ACT3-01:井上教授の家庭事情


「これは警察の越権行為じゃないかなあ?」

 洋上大学文理学部法学研究所教授であり、民事訴訟に携わること30年のベテラン
弁護士、井上光政は自宅の居間でビールを飲みながらつぶやいた。
 髪がどんどん後退してくる額は上気して赤く染まってくる。
丁度風呂からあがったばかりの、冷たいビール。この一本がたまらなく旨いのだ。
ASの中継車からの映像がTVに映し出されたのはそんな時だった。

「まあまあ、あなた。家に戻ってまでそんな事を考えなくてもいいじゃないですか」
「うむ………そーだな」

 妻にそういわれて、なるほどと一度は納得する井上。
 仕事の時間はもう終わったのだ。家に帰った時くらいゆっくりしていたいというの
も、人間の欲求としては当然のことである。
 妻にも今までいろいろと苦労をかけてきた。妻のためにも、これからは静かな晩年
をゆっくり過ごそう、家に仕事を持ち込むのはよそうと井上は決めていた。




「しかしだね………」

 十分後、再び考えごとに没頭している井上の姿を見て奥さんはタメ息をついた。

「何か考え込むときの癖ですのね」
「うん?」
「右手の人差し指を額に当てるの」
「………そうか?」

 半分残ったビール、手もつけられていない酒の肴。
 この人の心は、もう現場へ飛んでしまっているんだわ………井上の妻は、そう思う
と同時にキチンとアイロンのかかったスーツとワイシャツ、洗い立ての靴下、そして
弁護士の衿章を隣室へ用意しておくのを忘れなかった。
 イザというときに恥をかかせないように財布に5万円以上入れておくのも、奥さん
の仕業である。おかげで井上は、人から金を借りたことがない。

「あたし、残念ですけど仕事しているあなたが好きなんですの。いつまでも考えてて
も健康によくありませんわよ。行ってらっしゃい。」

 微笑む妻の右手には、しっかりと靴ベラが握られている。

「やれやれ、また俺を追い出すのか、お前は?」
「ええ、掃除の邪魔ですわ」
「じゃあ仕方ないな、出かけてくるぞ」

 ………偉そうにいうわりに井上教授が奥さんに頭があがらないのは、こんな理由が
あるのだった。




ACT3-02:屋上の人でなし


 育児疲れで疲労の色も濃い玉乃宙実を中心に、弥生家による『国家権力に対抗する
住民連合』は、公営住宅の屋上に建てられたプレハブ住宅で会議中だった。
 さすがに墨汁が手に入らなかったのだろう。立て看板は立っているのだが、文字が
極太マジックで書かれているのが残念でならない。

「徹底抗戦だ!」

 そういって、ビールの空ケースの上で弥生葉月は模造刀を振り回している。
 3時間前から始められたこの会議は、参加者を疲労させるばかりで進展はまったく
なかった。弥生葉月を中心とする主戦派の発言力はまだまだ強い。
 特に、機動隊の登場は葉月の戦闘意欲を焚きつける結果になっただけで、まだまだ
危機感は薄かった。

「しかしだな、葉月」

 そういって口を差し挟んだのは、居候の身でありながら家長と同じくらいの発言力
を持つ黒沢世莉である。彼はその機転の利く性格からか、いまや弥生家の戦略担当、
いわば軍師のような立場にいた。

「現実に、俺たちが抱え込んでいる赤ん坊………これをなんとかしないと、俺たちは
いつまでたっても悪者にしかならないぞ」
「トルコ人どもに理解される正義なぞ、無意味だ!」

 弥生葉月の士気はビールケースの上でますます荒い。
 しかし、世莉は葉月と違ってTVから得られた機動隊の情報に危機感を感じていた。

「赤ん坊がいることで、僕らの立場は極めて危うくなってしまった。そして、ここも
いつ崩れるかわからないというのは本当らしい。赤ん坊を抱えていては戦うにしても
不利だし、いっそのこと赤ん坊だけでもここから逃がしたほうがいいんじゃないか?」
「それは一理あるわね」

 世莉の意見にクラレッタ・ウーが同意する。
 その後を繋ぐのは、赤ん坊のおしめを取り替えながらぼそっとつぶやく闇沢武志だ。

「そもそも、保育所を開こうといったのは誰でしたっけね?」

 その一言に、玉乃宙実は肩をふるわせた。
 そう、保育所を開いて一儲けしましょうと提案したのは宙実なのだ。宙実は金儲け
の他に住民たちの役にも立てるとあって、一石二鳥だと考えていた。
 それが、いまこんな形で自分たちの首を絞めようとは!
 そこを狙いすまして闇沢は非難してくるのである。痛いところを突かれて、宙実に
は返す言葉もない。

「あ、そういえば赤ん坊が」

 そういって、慌てて宙実は外へ出ようとした。
 言い返せないのがものすごく悔しいのである。泣きそうになったのだが、涙を流す
ところを闇沢に見られるのはあまりにも癪にさわる。

(あんたなんかあぁぁぁぁぁ!!!)

 拳を握りしめた宙実がガラッとドアを開けた。

 ボトッ!

 屋上ではしゃいでいた赤ん坊たちの首が、一斉に落ちたのはその一瞬だった。
 群島をパニックに陥れたベイビークライシス事件は、ここ公営住宅においても終結
を迎えたのである。同時に、それは弥生家が赤ん坊という呪縛から解き放たれた瞬間
でもあった。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あっ!」

 転がり落ちた首を見て、宙実は思わず叫びにならない叫びをあげていた。

「どうしたんだ?」
「あ………あ、く、くびがっ!」
「あくび? 眠いのか、お前?」

 黒沢世莉が覗き込んだそこには、赤ん坊の首が床に転々と転がっていた。
 赤ん坊のように見えるそれは、実は人参果と呼ばれる植物の一種であり、熟すと首
が落ちるようになっていた。だが、その事実が発覚してTVで報道されたのは、それ
から数時間後のことである。
 まだ、この時点では人参果は赤ん坊として認識されていたのである。

「まずいな、こりゃ……殺人の容疑もつくぞ」

 事態の切実さに頭を抱えるルイス。
 しかし、葉月はそれにすらも動じる気配がない。
 自分たちがやったのではないのだから、勿論責められるいわれなぞない! という
のが葉月の言い分である。
 (世間がどう解釈しようが、葉月には大して興味がないのだ)

「ふん、そんなもの。証拠隠滅じゃ!」
「あ、馬鹿! やめろ!」

 制止しようとした世莉の手は、わずかに葉月に届かなかった。
 弥生葉月は、屋上から赤ん坊の死体と思われるものを放り捨てたのである。

 ………何故か、外が騒がしくなったことは葉月にとって大したことではない。




「この馬鹿! 問題をややこしくしやがって!」
「なんて残酷なことをするの! 見損なったわ、葉月さん!」
「外道なヤツだとは前から思っていたけどな」

 ………問題はむしろ、その後だった。
 葉月はこの後、「外道」、「人でなし」、「異常性欲者」、「変態」、「ロリコン」
などとバリエーション豊かにみんなから罵られてしまうのである。





