金のメンバーに紹介した。

「諸君。ルフィー西石は、ゆくゆくはゴールドシュミット家を譲り受けることになるであろう人物だ。私は、彼をこのC基金のメンバーとして迎えるつもりでいる。もちろん、今はまだその器にはほど遠いがな」

 先ほどまでの興奮が嘘のような、静まり返った沈黙がその場を支配していた。C基金主幹によって将来を嘱望される青年は、父・ゴールドシュミット公爵から押し寄せる重圧に無言で耐えていた。
 傍若無人と思われる行動をとり、何者をも恐れないルフィー西石は、まるで借りてきた猫のようにおとなしかった。公爵はそっとルフィーを傍らに招きよせると、その耳元に囁いた。

「ルフィー、お前はこのC基金に名を連ねる人間の誰一人にさえかなわない。お前にはまだ実績がないのだ。事業で一山あてたこともなければ、誇りある栄誉を自らの独力でかち取ったこともあるまい。ゴールドシュミット家の資産をいくつか使っているようだが、それも金のムダ使いしかできておらん。
 お前から、ゴールドシュミット家の威光をとりされば、何の庇護もないただの小倅にすぎん。おまえに可能性を見いだしておるからこそ、ゴールドシュミット家の末席に座らせているのだ。今の生活を続け、お前の母親ともどもこの東京で惨めに暮らしたくないなら、私の命令を聞くことだ。
 まず、探偵はやめろ。それから、ルフィー西石もしくはゴールドシュミット家の名を持ちだして不用意に目立つな。そして、敵を作るな。メリットのない行動はとるな。
 私は、探偵などという……それも、何一つ事件を解決できない道楽をさせるために、お前を東京人工群島に行かせているのではない。C基金の目として耳として現地に赴かせるために、お前をこの東京においているのだ。それをよく、肝に命じておくことだ」

 冷汗がルフィーの身を震わせた。これが、格の違いというものか。世界経済の中心であるロンドン・シティを牛耳り続けてきたゴールドシュミット家当主、スコット・フィリップス・ゴールドシュミット公爵は、世界経済を、そして必要ならば世界そのものを思いのままに動かすことのできる、実在の覇王であった。
 実父との格の違いを思いしらされたルフィーは、身も凍る思いに耐えるのが精一杯だった。

「My Son. Understand?(返事は?)」

「Y……Yes Father(はい、父さん)」

 ゴールドシュミット公爵は、にっこりと微笑むとテーブルを囲むC基金のメンバーたちに向かって言った。


Illustration by Kunio_Aoki

「ジェントルメン。『そのとき』がきたら、彼を同志として、そしてゴールドシュミット家からの代表として迎えて欲しい。心からお願いする」  

 

 


act.5-6;ばいおすふぃあ じぇい つう
 根戸宏からの送信は2日に渡って続いた。もちろん、泊り込みの装備を持って本格的に出かけていったわけではないから、初日は一度先行ロケを切上げ、翌日再び21号を訪れたのである。
 初日こそ愕然としたが、見慣れてしまえば何ということはない。
 モニタに映る根戸は、好奇心に爛々と輝く瞳を向けてこう宣言した。

『この島の異常なフローラ(植物層)については昨日送信したので、今日は動物について目に止まったものを送信する。鳥類などの一般的生物は、昨日の映像の中に入っていると思うので、今日はやめておく。今日、下見する地域で新たな発見があり次第、映像を送るので、待機状態でいてほしい。以上』

 それからしばらく、不通状態が続いた。ときおり、鳥や虫の類が映っている映像が送られてきたが、それらが何という種類のものであるのか、果たして21号埋立地に生息しているのが不思議でない生物なのか否かは、飛鳥龍児の知識の範疇の外にあった。しかし、専門家が見れば、きっと昨日の白葉教授と同じ反応を示すようなものばかりなのだろう。

