act.5-1;覇王の系譜


 ゴールドシュミット公爵は悲劇の人生を歩んでいる。

 ルフィー西石の実母である西石ちづるは、当時イギリスを訪れていた日本の西石財閥総帥・故西石哲治の孫娘にあたる。
 ちづるは、ロンドン・シティに名を覇す新進実業家であったスコット・フィリップス・ゴールドシュミット伯爵(当時)と恋に落ち、今を去る西暦1993年の暮れにスコットランドでルフィーを産み落とした。
 だが、スコットランド貴族の血を重んじるゴールドシュミット家は日本人・西石ちづるをゴールドシュミット家に迎えることを拒んだ。
 ルフィー誕生の3年後、スコット・フィリップスは、イングランドの名門貴族・マクデイビッド公爵家の娘・シャロンを妻に迎え、王室より公爵位を授かる。
 スコット・フィリップスとシャロンとの間に一人目の正統な嫡子ができた1998年、スコットランド・キンタイア半島南部のキャンベルタウンで静養中だった身重のシャロンは、生まれいずる直前の嫡子ともどもIRAのテロによって爆殺された。
 その後、スコット・フィリップスは西石ちづるを妻に迎えようとしたが、再び周囲の反対にあい、以後、妻を娶ることをやめた。
 結局、西石ちづるはスコット・フィリップスの愛人として、スコットランドに邸宅を与えられることとなった。このときすでに西石哲治は亡く、スコット・フィリップスは西石財閥を秘密理に継承し、その日本における実権を掌握しつつあった。
 このときルフィー西石は7歳。

「……懐かしいな」

 今や、ロンドン・シティ……依然として世界の経済の中心たるこの金融の魔都を牛耳る覇者となったスコット・フィリップス・ゴールドシュミット公爵は、古いアルバムを閉じて感慨深いため息を漏らした。
 傍らにはすっかり歳老いてしまったちづるの姿がある。気疲れのせいか、それとも病のせいか。老いは彼女の身体を、本当の年齢よりずっと老け込ませている。

「懐かしいですわね。でも、まだ昨日のできごとみたい……」

 ちづるは透けるように薄い陶器のカップに、グリン・ティーを注いだ。紅茶とは異なる甘く香ばしい香りが悠久の時間に支配される部屋の中に広がっていった。

「いろいろあったけど、私はあのときも……そして今も貴方のことを愛していましたよ」

 公爵はそれには答えなかったが、20数年に渡って公爵だけを見つめてきたちづるにとって、言葉は無用だった。
 公爵にとって、ちづるは妻ではない。もちろん、世に称しているように愛人の一言で済ませられる存在でもなかった。ちづるは公爵が新進実業家であった頃、まだ世界経済の魔王となる以前の頃に出会った、「ひと」であった。
 公爵の心に人間の「情」が宿っていた頃に出会い、幸せな、そして瞬くように短い夏をともにした女性……それが西石ちづるであった。

「日本は恋しいかね」

「ええ……そうね。私にとって、貴方のいるところがすべてなの。だから、貴方さえいてくれたらどこにいても寂しくはありませんわ」

 幼少の頃、家を継ぐ大任を帯びた兄たちから遠ざけられ、西石財閥の令嬢として世を知ることなく屋敷の奥底の孤独な世界に生きてきたちづるにとって、遠いイギリスで巡り会った公爵だけが世界のすべてであった。