ACT3-03:池に浮く幼児服


「困った事になりましたね」

 天城梨沙は、白葉邸の庭から垣根越しに外の様子を覗いた。
 崩れかけた公営住宅に居座り続ける住人たちを巡って、公営住宅の回りには機動隊
やら警官やら報道関係者などの騒がしい連中が集まってきているのだ。
 再び縁側へと目を向けた梨沙は、縁側にいる水原遥に声をかけた。

「すこし落ちついて下さい、お茶を入れましょうか?」

 次から次へと予想外の事ばかり起きるため、すっかり困惑した遥は縁側で途方にく
れている。どうしていいかもわからないが、それでも一生懸命になって彼女は対策を
考え、先ほどから縁側を右へ左へと歩き回っているのだ。
 秘書の一人が緑茶とお茶菓子を持ってこなかったら、きっと遥は2時間でも3時間
でも歩き回っていたに違いなかった。

「粗茶ですが、どうぞ」

 梨沙は来客にもお茶を薦めた。
 縁側には白葉教授を訪ねてきた来客も二人座っている。
 一人は弥生家一同の身を案じて、なんとか無事に助けだそうとしている麻生真由子。
いま一人は、その相談を持ちかけられたジーラ・ナサティーンである。

「教授はどこへいったの?」

 ジーラは梨沙に白葉教授の所在を質問した。
 この二人は、どうしようかと考えた挙げ句に結局、『白葉教授に相談して、何とか
して貰おう』という結論に達したのである。
 しかし、訪ねた白葉教授は千尋と一緒に留守だったのだ。

「奥様と一緒に公園です。葉桜子ちゃんと優ちゃんを連れて散歩に行かれました」
「この忙しいのに?困ったわね」
「ええ、でもあと10分ほどでお戻りになるかと」

 急須にお湯を注ごうと、ポットへ手を伸ばす梨沙。
 彼女の後ろに大量の落下物が落ちてきたのは、その直後だった。

「きゃあああああっ!」
「あ、ちょっと! しっかりするのよ!」

 叫び声をあげて気を失う麻生真由子を、梨沙が支える。

 それは、バラバラになった嬰児の死体………もとい、人参果であった。葉月が屋上
から投げ捨てた人参果は、白葉教授御自慢の日本庭園に落ちてきたのだ。
 御丁寧に紙おむつやらベビー服まで着せられた人参果は、あまりにも赤ん坊にそっ
くりだった。彼女らが赤ん坊と間違えても無理はない(^_^;)

 白葉から梨沙の携帯電話へ緊急コールがかかってきたのは、丁度その時だった。
 梨沙は青ざめた顔で受話器を握りしめる。

「教授、大変です。赤ん坊が!」

『こっちもだ、天城くん! とりあえず私はだね、金居さんと会わねばならん。天城
くん、後はまかせるよ!』

 後はまかせるといわれても………梨沙は周囲を見回した。
 気絶している女の子一人に、気の強そうな外国人女性が一人。縁側をうろつく都庁
連絡事務所の責任者。一体、どうしろと教授はいっているのだろう?

「まかせるっていわれても………いま、こっちにも子供が屋上から! 割れたスイカ
みたいに肉が飛び散って、スプラッターしてます!」

 受話器を握っていない左腕を振り回したりして、かなり動転しながらも梨沙は状況
を白葉に伝えようとしていた。

『それは赤ん坊じゃない、植物だ!』

 突然、降って湧いたような異常事態!
 そこに居合わせた者たちが『どうしようか?』と悩み考える中で、縁側をうろうろ
していた遥は、偶然にも全員の気持ちを代弁していた。

「あああああ、ますます訳がわからなくなっていくぅ」





ACT3-04:俺はあんたが嫌い


「隊長、いつまで待機してればいいんでしょう?」
「指示があるまでだ」

 機動隊の隊長は部下からコーヒーを受け取ると、そう答えた。
 機動隊員たちは公営住宅の前でずっと待機している。数多くの事件で待機すること
に慣れているといっても、彼らも人の子。退屈もすれば疲れもするのである。

「もうしばらくもすれば、きっと本部から突入の指示が出るに違いない。それまでの
辛抱だ、我慢だ、根性だ、気合いだ」

 自分がメゲれば部下もメゲる。経験からそう知っている隊長は、部下の目に触れな
いように気を使いながら気力を奮い起こしていた。

「隊長、民間人が会いたいといってきましたが」
「だれだ、それは?」

 弁護士が面会を求めてきたという部下の報告に、彼は内心で舌打ちした。
 自分たちでは何もしないくせに、正義だ何だのと偉そうに………隊長には、弁護士
に対してそういう固定観念が強くある。
 しかし、現場を取りしきる者としては会わない訳にもいかない。彼は諦め、パイプ
椅子から重い腰をあげる。

「どうもはじめまして。わたくしは、洋上大学法学研究所に勤めております井上光政
と申します。弁護士をやっております」

 目の前に現われたその男は、型通りの挨拶をすると品のいい背広の内ポケットから
名刺を取り出した。
 なるほど、背広は品がいい。しかし、その男本人からは威厳とか気合いとか、その
たぐいの物は感じられない。

(こりゃ、俗にいう先生って奴だな)

 こんな奴は、一喝すれば充分だ。
 そう思った隊長のまえで、井上はゴソゴソと鞄から何かを取り出した。

「ちょっと失礼致しますよ」

 井上は、人の良さそうな笑みを浮かべた後で、それ………ハンディ・マイクを口へ
と当てた。隊長に有無をいわせぬほど、その動作は素早い。

『あーっ、諸君らの取っている行動はァ、明らかに違法であると、わたくしは考える
のであります!!!』

 大音量が隊長の耳元で響いた。
 思わず落としたコーヒーが隊長の股間を濡らす。
 隊長が井上を見て気に入らないのと同様に、井上もまた『頭よりも先に手が出る』
……そんな野蛮な奴が大嫌いだったのだ。

「あ゛ぢぢぢぢぢっ!」
『まず第1に、住宅管理側の退去命令は法的拘束力を持っておりませんっ! 彼らも、
立派に家賃を払っておる住民であります!』
「なんてことを!」

 隊長の顔色が怒りにどす黒くなる。
 普通の人なら逃げだしてしまうような恐ろしい顔で、井上をにらみつける隊長。が、
井上はそれでもマイクを離そうとはしなかった。
 決して、勇ましくという訳ではない。テーブルの下へ隠れての演説であり、襟首を
捕まえられたらやめようと思う程度の小さな勇気だった。

『赤ん坊にしても児童福祉法違反ではありますが、今回の場合は緊急非難ということ
もあります!』
「隊長、我慢して下さいぃ、男は忍耐ですっ!」

 テーブルの下で逃げる用意をしながらも、それでも言うことだけはキッチリ言って
逃げるつもりの井上。
 立場上、民間人は殴れないので歯を食いしばって我慢する隊長。
 それでも拳が前に出る隊長を制止する部下の三人は、狭いテントの下で大声を張り
上げていた。




 ………屋上から弥生葉月が人参果を投げ捨てたのは、丁度その時だった。

「隊長、赤ん坊が屋上から投げ捨てられましたっ!」

 隊長はそのニュースを聞いて、勝ち誇った笑みを浮かべる。
 もうこの馬鹿がいくら叫んでも、法的根拠が無いとかいっても現行犯である。
 そして、自分らは日本の正義を守る警察官である。
 悪に遠慮がいるものか! そら見てみろ、やっぱり大悪党の大量殺人犯ではないか!
 間違って射殺したって、みんなで口裏を合わせて正当防衛にしてくれるわ!