「専門家といえば……今日はバイオスフィア絡みで何か記者発表がなかったっけ?」

 昨日から引続き映像の記録を手伝っている同僚は、あくびをかみ殺しながら言った。

「あ……ああ、あれね。報道の連中が収録に出かけてるよ」

「今見られるのかな」

「GNNのラインが入ってるから見られるだろう。ほれ」

 外電を流していたモニタのひとつに、見慣れた白葉教授の姿が映った。

『……というわけで、この「バイオスフィアJ−II」は、長きに渡って六ヶ所村で稼働して参りました「バイオスフィアJ−T」のデータを元に整備改良された閉鎖生態系実験施設となるわけですな。知っての通り都立東京洋上大学は、持てる全知識をこのバイオスフィアJ−IIに導入し、またバイオスフィアJ−IIで得られたデータを素早く個々の研究にフィードバックするという体制で、最短のスケジュールで計画を進めております。
 例えば、これまでに我が農業工学科は野菜工場の技術を転用した促成純粋栽培、大気湿度調整を行なう菌や藻の類を個別に研究開発してきたわけですが、そういった農業工学科の技術だけでなく、電子工学、放射線工学、機械制御、心理学、宇宙医学、航空工学などを始めとする多くの学科の蓄積してきた技術を、広くグローバルな協力体制によって応用しあっていくことが、この計画の成否の決め手となるでしょうな』

『……バイオスフィアJ−IIの実質的稼働はいつ頃になりますか?』

『……実質的稼働という言葉が、どの実験段階を指しているのか定かではありませんが、各種動物実験や植物制御実験などの個別実験はすでに行なわれとります』

『……では人体実験……と言いますか、将来的に人間がこのバイオスフィアJ−IIの中で生活するといったことが考えられますが、それはいつ頃に?』

『……そぉですなぁ。スケジュールに大きな変更がなければ、この夏以降くらいには長期に渡る完全気密実験に挑戦できることでしょうな。そして、近いごく近い将来には、これと同じ機能を持った施設を、東京人工群島以外の場所に作りたいものですな。いやぁ楽しみです』

 モニタの中の白葉は、かんらかんらと笑いながら言った。その姿も、口調もまるで新しい作物の収穫を待ち遠しがる農民のようにしか思えなかった。
 モニタから視線を外した同僚はつまらなそうに伸びをした。なるほど、根戸の言うとおり、これだけの重大事になぜ彼らは興味を向けないのだろうか。根戸に言われるまで確かに自分も興味を持っていなかった。今となっては、そう大した事ではないと思い込んでいた事の方が不思議であった。
 そういえば根戸の調べたデータの中に、過去に行なわれた閉鎖系環境実験の実績について記した物があった。大々的に公表された最初の閉鎖系環境は、1991年に始まったツーソンの「バイオスフィアII」だった。
 しかし、石油王が数百億を投じたというこの計画は、予備食糧の備蓄、内部大気の入れ替えなど、その計画のずさんさから「デタラメだった」と広く報じられた。遠く28年も前のひとつの例が、こんなにも長く多くの人々の心理を支配し続けてきたのだとすれば、説明もつくのかもしれない。
 そしてもし、最初の「バイオスフィアII」が、閉鎖系環境実験から注意をそらすために意図的に「デタラメ報道」を促したものであったら……。それも根戸の推論のひとつだった。

 バイオスフィア実験は人類が宇宙空間で生活するための、宇宙に住むための基礎研究だ。順調に進めば、ここからのフィードバックされる技術だけでなく、人類が宇宙で暮らすことは当り前の時代が来る。小説や映画のような世界が実現する。これはSFなんかではなく、本当に行なわれていて、しかもこの研究には完成の目処がたちはじめている。
 成功裏に終わればその研究成果は、実験ステーション・フリーダムやミールの後継となる超大型ステーションに即座に応用されるだろう。そのとき、いわゆる宇宙島は現実のものとなるのだ。
 大空を見上げたライト兄弟が空を手に入れ、さらにその遥かかなたに輝く月に人類が足跡を残したのはもう何年前の事だろう。「行く」ことはできても「住む」ことのできなかった世界に暮らすことができるようになる時代は、誰も気づかない内にもうそこまできていた。
 根戸化の症状は進んでいたが、飛鳥はまだ根戸ほどの超現実主義者にはなりきれていなかった。昔、ガンダムのアニメで見たジェラルド・オニールの宇宙島が思い出される。