「でもね。気がかりはあります」

「何かね」

「……ルフィーは元気かしらね」

「……元気だとも」

「最近、手紙の返事もくれないのよ」

「あれももう25だ。そろそろ仕事が正念場なのだろう」

「そうね。便りないのは良い知らせといいますものね」

 ちづるは公爵のすべてを信じていた。故に、公爵の言葉を疑うことは一度たりとてなかった。
 公爵はちづるの心を見透かしたように、質問を繰り返した。

「日本は恋しいかね」

 ちづるの表情が少しだけかげった。

「日本に行って、もう一度あの子に会っておきたいのだけれど……あたしのわがままを聞いてもらえますか」

 公爵の表情も少しだけかげった。

「わかった。では、日本へ行こう。我が息子に会うために」

 ちづるの身体が病に冒されてずいぶんたつ。今日はいくらか加減がいいらしいが、身体は日増しに弱ってきている。果してちづるの弱った身体は日本までの長旅に耐えられるのだろうか。
 路頭に迷ってどこにいるともしれなくなっているルフィーのことなど、微塵も浮かびはしなかったのだが、ちづるの身体ことばかりが公爵の脳裏をよぎった。

「きっと彼もちづるを恋しがっているに違いあるまい」

 これまで、公爵はちづるに嘘をついたことがなかった。いや、ちづるだけには嘘をつけなかったと言うべきだろうか。
 嘘も方便とばかりに、駆引きと決断で渡ってきた公爵にとって、揺るがざる真実などなかった。そこには勝者と敗者という現実があるだけで、それを決める現実の尺度である「金」だけが限りなく真実に近い現実であった。
 そんな公爵だが、ちづるにだけは嘘をついたことがなかった。何も知らないちづるが、公爵にとって都合の悪いことそのものを知らなかったこともある。
 また、あえて告げなければならない事実を、伏せて告げなかったことはあったのだが。

「大丈夫」

 公爵はちづるに対しては、恐らくは初めての嘘をついた。  

 

 


act.5-2;私の青空
 その日、ゴールドシュミット公爵来日のニュースが巷を賑わせていた。

『ゴールドシュミット公、来日』
〜ロンドン・シティ金融界の重鎮、東京を視察〜

 東京人工群島に進出するEC系企業体「ロード・ブリテン(日本支社;群島区北・伊島12−12)」の会長にしてロンドン・シティ金融界に多大な発言力を持つといわれる、スコット・フィリップス・ゴールドシュミット公爵が8日未明成田に到着した。
 ゴールドシュミット公の今回の来日目的は、ロード・ブリテン日本支社と人工群島の視察とされており、人工群島開発を手がけるロード・ブリテンの今後の運営方針を見極めるためと思われる。

「クソ親父め……」

 ゴールドシュミット公爵の来日を知ったルフィーは、怒りと恨みを新たにしていた。
 中島えりかからは何の連絡もない。ASにも出勤していないところを見ると、ルフィーを見限って公爵に寝返ったのか、それとも当に殺されてしまっているのか。たとえどちらであったとしても、すでにルフィーに協力できる状態にないことだけは確かだった。
 ルフィー西石の資産はすべて凍結されていた。銀行口座は総て凍結され、オンライン支払い機も、カードもいっさい受け付けなくなっている。伊島にある西石探偵事務所は昼となく夜となく制服警官の監視下にあり近づくこともできない。ルフィーが役員を務める群島内外のすべての会社は、口を揃えてルフィーの解任を告げるばかりだった。
 群島各地のLANに調査のための不法侵入を繰り返してきたことは確かにルフィーの犯した犯罪であったが、これまでルフィーの行為に目をつぶっている約束だったはずの警察上層部はこぞって沈黙を守り、法の正しい守護者であるように振舞っている。
 すべて、公爵の指図であろうことはわかりきっていた。特権と財産を奪われたルフィーは、翼をもがれ大地にたたき落とされた鳥のようなものだった。さっきまで大空は自分のものだったのに、今は木立の隙間から遥か上方の空を見上げるばかりである。
 自分に与えられていた力が、自分の実力によって得られた物ではないということを、いまルフィーは心底から実感していた。そして、父・ゴールドシュミット公爵の実力と本気に、心の底から恐怖していた。
 だが、今更尻尾を振って許しを乞うなど、誇り高いルフィーにできるはずもない。スコットランド貴族としての誇りさえ、実は公爵によって授けられたものであったにも関わらず、それを忘れたルフィーに道は残されていなかった。
 忘恩の輩は実子であっても容赦しない。それがルフィーの父親のやり方だった。