「弁護士さん、理由はどうあれ………今回は現行犯ですからな。ふふふふふ」

 テーブルの下の井上にもはっきり聞こえるように、隊長は胸を張って部下へ命令を
下した。正義は必ず勝つのだ!

「しばき倒したれ!」



 もちろん。
 この衝撃的なニュースは、ASのキャスターによって克明に報道されていた。

『あ、赤ん坊のようなものが屋上から投げ落とされました。あ、またもう一つ………
残酷です! 犯人グループには血も涙もないのでしょうか!』




ACT3-05:階段の踊り場にて


「突入だあっ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」

 暴徒鎮圧といえば聞こえがいいが、今回の敵は未成年者が数人だった。
 到底、天下の機動隊の敵になるとは思えない。

「エレベーターが使えなくなってます!」
「じゃあ、階段を昇れっ!」

 正面突破するのにも、彼らは何の不安も感じなかった。
 もしも、弥生家を攻めるのが軍事学部であったなら、ブービートラップを警戒して
絶対に階段は使わなかっただろう。
 数にモノをいわせての正面突破が機動隊の本領だ。今回も御多分に漏れず正面一点
突破である。

「突入ぅぅぅぅ!」
「うおりゃああああああ!」

 ジュラルミンの盾を掲げて、彼らは階段を駆け昇った。




 広田秋野は、この光景を黙って見ていることは出来なかった。
 なぜなら屋上残留者………もしくは犯人グループの中に、広田が妹のようにかわい
がっている女の子が二人も入っていたからである。
 杜沢修子と水無月雪美。両方とも広田にとっては妹分であり、フェミニストを自称
する彼としては守らなければならないものであった。

(なんだって、そんな危険なところに!)

 彼女らに鎖でもつけて、危ないことはしないようにしておけば良かった………広田
は勝手に後悔し、弥生葉月に怒りすら覚えていた。

(危ないところから女の子を逃がすって考えが無いのか、あの馬鹿は!)

 展開は広田の予想よりもはるかに早かった。
 広田としては、『公営住宅の問題は機動隊ではなく、住民たちの意志によって解決
するよう努力をしなければならない!』と、管理人と生活向上委員たちを説得して、
機動隊には介入させないつもりだったのである。
 それが、葉月の馬鹿が幼児殺人までも犯すという愚挙に出たせいで、事態は最悪に
なってしまったのだ。いくら馬鹿でも、子供をバラバラにするほどの馬鹿ではないと
思っていたのに!
 ………この時点では、広田も葉月のことを殺人者だと誤解していたのだ。

とにかく、なんとしてでも機動隊を止めなければ! 
そう考えた広田は機動隊を止めるべく階段へと急いでいた。
『住宅崩壊の危険性も高くなる!』と、広田は彼らを説得しようと考えていたので
ある。

「しばき倒せぇ!」

 先頭を駆け昇ってきた機動隊員の、血走った目を広田は忘れない。
二階の踊り場で身を持って機動隊を止めようとした広田の雄姿。それが人垣に呑み
込まれて見えなくなった後、そこに広田の姿はなくなっていた。

 ………機動隊に踏みつけられて、踊り場で倒れていたのである。





ACT3-06:来客の目的


「なんてことだ………きっと、金居さんと三宅さんはいつもの冗談のつもりなんだろ
うが、後始末をするのはわたしなんだ。住民に、あれは野菜ですなどと平然といえる
とでも思っているんだろうか。こんなことを千尋くんにいったら、よけいに悲しむに
決っているし………」

 生物工学研究所(通称:金居研)から戻ってくるきた白葉教授は、まるで群島中の
苦労を一人で背負ってきたような顔をして、打ちひしがれて自宅へと戻ってきた。
 背中には中嶋千尋を背負っている。
 気を失った彼女を車に載せ、そのまま金居教授のところへ『人参果』の件について
抗議しにいった白葉教授は、なぜかその後始末まで協力させられることになり、納得
が出来ないまま帰ってきたのだ。
 が。帰ってきた安楽の地、我が家は機動隊の突入という最悪の事態を迎えていたの
である。

「天城くん、なんだねこれは!」

 機動隊突入の報を聞いた白葉が、真っ青になって自宅へと飛び込んだ時、自宅には
来客があふれかえっていた。

「あ、教授。おかえりなさい」

 縁側のジーラが6杯目のお茶を飲み干している。
 その横で所在なさそうに頭を下げる女の子は、白葉にも見覚えがあった。SNSで
バイトをしている麻生真由子という子だ。
 更にその向こうの人物は法学研究所の井上教授。白葉とは数回、学部長会議の席で
会ったことがある。
 その向こうで天城梨沙に包帯を巻いてもらっているのは広田秋野。さらにその後ろ
で縁側を歩き回っているのは水原遥だ。庭で鯉に餌をやっている管理人氏の姿もある。

「なんだね、これは?」

 来客の目的は、それぞれ違うものであった。




「とにかく、もう疲れてしまいましたよ。弥生家の馬鹿どもがここから出ていかなけ
れば何も解決しません! 機動隊なんて物騒なものに頼らなきゃならんことは遺憾で
すけれど、弥生家を逮捕してくれるんなら、私らは支持しますよ」

 そう声を荒らげる管理人氏をにらみつける麻生真由子は、既に半泣きだった。
 中嶋千尋がいつもピカピカに磨いている白葉教授御自慢の縁側では、さきほどから
来客によるいい争いが始まっている。
 特に断固として弥生家の排除を叫ぶ管理人氏と、弥生家の弁護を試みる麻生真由子
は、一歩間違えば喧嘩になりそうなほど緊迫した論争を繰り広げていた。
 他の来客たちと違って、この二人には接点がまったくなかったのだ。

「………弥生家のみんなは……そんなに悪い人じゃない!」
「じゃあ近ごろのいい人ってのは、御婦人の顔面に消火器を叩きつけて、前歯を3本
叩きおった挙げ句に病院送りにするような奴のことをいうのかね!」
「………」