「宇宙に住みたいなぁ……」

「あ?」

「あ、いや。なんでもない」

 飛鳥は怪訝そうな同僚の視線を振り払った。
 話題をそらすかのように調子よく、データ中継室のドアが開いて鵜飼クーミンが顔を覗かせた。

「飛鳥くぅん。君にお客さんよ」

「は? 俺にですか?」

「女の子のお客なんて、やぁるじゃない、くのくのっ!」

「女の子? ジェーン壱代寺なんて落ちじゃないでしょうね……」

 自分を訪ねてくる女性など、飛鳥には心当たりがなかった。彼女なんかいないし、最近女の子を泣かせるような真似をした記憶もない。酒で前後不覚になっているときならありえないとは言えないが……。
 クーミンに促されて中継室に現われたのは、見覚えのある顔立ちをしたセミロングの女の子だった。根戸のマンションに現われ……そして泣いた女の子。


Illustration by Kunio_Aoki

「……平山……恭子さんでしたよね」

「あの、先日はおさわがせしました。憶えていてくれてありがとうございます」

 恭子はぺこりとお辞儀をした。
 飛鳥はどういう態度をとっていいものか困惑した。そんな大したことをした記憶がないからだ。恭子を騙して操ろうとしていたルフィー西石からの贈り物であるブローチを窓から放り捨て、泣き続けていた恭子にハンカチ代わりに持ち歩いているバンダナを渡した。それだけである。
 それだけのことが恭子を立ち直らせるのにどれだけ役だったか、まったく気づいていないところが実に飛鳥らしい。

「いや、そんな……」

「今日はこれをお返ししようと思って」

 恭子はパステル・ブルーの可愛らしい小袋を差し出した。ほのかに石鹸の香りがする。巾着の口を開くと、中には飛鳥が渡したバンダナが納められていた。もちろん、貸した時よりずっと綺麗に洗濯されている。

「ああ、これ……捨てちゃってもよかったのに」

「いえ、そんなわけにはいきません。なんとなく、嬉しかったんです。あなたに、飛鳥さんに優しくしていただいたことが……だから、大したお礼はできませんけど、せめてこのくらいきちんとしなくちゃって……それで……」

 それで……もう一度あなたに会いたくて……というセリフが恭子の喉につかえた。

「いやあ、優しくだなんて……」

「ひゅーひゅー、飛鳥くんてやぁさしぃのねぇん☆」

 ふと周囲を振り向くと、誰が呼び寄せたのか(きっとクーミンに違いない)あたりに居合わせた暇な連中が群れなしていた。

「あ、あんたらなぁ……」

 そのとき、新たな映像がモニタに飛び込んできた。

『……ま、今の撮ったか、新田!?』

『すんまへん、見えまへんでしたぁ』

『今確かに、大きな生物があの辺をよぎったんだ。こう……うーん、猿のようでもあり、猫のようでもあり……でも猫にしちゃあでかすぎるし、猿にしちゃあ動きがしなやかすぎるな。なんだったんだ、今の』

『まだその辺におりまっしゃろか』

『キャメラ、この辺の映像は送りっぱなしにしてくれ』

『はぁ、さっきから、やってますわ』

『いいぞ。今度さっきの奴が現われたら、今度は逃さないでくれ』

『根戸はん、わし、なんや悪い予感しますねん。今日はこの位にして引き揚げまひょ』

『あほう! 何言ってるんだ、さっきの奴をキャメラに収めるまでは諦めんぞ』

『はぁ、さいでっか。しゃあない、ならお供しま……』

 不意に映像と音声が途切れた。
 根戸宏と新田アインワース雅文の掛け合いを映し出していたモニタには、砂の嵐とノイズだけが流れていた。  

 

 


act.5-7;おんごろながらぱごす
「はぁ、さいでっか。しゃあない、ならお供しまっさかい」

「その意気、その意気」

「……あ、ちょっと待っとくなはれ」

 新田アインワース雅文の視界がブラックアウトした。キャメラのスコープから目を離し、キーをいくつか操作するが応答がない。

「すんまへん。根戸はん。キャメラ、いかれてまいました」

「な・にぃいいいいい!」

「ま、ま、ま、ま。そんなたいしたこっちゃおまへん。バッテリー切れかなんかですやろ。応急修理用のパーツも工具も予備のバッテリーもちゃんと用意してはりまっさかい、安心しとくなはれ」