「クソ親父め……」

 富吉はでかけている。
 ルフィーア・ウェストストーンを名乗り、富吉の元に身を寄せているルフィーのことを、彼がどう考えているのかはわからない。まだ、ルフィーアがルフィーであることに気付いてはいないらしい。
 ルフィーの変装が精巧であるということもある。が、この部屋にやってきてから富吉が「ルフィーア」の姿を直視したことはほとんどなかった。
 女装が似合う男は元々の顔の造りも決して悪くない者が多い。肌がきれいで顔立ちが整っていれば、後はメイクと服飾でいくらでも美女になれるのだ。ルフィー自身は自分の変装には絶大な自信を持っていたが、富吉は「ルフィーア」の後ろ姿や振り向きざまの瞬間以外、まじまじとルフィーアを直視できないでいるようだ。
 ルフィーがルフィーアとしてこの部屋に転がり込んだ後も、富吉は滅多に部屋に帰ってはこないため、言葉を交わすことさえ稀であった。
 実際、いくら自信があったとはいえ、いずれ富吉に正体がばれてしまうであろうことも警戒していたのだが、一向にその気配が見られないことは、ルフィーにとって不審であり不思議なことでもあった。

「富吉の奴……どこで何をしているのか知らないが……あいつ、まだ僕の正体に気付かないのか……?」

 その頃、超現実派探偵・富吉直行はといえば、日銭を稼ぐため浮気調査にせいを出していた。しかも、転がり込んだ「ルフィーア」のために、甲斐甲斐しく働いていたのだが、ルフィーはそんな事実は知る由もなかった。

「それにしても……クソ親父……」

 ルフィーは、もうすっかり慣れてしまった「ルフィーア・ウェストストーン」のメイクを施すと、ルフィーア・ウェストストーンとして富吉の部屋を後にした。

 富吉直行は、最近ちょっと幸せだった。
 これまでは食うや食わずの生活だった。もちろん、これからもそれはさほど変わらないかもしれないが、今の富吉には不毛な食うや食わずの貧乏生活を彩る、一輪の希望があった。
 希望とは建設的目的でもある。つらい毎日の後、部屋に戻れば……それも小汚い三畳間などではなく、とびきりの女の子が待っている2DKともなれば、出歯亀的な浮気調査にも張合いが出ようというものである。
 富吉だって別に浮気調査や素行調査が好きなわけではない。だが、体力(アクション派という意味ではなく、労働派というべきだろうか)勝負の探偵である富吉が務めることができ、なおかつ探偵としてもっとも現実的な仕事といったらこれしかないのである。かっこいい名前の探偵社を名乗ろうが名乗るまいが、仕事の内容は変わらない。
 だが、今日の辛さも彼女のため。そう思えばこれまでの3倍の浮気調査をしてもちっとも辛くなかった(それほど浮気調査の依頼がくれば、であるが)。

(……たくさん稼いで彼女におみやげを買って帰ろう。女の子はどんなものをプレゼントされたら喜ぶのかな。あの子の喜ぶ顔が見たいなぁ)

 人間、こんなことを考えていれば自然と顔に出るものだ。ラブホテル街のどまん中で、電柱の影に立ってにへらとする男ほど気味の悪いものはないと思うのは、STだけではあるまい、と信じたい。