 拳を固め、わなわなと震える真由子。
 どう見ても形勢は真由子に不利だった。弥生葉月の言い分はどうあれ、その行動が
ことごとく住民たちの逆鱗に触れる事ばかりなのは事実なのだ。怒り狂う住民たちの
心情は、真由子にもたやすく理解できた。
 しかし、それに対して真由子は『弥生家はみんな、本当はいい人』ということしか
出来ないのだ。しかも、それすらも住人の怒りという感情の前には色あせてしまうの
だった。

「とにかく、弥生家は出ていくべきだ!」
「自由に暮らしたいだけなのに!」

 誰一人、口を挟めなかった二人の言い争い。
 そこに口を挟んだのは、白葉教授がわざわざ取り寄せた番茶の最高級品「川柳」を
啜る井上教授だった。

「白葉さん、わたしも一口噛ませてもらってもいいですよね?」
「ほう………手伝ってくれるんですか」

 にやりと笑った白葉教授が、井上の茶碗へ二杯目を注いだ。(絶対、井上さんは口
を挟んでくる。それも、おそらく住人側の味方として!)
 白葉は、実はそう確信していたのである。

「ギャラは出ませんぞ?」
「うーむ、それは痛い(^_^;)………ま、とにかく最初から考えてみましょう」




ACT3-07:学生運動、再び


 猛然と階段を駆け昇ってくる機動隊。
 それを弥生家一同は、6階の階段で息を殺して待ち受けていた。

 ………侵入路は、階段しかない。

 弥生家で一番重い家財道具『英国製食器棚』が、8階でエレベーターのドアを押さ
えている。
 三人がかりでないと動かせないほど重い食器棚。それを動かさなければエレベータ
ーも8階から動けないのだ。
 たとえ使い方が間違っていたとしても、『家財道具は使えば使うほど味が出てくる』
という葉月の持論は間違ってはいないらしく、そのような異常な位置にありながらも
食器棚は周囲との調和を保っていた。

「本当にエレベーターは大丈夫かしら」
「大丈夫だよ、心配症だね」

 この状況下にあっても、葉月の女癖の悪さはいつもどおりだ。不安げな杜沢修子の
肩に、葉月の手がそっとのびる。
 また始まったな………ルイス・ウーは顔をしかめた。
 葉月の女癖の悪さは、同性の共同生活者として目に余るものがあった。そのうえ、
ルイスの妹、クラレッタまでいつの間にか葉月のお手付きときている。
 封建時代の大名の側室では無いのだから、妹をそんな女たらしの玩具にされたこと
(もちろん、たとえ双方の同意であっても)は、手放しで喜べることではない。
 そして、葉月は責任を取るどころか、純真無垢な少女をまた一人毒牙へかけようと
しているのである。
 ルイスは見逃さなかった。
 彼は修子の横へ回り、さりげなく百円ライターで葉月の手をあぶる。

(………………!!!!)
(この非常時に何を考えているんだ!)

 沈黙の内に交錯する二人の男の苦痛と怒り。
 これが『手の甲をつねった』程度の痛みなら葉月も我慢したのだろうが、ライター
であぶられては割が合わない。

 手を引っ込める葉月。
 それを感じて、杜沢修子の誤解はさらに深まっていく。

(あ、やっぱりあたしのことを大切に思ってくれてるのね………)

 まさに泥沼である。
 ここへ機動隊がやってきてムードをぶち壊しにしなかったら、後日、広田の悩みは
さらに深まっていただろう。
 ジュラルミンの盾は、ローマ帝国の重装歩兵のように一列となって踊り場へ並んだ。

「きみたちは完全に包囲されている。降伏せよ、さもなければ突入する!」

 ハンディ・マイクで呼びかける機動隊の降伏勧告。
 しかし、葉月にはそれすらも脅威にはなりえなかった。むしろ機動隊の『降伏せよ』
という高圧的な勧告が、さらに怒りを増す結果に終わっただけだった。
 葉月はふっと階段の前に、その姿を現す。

「トルコ人ども、よく聞け! 我らは、決して降伏などしない!」

 胸を張り、凛とした声で葉月は機動隊に言葉を投げつけた。

「権力の犬め! きさまらに降伏するような甘い輩は、我が栄光の騎士団には一人も
いないのだ! 死にたくなければとっとと家に帰って、母親の乳房でも吸って寝るが
いい!!」

 葉月にしてみれば自分たちがとっている行動は、『領地を守らんとする騎士団』と
してのものであった。当然、英雄的行動である。
 が、機動隊にしてみれば『暴徒』以外の何物でもない人間に、ここまで侮辱を受け
て黙っている理由もないのだ。
 おまけに、まわりは骨の一、二本叩きおってもいいようなムードである。

「隊長、どうします!」
「………騎士団の未来ではなく、70年代安保の結末を教えてやれ……」



 1970年代前半。日本の学生運動は、1つのピークに達していた。
 学園民主化運動の高まりと共に授業料値上げ反対、民主教育機構の確立などを要求
して、全学連(全日本学生自治会総連合)が結成されたのは1974年のことである。
 うねる時代の流れにのって、全学連には約140の大学、約30万人の学生が加盟。
彼らは反GHQ(反連合軍総司令部)、反政府、反戦、平和のスローガンを目指し、
大衆運動団体として活動を開始したのだった。
 が、70年代に入ると状況は一変する。
 日共系と、反日共系の対立が一気に表面化し、内ゲバに代表される制裁措置などで
彼らは互いに潰し合うようになっていった。血生臭い惨劇が、路上で、大学で当然の
ように行なわれていたのである。
 そして、機動隊に代表される国家権力が、さらにその介入を強めたのもこの時期で
ある。機動隊と学生との衝突、そして中核派、革マル派同士の内ゲバ抗争が続いた。
ゲバ棒と呼ばれる角材はこの時期、血が乾く暇もなかったのだ。
 そして勝利者は…………おそらく、国家であった。

 いちばん冷酷無比に学生を殴れた者。
 それはおそらく、機動隊であったことに疑念の余地はない。
 この時期の学生たちにも、いまの弥生家にも『理想』はあった。しかし、機動隊が
それを理解してやらなければならない理由は、どこにもないのだから。





ACT3-08:階段の死闘


「作戦開始だ!」

 突撃してきた機動隊員。
 その前に立ちふさがる弥生葉月の号令とともに、ポリバケツはひっくり返された。
 ………弥生家の豊富な資金力を利用して、玉乃宙実がスーパー丸安の特売日に買い
込んでおいたサラダ油が階段を流れていく。
 コンクリートの階段は、たちまちのうちに摩擦係数の極度に低下した、つるつるの
状態へ変化した。