「おお、それでこそポストマスター・新田! さすがだねぇ」

「まっかせてくんなはれ。ほな、ホバー・ボートまで戻りまひょ」

「なに?」

「パーツも工具もバッテリーもホバー・ボートん中にありますねん。せやから、いっぺんホバー・ボートまで戻らなあきまへんのや」

 根戸はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。

「……さっきの生き物を見かけたのはここだ。ということは、この近辺で張ればもう一度アレが見られるに違いない。しかし、ここで二人ともホバー・ボートに戻ってしまうと、正確な場所がわからなくなってしまう。そこで、だ。僕はここに居残って君がキャメラの修理を終えて戻って来るまでマーキングしていることにする」

「えええええっ!! 僕に一人でホバー・ボートまで戻れ言わはるんですか!? そんな殺生な!」

 新田もへなへなとその場にしゃがみ込んだ。

「だって、ホバー・ボートまで戻りたがってたじゃない、きみぃ。それとも一人で戻るのが怖いのかね?」

「そら、怖いでんがな! こんな薄気味悪いとこ、一人なんかでよう歩けやしまへんわ!」

「それだったら、僕の方が怖いぞ。こんな薄気味悪い所に、一人で居残らなきゃならんのだからな。ああ、怖い。すごく怖い」

 大して怖がっているようには見えなかった。

「根戸はん……あんさん、もしかして疲れて動きたないから、ここで休んでようっちう腹やおまへんか?」

 図星だった。

「……いーかね? 僕か、君かどちらかが、この場に残らなければならない。キャメラの修理は君にしかできない。そうなれば、僕がこの場に居残って君がホバー・ボートまで戻るしかないだろう。ああ、もうひとつ手があるぞ。君がこの場に居残って、僕がホバー・ボートまでパーツと工具とバッテリーを取りに戻り、君がこの場で修理する」

「……負けました。行きゃええんやろ、行きゃ……わしの方が手ぶらのあんさんよか、よっぽど疲れよるんで……」

 新田はなおもぶちぶちとこぼしながら重いキャメラをかつぎ上げた。

「ああ、そうそう。戻って来るときの目印は、この……木の柱だ」

「柱? それ、ただの木やないんですか?」

「よく見たまえ。この柱は、明らかに人の手が加えられたものだ。地面に根を張ってたっているんじゃない。何かの目的で誰かが『建てた』んだよ。そして、これはまだそんなに古いもんでもない……この意味、わかるね?」

「つまり、やっぱり21号には何か……いや誰かがおる、と……」

「そういうこった。だからこれは絶対にキャメラに収めにゃならんのさ。さ、納得いったら、れっつごぉ!」

 確かに納得はいった。しかしまだ何か狐につままれたような気分が、新田の胸の内に残った。
 いままで踏み分けてきた道……とおぼしき下生えをとぼとぼと戻る新田の背後から、根戸の軽口が聞こえた。

「気をつけてねー。悪い狼に気をつけるんだよぉ☆」

「狼なんぞ、おりゃしませんがな。ここは東京でっせぇ!」

「わっかんないよぉ。ここは21号……東京ガラパゴスだぜぇ!」

 2時間後、キャメラの修理を終えた新田が再び「柱」の前にたどり着いたとき、そこに根戸宏の姿はなかった。
 柱の周囲の草が微かに乱れているようにも思えたが、根戸を探してうろつきまわるうちに、草の乱れが人為的なものなのか、自然によるものなのかは不鮮明になっていった。
 柱の近くの梢に何かの血痕がついている。新田の不安ははちきれんばかりに膨張していた。
 新田はキャメラを回すことさえ忘れて根戸の名前を叫んだ。

「根戸はん……ねーとーはーん!」

 21号にいる間は、根戸宏の存在そのものが唯一の見慣れた現実だった。
 現実を失った新田は、自分の居場所がここにないことを悟った。ここは自分のいる場所ではない、ここは自分の現実ではない、ここは、ここは……。

 それからどこをどう走ったのかは憶えていない。
 ホバー・ボートにとりついたまま失神している新田が、近くを通りかかった海上保安庁の巡視艇にみつけられたのは、その日の夕方近くになってからのことである。

 その後、根戸宏の消息はぷっつりと途絶えた。  

 

 


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(c)1992楠原笑美.