 やがて、目当てのカップルが周囲を気遣いながらラブホテルの裏口に現われた。
 富吉は去年の蓄えをすべて吐き出して買った、中古の微細キャメラを向けコートの懐に突っ込んだCCDレコーダーの録画スイッチを入れた。
 最近出回っている超微細キャメラに比べたらずいぶん大きな代物と言えないこともないが、型落ちだけあって価格も安く、三宅総研製ということもあって性能は確かだった。富吉にとっては高い機械ではあるが、大事な商売道具である。
 依頼してきたのは嫁さんの方で、ダンナの浮気の相手は男だった。
 それぞれ間をおいて最初にダンナが、次に浮気相手の男が顔を出した。人の趣味にケチをつける気はさらさらないが、富吉は彼らの趣味に少しクラクラしていた。
 録画ディスクをまわしっぱなしにして、ダンナの後に顔を出した浮気相手の男をフレームに納め、そのまま腕を組んでラブホテル街を抜ける問題のカップルたちを映し、背広をきた男同士のカップルが、ラブホテル街を出たところで何事もなかったかのように挨拶をして別れる所までをディスクに納めたところで止めた。

「……ああー、こんな仕事もうやだぁ!!」

 一人ごちてみたが、これより他に今の富吉には食っていく術がないことも、富吉自身はよく知っていた。
 この映像を納めたディスクはきっとさっきのダンナを破滅に追い込むだろう。そして富吉にとっては想像もつかないような金額の慰謝料が飛び交うに違いあるまい。
 だが、富吉がこの仕事によって手にすることができる金額は、それに比べたらはるかに微々たるものである。それでも、彼が食べていくには必要な金であった。

「さぁて、今日はここまでにして帰るか」

 何しろ今の富吉には生きていくための楽しい希望がある。男同士の浮気を追っかけるなど辛くない。いや、辛いけど我慢できる。と思う。

 西石は心を踊らせながら家路についた。
 最近、部屋に帰るのが楽しいのだ。前は誰もない何もない三畳間は寝るためだけの場所だった。しかし、今は彼女がいる。彼女の顔を思い浮かべるだけで心がタップを踏むのだ。日暮れてたどる狭いながらも楽しいわが家。そこにいる彼女こそ、富吉の心の青空であった。
 ルフィー西石から預かった彼女は恥ずかしがり屋で、富吉の目を直視することもできないほど内気に見えた。そして富吉もまた実はうぶで女の子の目を直視できない、妙な所で押しの弱い内気な奴であった。
 今日こそは、明日こそはと彼女を押し倒すチャンスを狙っていたのだが、いざ、部屋にたどりつき彼女の後ろ姿を見ていると、どうにも手を出す勇気が湧いてこない。もうそれだけで十分な気持ちになってしまうのだ。
 これまでが貧乏すぎたので、いっぺんに色々な幸せがやってくると何から手をつけていいか判らなくなっているらしい。
 だが、富吉はそれでもいいと思っていた。
 何事も過ぎたるは及ばざるが如しというではないか。まずは見て楽しもう。そのうち見ているだけでは飽き足らなくなって、後ろから「ぎゅ」と……抱きしめてしまう気になるかもしれないし。

「やっぱり、女の子のいる風景もいいかなって気がするよなぁ……」

 さいざんすか(^_^;)

 富吉はドアを開けて帰宅を彼女に知らせた。

「ルフィーア! ルフィーアさん、帰りましたよぉ(^_^)」

 だが返事はなかった。
 部屋の中は暗く静まり返っている。部屋の明りを灯し、あたりを見回すがルフィーアの姿はどこにも見えない。
 机の上も、ルフィーアのために明け渡したベッドの周囲も、富吉が貯金を崩してルフィーアのために買い足したドレッサーの上もそのままに。
 つい先ほどまでそこに誰かがいたような、しかし実は最初から誰もいなかったような……ぽっかりと何かが抜け落ちたような空虚さだけがそこにあった。
 ルフィーアがこの部屋にきてから、必ず富吉の帰りは彼女が出迎えてくれたのに、今日は彼女の姿はどこにもなかった。
 誰かと争った様子もなく、部屋の中はまるで時間が止まってしまったかのようだ。
 きれいに片付けられたテーブルの上に、一枚のメモがあった。

富吉直之様
短い間でしたが ありがとうございました
ルフィーア・ウェストストーン
 

 