「おわあっ!」

 最初の一人が足を滑らせたのが、運のツキ。
 押し掛けていた機動隊員は、転げ落ちてきた同僚に押しつぶされ、階段を滑り落ち
ていく。あちらこちらで『ぐぇっ!』とか、『ぎゃあ!』などのカエルが潰れたよう
な声があがった。

「次、いくぞ!」

 続けざまに、ルイスと修子がコカコーラのペットボトルを用意する。そこへ雪美が
ロケット花火を差し込んでいく。
 火をつけるのはクラレッタ。ルイスは自分の妹に、本当はこんな役をやらせたくは
無かったのだが、『雪美とどっちがいい?』という葉月の脅迫にあえなく屈したので
ある。妹と、愛する人とどちらかを選べという究極の選択は、僅差でルイスの好きな
雪美さんに軍配があがったのだった。(外道と呼んでやれ!)
 クラレッタのつける百円ライターの炎は、導火線へ次々と点火されていく。

「トルコ人どもよ! 我らの力を思い知るがいい!」

 水平発射されたロケット花火は、つるつる滑る階段を這っている機動隊員たちへと
命中し、炸裂した。

「うおおお! このガキャあ!!」
「はははは、まいったか、愚民ども!」

 しかし、それだけにとどまらず、ねずみ花火も投入される。
 黒沢世莉が、夏に余った花火を買い込んでおいたのである。(無論、金は葉月から
巻き上げるのを忘れていなかったが)
 笑いを浮かべ、その様を嘲笑する葉月の姿はさらに機動隊員たちの怒りを煽った。

「隊長、腕を折ってもよろしいでありますか?」
「もちろんだ、どんどん折れ! 二度と茶碗が持てないようにしてやれ!」

 そこへ、黒沢世莉と闇沢武志が到着した。

「遅いぞ! みろ、我が軍は優勢だ!」
「以外と重くてな」

 勝利に喜ぶ葉月に耳も貸さず、黒沢世莉は冷静に状況を観察する。
 彼らは、消火ホースを抱えていた。

「なんで僕がこんなことを………」

 ………闇沢武志は無理矢理、手伝わされたのである。

 消火栓。

 本来、これは消火用の設備である。
 壁面埋め込み式の非常用ベルと消火用50mホース。万一の為を思って設置された
この設備は、一度も本番を迎えぬまま誤使用されて朽ち果ててしまうのだった。

「宙実ぃ、いまだぁ!!」

 廊下の端で待機していた玉乃宙実がバルブをひねる。
 生き物のようにホースがくねると、先端から水が勢いよく噴き出してきた。

「うわぷっ!」

 怒涛の水流が水洗トイレのように機動隊を押し流していく。
 流れていく途中で健気な部下たちの叫び声があがる。
 してやられたわ………隊長は、判断が甘かったことを流された先の5階で悟った。

「隊長ぉ!」
「ちくしょう、一時退却じゃあ!」





インターミッション:高架下の一夜


 公民館は一杯だった。

「これじゃあ、息つく場所もないね」
「ええ」

 逢水秋人は、傍らの女の子に声をかけた。
 外国から兄を捜しにやってきた16歳の少女、トレーシー・ガンズ。
 彼女もまた逢水と同じように崩れかけた公営住宅A棟の住人であり、かつ退去命令
の指定となっている8階の住人である。
 公団側が避難場所に指定した公営住宅F棟だけでは、避難した数十世帯の家族を収
容することが出来なかった。その分を補充するため、とりあえず公団側は一時保障金
と、寝るところとして公民館を確保したのだ。
 が、公民館は当然小さな子供やお年寄りなどがいて、くつろげる雰囲気ではない。

「どっか、いこうか?」
「え………ええ」

 どっかのホテルへ入ろう。
 逢水の腹積もりでは、そういう計算だった。




 …………満室。

 公営住宅を追い出されてきたのは、何も逢水たちだけではない。
 考えることはみんな同じだったのだ。
 ビジネスホテルからラブホテルに至るまで、どこも満室だった。いつもはガラ空き
のホテルでさえ、今日は満室なのである。

「ここも満室だ!」

 ホテル・いっちゃうの前で逢水は頭を抱えていた。
 冷たい夜風が吹きつける中、逢水はトレーシーと二人でもう4時間も街をさまよい
歩いている。

「どこでもいいから、座りたい」
「もう少し頑張って」
「………もう歩けない」

 へたりこむトレーシーを、逢水は必死で支えていた。
 終電車も終わった午前2時。JR群島中央駅の前で、へたりこむ二人の姿があった。




「お、寒いだろ、これ飲みな」

 ………午前3時。
 寒さに震えていた二人の前に現われた一人の男が、ワンカップ大関を差しだした。

「………!!」

 逢水は、後ろへ跳びずさった。
 親切なその人物が、ボロボロの服を着た浮浪者だったからである。袖口が真っ黒な
コートを羽織った氏は、にまっと笑ってこういった。

「ここは風が冷ぇんだ。向こうの高架下は暖かいぜ、こいよ」

 逢水は、傍らで震えているトレーシーを見た。
 抱きしめている彼女の身体は、冷えきってまるで氷のように冷たい。

「トレーシー、お酒を貰ったんだけど………」

 逢水は、浮浪者から貰ったワンカップ大関を彼女の口元へと運んだ。
 この浮浪者は、本当に親切でいってくれているのだろうか? もしかしたら、何か
犯罪に巻き込まれてしまうかも知れない。
 そんな考えが、ふっと逢水の脳裏をかすめる。しかし、ここで震えているのは彼女
の為にも良くないように思えるのだ。

「………寒い」

 トレーシーの一言が、逢水の決意を固めさせた。

 いざとなれば、自分が命に換えても彼女を守る。
 覚悟を決めた逢水は、浮浪者の好意に甘えることにした。




「な、だからよ。あそこのレストランの残飯は結構ええのんや!」
「シゲちゃん、質屋の裏手にエロ本が結構落ちとったぜ」
「そらええわ! ほな、1本抜きまひょか」

 浮浪者たちの声が聞こえる。
 『とっつあん』と呼ばれる浮浪者に案内され、二人がやってきた高架下………そこ
は、浮浪者たちの宴会場だったのだ。
 とっつあんは、シゲちゃんを見つけると手を振った。

「おー、シゲちゃん! 今日は客を連れてきたぞ!」
「とっつあん、さあ奥へ」

 浮浪者の世界でも、礼儀というものはあるらしい。
 そして、とっつあんは結構『偉い』浮浪者であるらしかった。彼が来ると、浮浪者
たちは風の入らない奥の方の席を彼のために空けるのである。
 そして、その客である逢水とトレーシーも、奥の暖かい場所を空けて貰えたのだ。

「あ……すいません」

 どことなく、おどおどした感じで逢水は浮浪者の前を横切った。
 浮浪者たちに囲まれるのは、逢水にとって初めての経験だった。ボロボロの破れた
服に底の抜けた靴、洗っていないバサバサの髪の毛、破れた競馬新聞やダンボールに
くるまっているおじさんたちの姿。
 普段、隠れて見ることも出来ない都会の、もう一つの姿が逢水の目の前にある。

「客人でも外国の姉ちゃんの方な、冷えきって震えてるみたいなんだ」
「そりゃいけねえ、じゃあ焚き火でもやるか」
「スナックの裏手歩いて、アルコールを調達してくらあ」

 寒さで震えているトレーシーを見て、浮浪者の一人が立ち上がった。
 そして、また一人。また一人と、冷えきった夜の街へと浮浪者たちが出ていく。
 逢水は驚いた。見ず知らずの自分たちのために、なぜ浮浪者たちはこんなに親切に
してくれるのだろう。

「あ……」
「何も驚くこたあねぇさ、若いの」

 とっつあんが、拾ってきた経済新聞を広げながらボソリと言う。

「俺達は、一番弱いんだ………法も、正義も俺達を守ろうとはしてくれねぇ。それに
ついては仕方がねぇさ、俺達は税金を払ってねえんだからなぁ。だけどな………俺達
は寒さに震えている者と、飢えている者を見捨てたことは一度だってねえのさ」

 逢水の心に驚きと、そして汚い、臭いと浮浪者たちのことを心のどこかで軽蔑して
いた自分を恥じる気持ちが沸き上がった。
 ………彼らがこんなに親切で、いい人たちだったなんて。

「エビフライ、喰うかい?」

 どこのゴミ箱から漁ってきたのかも知らない、浮浪者の汚い手で差し出されたその
エビフライを逢水は手に取った。
 そして、やっと心のそこから感謝してそれを口にした。


 新聞紙は以外と暖かいのだということを知ったのは、逢水にとって、この夜のこと
だけではない収穫であったのかも知れない。





ACT3-09:お茶うけには煎餅


『………と、いう訳ですね、今回の赤ん坊の首が落ちるというのは人参果という植物
であった為らしいんですね。とにかく、これで問題は解決の方向へ向かう模様です』
『キャスターの山田さん、よかったですね』
『そーですね、では次のニュースです………』

 そこで白葉はTVのスイッチを切った。

「みなさん、そんな訳で赤ん坊は赤ん坊にあらず。実は野菜であったことが判明した
のですな。よって、乳幼児救援物資配給本部も解散となる訳ですよ。手伝ってくれた
スタッフの諸君、どうも御苦労さまです………帰って、ゆっくり寝て下さい」

 白葉教授が深々と頭を下げる。
 いま、白葉の抱える一つの仕事が終わりを告げたのである。
 『乳幼児救援物資配給本部』の立て看板から、貼り紙がべりべりと引き剥される。

「いやぁ、この貼り紙を剥す瞬間がたまらないわ」
「そーだよね」

 選挙管理委員会の応援に来ている農業工学科総務課の、女子職員たちのはしゃいだ
声が廊下から聞こえてきている。
 が、白葉教授の仕事はこれで終わった訳ではない。そう、立て看板はまだもう一つ
残っているのである。『町内会長選挙管理委員会』………そう、このお話の主題が、
まるまる手付かずになっているのだった。

「で、これを剥してこっちを貼るのよね」

 ………残念だが、まだ、本題へは入れないようだ。
 なぜなら、総務課の女子職員たちは剥したばかりの立て看板の上に、新しい貼り紙
を貼りつけはじめたからである。
 『弥生家対策委員会』の立て看板が、『選挙管理委員会』の横に立てられていた。




「とにかく、赤ん坊という存在が消えた今、機動隊がしていることは違法です」
「しかし、弥生家の連中には出ていって貰わなければ」

 井上教授の主張に、住民側の管理人氏の意見が対立している。
 少し広くなったリビングルームで、関係者による対策会議が開かれていた。


「でも、弥生家のみんなだって悪い人たちじゃないんです! 話せばきっとわかって
くれると思うの!」
「男はいいから、女の子だけでも逃がせないものですかね?」

 弥生家のみんなを無事に助けたいという麻生真由子。そして、野郎はどうなっても
いいが女の子だけはなんとかしようという、フェミニスト広田秋野の白熱した議論が
それを続ける。

「弥生家の連中は外道ですぞ!」
「いいや、外道なのは主犯格の弥生葉月だけですよ!」
「葉月さんは、そんなに悪い人じゃないです!」
「キミは騙されているんだ!」
「ですから、司法的にいっても管理人さんのやった行為は違法ですよ」
「じゃあ何かね! わたしが悪いとでもいうのかね!」
「この腐れ外道が!」

 言い合いは熾烈を極めた。
 しかし、それはたったの一言である人物の手によって要約された。

「じゃあ、つまり弥生家の連中がいなくなればいいのよね? 簡単じゃない」

 ………煎餅をかじっていた、ジーラの発言であった。




ACT3-10:選挙管理委員会


「水原くん、行政側としてはどう考えるのかね?」
「は……はい」

 いままで黙って会議を傍観していた白葉教授が口を開いた。
 遥は、自分では何もしていない。
 必死になって何か打開策を考えようという努力は、はたから見ていて痛々しいほど
よくわかる。しかし、彼女は町内会長選挙の公正な実施を監視するべく、東京都から
派遣された行政サイドの人間なのである。
 形はどうあれ、町内会長選挙の監視は今や閑職ではなくなっていた。
 しかし、行政の責任者である彼女には、いま強く発言が求められているのだ。

「あ………あのぉ………」

 遥は、ただ廊下を歩いていた訳ではない。
 すでにどうしたらいいのか、頭の中で意見はまとまっていた。
 しかし、いままで無能と陰口を叩かれ、つらい思いをしてきた彼女にはそれを口に
する勇気がなかったのだ。

(ここで………もし、見当違いなことをいったらどうしよう……)

 遥は不安だった。
 視線を落とす遥を見て、白葉は表情を曇らせる。

「水原くん………きみは、そのままではいかん」
「………」
「このまま、ずっと無能よばわりされておってもいいのかね?」
「………でも」
「………都庁連絡事務所の所長からも、先ほど責任者交代の申し出があったのだが」

 白葉の言葉に、遥は湯呑みを取り落とした。
 仕事の半ばにして、責任者交代とは………そこまで、わたしは信用されてないんだ。
遥の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれおちる。

「教授、いいすぎじゃ………?」
「広田くんは黙っていたまえ」

 静かな口調は変わらないが、白葉は有無をいわせず広田を制した。
 いつになく白葉教授の語気は荒い。
 白葉教授は、目の前の若い公務員に対して何かを訴えようとしているのだ。

「きみのしたいこと、やりたいことは成功の向こう側にこそある! 水原くん、手を
延ばしもせずに得られるものなど何も有りはしないのだよ! 我々と住民の心に何を
どうしてほしいのか、それを訴えるのがきみの責務ではないのかね!」
「………は……はい」