 


act.5-3;大事なものを探しにいった
 西石探偵事務所の周囲に人影はなかった。
 男は、道路を挟んだ向かいに建つビルの一階にあるファースト・フード・ショップのウィンドウから、人の気配が途切れて間もない事務所を見つめている。

 連日、制服の警官が出入りして建物の捜索が行なわれ、申請されていた銃器類以外に用途不明の山のような未登録の銃器が押収された。ルフィー西石とゴールドシュミット公爵家の関係は已然として厚いベールに閉ざされたままで、その関連を裏付けることはできなかったが、公爵家の援助を断ち切られたルフィーを逮捕することは誰も禁じてはいなかった。
 今のルフィーには、私的・公的情報保護法違反によるLAN不法侵入、銃刀法違反の未登録の銃器類所持を始めとするいくつかの嫌疑がかけられている。
 航空警邏隊ができたとはいえ彼らの練度はまだ浅く、群島東署とともに失われた優秀な警察官たちの人的損失は金やわずかな期間では埋め難いものであることは、こうして現場で捜査を進める捜査員たちが、もっとも骨身にしみて感じることだった。憎むべきテロリズムは、国際犯罪どころか群島内という、この狭い地域での公安活動にさえ暗い影を落し続けている。
 潜伏したルフィーを探す刑事たちは、ルフィーとコンタクトをとった形跡のある人物たちをしらみつぶしにしていったが、手がかりはつかめなかった。
 ルフィーに雇われていたと思われるASのディレクター・中島えりかに至っては、2週間以上前に「私的な取材」と称して英国へ発った後から消息が途絶えている。ルフィーと共犯関係にあったかどうかは不明だが、何かしらの手がかりを持っているであろうことだけは間違いないはずなのだ。

「だが、手がかりは糸だけ残して消えちまったと……」

 2週間ほど前のあの日、西石探偵事務所に踏み込んだ中年の刑事は、コンビを組んで2年になる後輩の報告を聞きながらマイルドセブンに火を付けた。

「先輩、この店、禁煙っすよ」

「……構うもんか」

 と言いながらも、火を付けたマイルドセブンの先を持ち歩いているシガレットケースの蓋に押しつけて火口を落とした。
 刑事とは因果な商売である。聞込みをし、張り込みをし、煙草を吸って身体を壊す。その繰り返しである。刑事物で刑事の描写にあまり差がないのは、決して脚本家の腕が悪いからではなく、何十年経とうが刑事の行動パターンが一向に変わる気配を見せないことに起因するのだと思う。
 刑事はそろそろ暑くなってきた化繊の黒いコートを着たまま、温いコーヒーをすすった。

「女、女か……そういや、ルフィー西石と付き合いのある探偵屋……富吉直行の所、あそこに女が出入りしてたな。あの女、何者だ?」

「さぁ……依頼人の秘密を守るため言えないとか言ってましたが……」

「ふうん。いや、どこかで見たことがあったような気がしてなぁ。どこで見たんだっけ……?」

 ルフィーア・ウェストストーンは、表通りの私服刑事の目を盗んで西石探偵事務所の中に忍び込んだ。VISにつながれているホーム・オートメーションの類はすべて切られている。が、刑事たちが拳銃で撃ち抜いたドアからは室内へ出入りできた。
 秘密の抜け道としていた通路をさかのぼり、ドレッサー・ルームに入る。割れた鏡の破片が部屋の隅に寄せられてはいるが、大勢の人間の靴跡が「家宅捜索」が行なわれたことを物語っていた。

「やれやれ……これじゃ何も残っていそうにないな」

 ルフィー西石は、西石探偵事務所に正規に登録した(ことになっている)銃器をいくつかおいてあった。
 だが、公務についている警察関係者ではなく、オリンピック小銃競技の選手でもないルフィーに、正規の小銃所持許可が正規のルートで与えられているはずがなかった。猟銃所持を除くこれらの民間人による小銃所持は、日本国内においては本来は違法とされているのだ。
 ゴールドシュミット公爵家の加護を失ったルフィーの手の中に、もはや特権は残されていなかった。