 やっとの思いで返事を返した遥の肩に、やさしく天城梨沙が手をおいた。

「大丈夫よ………みんなが協力してくれるわ」
「実は………」

 遥は、うつむいたまま語りはじめた。
 話はたどたどしかった………が、要点をまとめるとこうだ。

 機動隊の乱入は、いままで井上教授の話を聞いていた限りだと、どうも違法行為の
ようである。少なくとも、赤ん坊たちが野菜であったことで、弥生家に対する殺人や
営利誘拐の線は消えているのだ。
 また、弥生家にしても事態が急に展開したので、投降するタイミングを逸した感じ
がする。麻生真由子が説得に出れば、以外と簡単に出てきそうだ。
 それから、管理人と生活向上委員会側にして見れば………ジーラが煎餅をかじって
出した結論………とにかく、弥生家が公営住宅から出ていけば問題が無くなるのだ。
 これらを総て片付ける方法は、1つしかない。

「町内会長選挙をやるんです! そうすれば、住民自治を盾に機動隊を牽制出来るし、
その隙に弥生家のみんなを説得出来ると思うんです」

 最後には力強く、自分の意見を言い切った遥を白葉教授は讃えた。

「よくいった! 水原くん、キミは決して無能などではない。選挙管理委員会は全力
を持ってキミを支持するぞ!」

 その白葉の腕を、天城梨沙が引っ張る。
 うむ、なんだね? ………白葉は不思議そうな顔をして後ろをふりかえった。

「教授………まだ、委員を決めてないんですが」
「おお、そうだった! すっかり忘れておったよ」

 ベイビークライシス関連の仕事があまりに忙しかったので、町内会長選挙委員会は
委員の選定すらもしていなかったのである。
 それどころか、選挙に関してはほとんど準備をしていないのが本当のところだった。

「えー、では………こうしましょう。候補者であるジーラくんを除いて、ここにいる
全員………井上教授、広田くん、麻生くん、天城くん、そしてわたし白葉を委員とし、
委員長は水原遥くんとします。異議はないですな」

 白葉は周囲を見渡した。
 沈黙………と、いうことはみんな異議がないらしい。

「では、それを決議とします!」

 かくして、ここに町内会長選挙は実施される運びとなった。
 水原遥の案による『公営住宅の自治を守るための緊急選挙』は、選挙管理委員会の
全員の支持をもって決議されたのである。




ACT3-11:走る人々


『あーっ、機動隊の諸君!』

 弥生家のガキどもにしてやられ、5階で隊の再編成にやっきになっていた機動隊。
その隊長の耳に聞き覚えのある耳障りな声が聞こえてきたのは、再度、6階防御線の
突破を図ろうとした時であった。

「まーた、あの弁護士のくそジジィか!」
『失礼な、わたしはまだ若いっ!』

 いがみあう隊長と井上教授。
 どうやら、この二人は本格的に性格があわないようである。

「あのぉ……」
「うん、わかっています。法的根拠は既に説明してあるとおりです。大丈夫、正義は
我々にあるのですから!」

 井上教授は、傍らで所在なさそうにしている水原遥を勇気づけると愛用のハンディ
・マイクを手渡す。数多くの民事事件に関わり、数多くの不正行為を糾弾してきた、
このマイクには思い入れも深い。

(マイクよ。この子に勇気を与えてやってくれ!)

 井上もまた、白葉と同じように水原遥を助けてやろうという気持ちに変わりはない。
弱きを助け、強きをくじく………これぞ、弁護士の気概であると井上は信じている。
 そしていま、井上は水原遥の横に立ち、彼女が宣言すべきことを手伝ってやろうと
決意していた。

「………御存じのとおり、弥生家の殺人容疑は機動隊突入の理由にはなりません……
住民自治の立場から、都庁連絡事務所は機動隊のみなさんにお引き取りを願います!」
「なにぃっ!」
「弥生家に関しましては、住民の代表である町内会が退去に責任を負うべし……と、
選挙管理委員会が暫定決議を出しました。総ての責任は、町内会と都庁が負います!」

 都庁が動いた。
 機動隊は、悔しがりながらも5階で足止めを喰った格好となったのである。




 動いたのは都庁だけではない。

「この、『弥生家対策委員会』っていう立て看板、また剥しちゃっていいんだって」
「へえ、さっき貼ったばかりなのに?」
「その委員が全部、選挙管理委員会の委員に就任しちゃったんですって」
「ふうん、じゃ、あたしたちの楽しみがまた増えた訳よね」

 白葉宅の前で、総務課の女子職員たちが油を売っていた。

「この紙を剥すのが、たまんないのよねー!」



 玄関先では総務課がのんびりと仕事していたが、居間では選挙管理委員会と農工科
の仕事師集団、秘書課が緊急選挙に向けて準備に大忙しであった。

「A棟前の広場に仮設ステージを作るよう手配して! それから、候補者を待機させ
ておくのを忘れないで! 投票箱は広田くんがなんとかするっていうからいいわ! 
あと………住民を集めて! かもめ商店街にも何人か走ってちょうだい、魚屋と酒屋
を回るのよ! 鯛がいるわ、お酒は夜明け前の吟醸よ!」

 白葉教授の秘書、天城梨沙の声に呼応して総務課の職員たちが走り回る。
 選挙は一気に大詰めを迎えようとしていた。




「おじさん、岡持ち貸してよ!」

 広田が飛び込んだところは、近所のラーメン屋来々軒であった。
 フライパンを返しながら店主は、店に飛び込んできた広田に声をかけた。

「どうしたんだい、広田くん。貸してもいいけど、こんなの何に使うんだい?」
「公共の福祉に、ちょっとね」
「そこにあるけどねぇ………」

 広田は、カウンターの横に置かれた岡持ちを開けた。
 ………中にはラーメンとチャーハンが入っている。

「A棟の沫さんから、出前でね」
「わかった、届けておくから借りるよっ!」
「あ、ちょっとおっ!」

 岡持ちを胸に抱いて、広田は走った。
 いきなり決まった選挙だったので、選挙管理委員会は投票箱を手配できなかった。
そんな時、広田の脳裏に来々軒の岡持ちがピンと閃いたのだ。

「ちょっと加工すれば、やっぱり使えるな」

 ちなみに。
 投票箱として使った後のことまでは、もちろん広田は考えていない。




「あ、キューちゃん!」

 白葉教授宅の縁側で途方にくれていた麻生真由子は、庭の石灯篭にとまった一羽の
九官鳥を見つけた。
 この九官鳥を真由子は知っている。弥生家によく出入りしている、九官鳥のキュー
ちゃんに間違いない。

「そうだわ、これでメッセージをみんなに伝えられるかも知れない!」

 真由子は、そこへ腰を下ろすと根気よくキューちゃんにメッセージを教え始めた。





ACT3-12:伝書九官鳥


「いい、キューちゃん。よく覚えてね………『みんな助けてくれる、動かないで!』
………さ、やってみて!」

「ミンナ タスケテクレル ウゴカナイデ・・・・チュキュ・・・・マユコ」

「そう、その通りよ。それを、弥生家のみんなに伝えるの!」

 麻生真由子は、必死になって九官鳥に言葉を教えこんでいた。
 弥生家のみんなを助けだそうと(一部は追い出そうと)、選挙管理委員会はみんな
一生懸命になって仕事をしている。水原さんだって東京都の職員の一人として、勇気
を振り絞って機動隊を制止してくれたし、広田さんだって走り回ってくれた。

(あたしに出来るのは、弥生家のみんなが暴発しないよう、九官鳥に言葉を託すこと
くらいだわ)

 そう思い、真由子は3時間もかけて同じ言葉を繰り返していたのである。

「お願い、キューちゃん! 言葉を届けて!!」

 九官鳥をのせた手を、大きく振りあげる。
 ………九官鳥は羽ばたいた。
 伝書鳩ではなく、伝書九官鳥としての責務を背負った九官鳥のキューちゃんは、夜
の闇へと消えていく………




 5階の踊り場。
 機動隊員たちが身動きも出来ずに悶々として待機しているその横で、羽根を休める
一羽の鳥の姿があった。
 機動隊員たちの、やり場のない愚痴が聞こえる。

「ガキのくせしてひでぇ野郎どもだ!」
「女もいたぞ、裸にひんむいて階段を引きづりまわしてやらなきゃ気が済まねぇ!」
「腕の6本は叩き折らねぇと割が合わないぜ」

 ………羽根を休めていた鳥とは。
 当然、キューちゃんだったことはいうまでもない。




「ちわぁ、来々軒ですう!」

 岡持ちを調達するため、広田はA棟の1階にあるフリーの宝飾品デザイナー、沫の
自宅を訪れた。

「あ、やっときたか」

 まちかねた様子で、沫 雷 は玄関へ現われる。
 何もない室内だが、それでも何かをかき回している途中だったらしい。部屋の中央
にドンと置かれたスーツケースに、ぎっしりと貴金属が詰め込まれている。
 彼が扱っている貴金属は、総額にして数百万円を下らない。おまけにその中には、
保険の適用外である非合法品………つまり、盗品も混ざっている。
 それらを失ってしまえば、沫は路頭に迷うしかない。なんとしても、ここから持ち
出さねばならないのである。

「引っ越しですか?」
「いやあ、ここは1階だから避難指定になってないけどさ、一応避難しておくことに
したんだ」

 沫は、広田の疑問にそう答えた。

「じゃあ、急ぎますんで………毎度ぉ!」
「あ……おい!」

 空になった岡持ちを手に走りだしていく広田。
 それを見送った沫は、ぼそっとこうつぶやいた。

「………私、まだ金を払ってないんですケドね………」




 台所で夕食を作っていた宙実が、階段で見張りに立っている葉月のところへ夜食を
持ってきた。食パンが三切れ………若い男が喰うには少なすぎる量である。

「なんか卵焼きでも挟んでくるぐらい、気が効いてもいいんじゃないか?」
「機動隊がいるから買い物にもいけないのよ。食べ物はだんだん少なくなってきてる
し、これからは水だって節約しなきゃ」

 愚痴をいう葉月に、宙実は台所事情を説明する。

「畜生、トルコ人の野郎どもめ! で、それで何か、変わったことは?」
「それが………」

 いいにくそうな宙実に、葉月はなおも聞いた。
 どうやら、何かがあったようである。

「葉月、キューちゃんが言葉を覚えて帰ってきたわ」
「なんだって?」

 キューちゃんは、確かに言葉を覚えて帰ってきた。
 ただし、麻生真由子の3時間の努力は水の泡のように消えていたのだった。



「オンナ ハダカニ ヒンムクゾ!・・・・キュチュ・・・ホネ ワ バラバラニ シテマエ!キチュ!」

「おのれ、そっちがそのつもりなら全滅するまで戦ってくれる!」

 ………真由子の意志とは反対に、弥生家の主戦論はさらに高まったのである。





ACT3-13:祝! 町内会長選出


「さあ、富吉さん。こちらです!」

 富吉直行は、A棟前に作られた選挙演説用の仮設ステージへと引きずられてきた。
………文字通り、引きずられてきたのである。
 彼の肩には、いまだ首のとれた『人参果』がビニールロープで結わえられている。


 予定した選挙演説の時間を過ぎても、富吉は現われなかった。
 富吉直行選挙管理事務所へ詰めている学生たちが、必死になって富吉を捜した結果、
階段下の植え込みのところで首のとれた人参果を抱きかかえ、茫然としていた富吉を
見つけたのである。

「………俺がなにをしたっていうんだ………」

 彼のつぶやきは、またしても無視されることになった。

「遅かったわね、富吉。もう投票は始まっているわよ」

 ラジオ体操第一および第二を終え、ヒンズースクワット800回をこなして、選挙
演説を無事に終えたジーラは富吉をみて声をかけた。
 が、どうもいつもと様子がおかしい。

「ん……あんた、どーしたのさ」
「………どうせ、俺のいうことなんて誰も聞いちゃいないんだ………」

 殺到する仕事と、無理矢理選挙へ出馬されられたことによるストレス。富吉直行の
精神状態はあまり健康的とはいえなかった。
 そこへ持ってきて、『あのベビークライシス事件』の終末だった。
 とどめを差された富吉の精神は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていたのである。

 投票箱には既に続々と投票用紙が入れられていた。
 よく見ると、取っ手のついた投票箱の横には来々軒と書かれている。
 ………広田が岡持ちに穴を開けて、投票箱に改造したのだ。

「ちょっと、富吉!あんたドコへいくのよ!」

 ジーラの制止も聞かず、富吉はふらふらとした足取りで壇上へ上がった。
 彼はマイクをきつく握りしめる。


「俺が何をしたっていうんだぁ!!!
 俺は、俺は、ただ平凡に暮らしたいだけなんだぁ!」


 泣きながら富吉は、平凡に暮らしたいだけなんだぁ……と、訴えた。涙を誘う訴え
に、選挙管理委員会は富吉直行候補の棄権を受理した。

 富吉直行、ここに棄権。

 ジーラ・ナサティーン町内会長は、この瞬間に成立したのである。




 ちなみに、この投票結果は公表されなかったが、関係者によれば………

 ジーラ・ナサティーン候補 244票。
       富吉直行候補 633票。

 富吉の、圧倒的な勝利だったそうである。
 これを聞いた白葉教授は、

『ジーラくんが聞くと、いじけて仕事をしなくなるから決して人にはいうんじゃない』

 と箝口令を関係者にしいたらしいが、事実はさだかではない………



「ふふふ、次はあたしの出番だわ!」

 そして。
 真相を知らないジーラ・ナサティーン町内会長は初仕事に燃えているのだった。

 

to be Continued