「あれが残っていればいいんだが……」

 実弾置き場であり、事実上の武器庫となっていた地下4階の銃器は総て押収されていた。地下5階に隠されていた私的射撃場にも捜索の手が伸びており、めぼしい武器はすべて警察に持ち去られていた。
 ルフィーア=ルフィーは、ドレッサー・ルームの隅に片付けられている、壊れた化粧台の引出しを開けた。使いかけの化粧品の類がどっと転がり落ちる。
 床に散乱した小瓶の中から、ハンド・クリームの入った小瓶を拾い上げると、ルフィーア=ルフィーは、それをジージャンの内ポケットに押し込んだ。
 そして、忍び込んだときと同じように、がらんとした抜け道を伝って建物の外に出た。

「うーん、どこだっけ、つい最近見たばかりのような気はしてるんだよなぁ……」

 なおも悩み続ける先輩刑事がふと顔をあげたとき、西石探偵事務所の裏手から問題の富吉の部屋に出入りしている女が現われた。

「そうそう。ちょうどああいうジージャンにミニ・スカートの娘だった……赤いバンダナで髪を縛っていて、ちょうどここで……そうだ! あのときの女だ!」

 二人組の刑事が店を飛び出したとき、すでにルフィーア=ルフィーの姿はなかった。

「あいつだ。あの女がルフィー西石だったんだ! ……犯人は必ず現場に戻る。捜査の鉄則じゃねぇか。それでここに張り込んでたのに……くそぉ!」

 悔しがる先輩刑事と対象的に、後輩刑事は妙な疑問を抱いた。

「しかし……我々がこうして張り込んでいることは奴も重々承知の上のはずですよね。その危険をおかしてまで重要なものなんて、あの事務所に残ってましたっけ?」

 ルフィーア・ウェストストーンは、有楽町線新木場駅にある旧式のロッカーの前にいた。例のハンド・クリームの小瓶に埋め込んであったキーをロッカーに差し込む。超過料金表示が示す金額の小銭を投入すると、軽い電子音とともにロックが開いた。
 中から茶色い紙袋に包んだ塊を取り出す。
 ルフィーアは富吉の部屋から持ちだしてきた唯一の荷物であったポシェット・ポーチに茶色い紙包を押し込んで、新木場駅を立ち去った。  

 

 


act.5-4;斃死もしくは犬死
 これまで、いかなることも余裕をもって行なってこれた。軍事学部の総長の所にに押し入ったときのように、多少のはったりでことを進めることがなかったとはいい難いが、その湧水のような果てることを知らない財力と、誰にもその行動を阻むことのできない権力が、ルフィー西石の行動のすべてを支えてきた。
 万一のときのことは常に考慮に入れられており、VALやVISのような信頼に値する端末によるバックアップもあった。
 だが、今のルフィーには何もない。
 いや、あるとすればただひとつ。辛うじて警察の家宅捜索の目を避けて、極めて原始的な方法で別途に保管しておいた、たった一丁の愛銃とわずかな弾丸のみだった。
 美麗な装飾が施されたこのエンフィールドは、ルフィーの18歳の誕生日にゴールドシュミット公爵から贈られた品である。父を拒み続けてきたルフィーが父から受け取った唯一の品であり、今のルフィーに残された唯一の武器であった。
 メイクを落としたルフィーは、ルフィーアからルフィー西石へ戻った。
 グリップを握り、エンフィールドの中折れ式の銃身をぱっくりと開いた。6連発の弾倉に38口径弾を一発また一発と詰めながら、ルフィーは数少ない選択の中から自分が選んだ結論を確かめ、それを自らの胸に刻んだ。

「殺す……」

 ゴールドシュミット公爵は、伊島のロード・ブリテン日本支社に隣接するコンチネンタル・ベイ・ホテルの最上階のスペシャル・ルームに滞在している。
 ホテル玄関に、こざっぱりしたスーツをまとったルフィーが姿を現わした。特別に変装を施した様子もなく、ルフィー西石本人の素顔を晒している。
 フロントの前をよぎり、30階まで直通のエレベーターに乗り込む。エレベーターの入口付近に立っていた黒いスーツの男がルフィーに気付き、エレベーターのドアが閉まったのを確認して、ハンディ・ホンに何事かを伝えた。

 エレベーターを降り、長い廊下を左へ進む。緋色の軟らかいカーペットを踏みしめながら、一歩一歩進んだ。
 ゴールドシュミット公爵の警備を引き受けている警備員の姿が一人も見えないのが不気味だった。

 長い廊下の突き当りに、一文字「S」と記した重いドアがあった。
 ゆっくりとドアを開いたルフィーの前に、その男はいた。

「やっときたか」

 ホールのように広い部屋の中に置かれた一組のソファに腰を下ろしているゴールドシュミット公爵は、ルフィーに椅子を奬めた。

「Sit down.(まぁ、座れ)」

 ルフィーは無言のまま、それに応じなかった。
 室内には顔なじみの私服警備員が3人。
 公爵は射抜くような瞳でルフィーを差しつらぬき、予想外の一言を放った。

「Your mother is a dead.(お前の母親が死んだ)」

「……ママが?」

「Yes. こちらへ立つ直前にな」

「……嘘だ」

「事実だ」

 父子は短い言葉を交わしあっていた。不必要な言葉の装飾は一切廃され、事実だけが取り交わされる。

「お前が……親父が殺したのか!?」

「馬鹿を言うな。心不全だ。眠ったまま安らかに逝った」

 ルフィーの決意が微かに鈍った。日本にいる間は忘れようと努めてきた、ルフィーの認める唯一の心許せる存在であった母親……西石ちづるが死んだというのだ。

「She is a dead.(死んだのだ)」

 公爵は目を細めた。
 これまで、ルフィーの期待している手駒などすでに何もないということを愚息にわからせようと、何度も期待や情けをかけてきた。
 それというのも、非嫡子であるとはいえルフィーが公爵の実子であること、そして長男であること、そして西石ちづるの子であったからである。
 カラードを嫌いイギリス至上主義を公称してやまない公爵が、わずかであるとはいえ良心を持っている人間であることを知っていた唯一の人間であった西石ちづる。
 そして、公爵の人としての良心の砦そのものであった西石ちづる。
 公爵のすべてを許してくれる恐らく唯一の存在であった西石ちづる。
 その死は公爵にルフィーをつなぎ止めておかせる理由をも失った。

 公爵に攻めの先手を打たれたルフィーは、自分の決意を奮い立たせるために言った。

「中島えりかはどうした」

「ここにはいない」

「……殺したのか?」

「Heaven(天国)へ我々より一足先に向かった」

 公爵は感情をまったく表に出さないまま肯定した。
 ルフィーは懐からエンフィールドを抜き、その銃身をまっすぐに公爵に向けた。
 公爵はルフィーの手に握られた拳銃などまったく気にかける様子もなく、息子に最後の質問をした。

「息子よ。私とともに頂点に君臨する気はないのか。きたるべき新世界を我が手につかみそれを支配する気はないのか。そのために、私の役にたつつもりはないのか」

 遥か昔、公爵によって殺された恋人、シーラ・ミスリアスの笑顔が脳裏をよぎった。思えば、あのとき初めて公爵に殺意を抱いたのだ。以来、機会を狙い続けてきた。

「No ! 僕は……おまえと対決するためにきた。お前を殺す!」

「対決だと? この後に及んで、まだお前は対決などと言い出すのか。おまえと私が対等な立場にあるとでも思っているのか。この絶対的な力の差を思い知るどころか、それさえわからないのか……」

 公爵の顔に初めて変化がおきた。それは大いなる失望だった。
 ルフィーは、トリガーに指をかけて言った。

「思い上がるな! 死の前には総てが無意味だ。死んでしまえば、それは権力者も庶民もない。ただの死体に過ぎない。いいか、おまえを権力者・ゴールドシュミット公爵ではなく、ただの死体に変えてやる!」

 トリガーにかけた指に力をこめる。公爵は依然として身じろぎひとつせずにルフィーを凝視している。距離は3メートル弱。外す距離ではないはずだ。照星の先からルフィーを見つめ返す、その射抜く目から逃れたい一心で、ルフィーはトリガーを引き絞った。
 爆竹のような乾いた破裂音の後に、砕けた硝子が床に落ちる音が響いた。
 一瞬後、ルフィーのエンフィールドは控えていた警備員によって蹴り上げられ、顎は裏拳で強打された。
 さらに後ろにのけぞったルフィーの両足が払われ、宙に浮いた身体が後頭部から床にたたきつけられた。
 一瞬の出来事だった。
 警備員といえば聞こえはいいが、彼らはプライベートに雇われているボディ・ガードである。ただし、力自慢腕自慢のチンピラではなく、いざとなればVIPを襲う凶弾の前に機械的に身を投げ出すことを訓練によって修得したプロである。銃の一丁や二丁を恐れるとも思えない。
 二人の警備員によって床に組みふせられたルフィーを尻目に、警備主任の男がエンフィールドを拾い上げて公爵に手渡した。

「ルフィー……私に銃を向けたな。そして撃った。その行動力と決断力は誉めてやる。しかし撃つ瞬間に目を閉じたな。恐怖からか」

 恐怖だった。

「お前のその詰めの甘さがお前を2流にしている。所詮、2流はいつまでたっても2流だ。1流にはなれん」

 公爵は警備員の一人にルフィーのエンフィールドを渡して命じた。

「この男は私を暗殺しようとしたテロリストだ。だが、私を殺すことはできず、取り押さえようとした警備員ともみ合っているうちに……自分の銃を暴発させて自殺した」

 警備員はだまってうなづくと、ルフィーの愛銃を彼の顎に押し付けた。
 公爵はルフィーに別れを告げた。

「So long. My sun.」

 ルフィーも公爵に別れの言葉を返した。

「See you soon.」

 ルフィーは、公爵に向かって薄笑いを浮かべた。
 警備員はそのままトリガーを引く。

 短い銃声。

 頭蓋が吹き飛び、ルフィーの端正な白い顔が砕けて破壊された。床と警備員が鮮血にまみれる。
 ルフィーの遺骸の顔は、それが誰であったのかすでに判別も付かなかった。

ゴールドシュミット公、襲撃さる
〜拳銃を持った暴漢、ホテルへ乗り込む〜

 8日深夜、来日中のゴールドシュミット公爵が、拳銃を持った暴漢に襲撃された。男は公爵の宿泊するコンチネンタル・ベイ・ホテル最上階の部屋に侵入し、公爵に向かって発砲した。
 公爵の警備にあたっていた警備員が男を取り押さえようとしてもみあいになり、男は持っていた拳銃で自分の顎を撃ち抜いて自殺した。
 男は自殺したおりに顔面の一部が著しく破損し、また身元を示すものを一切持っていないため、その身元は判明していない。
 ゴールドシュミット公爵は、以前細君の故シャロンさんをIRAのしかけた爆弾によって亡くしているが、今回の襲撃事件がその件と関連があるのかどうかは不明である。
 なお、犯行声明はどの組織からも出されておらず、警察当局は「男の単独犯行ではないか」とみて捜査を続けている。
(2019年4月8日付け群島日報夕刊社会面より)

 

 


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(c)1992楠原笑美.