Act2-8;新たな恋のスパイたち

 三日月迅とシータ・ナサティーンが『ラブシック=麻薬の名称らしい』という推理をぶちかまし、夜木直樹が軍事学部生C殺人未遂事件の現場写真から麻薬とサクマドロップスの関連に気付いたその一方で、ゼロワンSTAFFのスパイたちはまだスタート地点付近をのろのろとウォーミングアップしていた(^^;)。

 すでにアルバイトとしてまぐまぐバーガーへ潜り込んだ結城唯、大西諒、白葉衿霞の三人も、洋上高校付近に網を張って情報が飛び込んでくるのを待っている沫雷も、まだ推理や直感のひらめきに漕ぎつけるだけの獲物を釣り上げてはいなかった。
 そして8月22日……、ゼロワンSTAFFにさらに新たなスパイ志願の応募者二名が訪れていた。
 ひとりは広田秋野。洋上大学で最も有名な学部と言われるMILの学生である。
 キャノンボールレースのチームでアーマスのチームメイトでもある広田は、公営住宅のご近所さんということもあって香南とも親しくしていた。その香南が、近ごろ北海の珍味を売りに来ないので心配していたところ、アーマスから「入院した」という話を聞かされたのだ。その上、香南の入院に麻薬取り引きの事件が絡んでいるらしいと聞いて大人しくしていられるわけはなかった。
 まぐまぐバーガーで取り引きされているらしいという謎の麻薬。
 そしてアーマスが出入りしている人材派遣会社の胡散臭い企業内スパイが、その事件を調べていると知って、

「俺も香南の為にひと肌脱ぐっ!」

 ……とばかりにこうしてゼロワンSTAFFを訪れてきたのである。
 思えば香南の担いできた北海の珍味を買ってやった事は数知れない。SNSに来たものの、マイヤーがいないために水を飲んで帰ろうとしていた香南にスパゲッティナポリタンと焼きソバとおにぎりとカルピスを食わせてやった事もある(「たかられた」の間違いという噂も一部にはある)。分解したら訳が分からなくなったというM60のマシンガンを組み立ててやったのも広田だった。
 ……つくづく面倒見のい……いや、正義感の強い男である(^^;)。

 そしてもうひとりの応募者は、加賀美忍武と名乗った。
フリーターで現在求職中……中川がこの場にいれば、かつてアーマスがそうであったように、“知らないうちに身内になって、終身奉公が決まっていた”という状況に追い込まれそうな……ゼロワンSTAFFにうってつけの身分の青年だった。

「私、実は貧乏してまして、群島で一旗揚げたっていう噂を聞いて引っ越してきたんです……が、やっぱり世の中そう甘くはないですね」

 とりあえず自己紹介も仕事の話も終わって場が和んできたときに、忍武はそうぽそっともらした。出稼ぎに行った先で食い詰めるという……良くあるタイプの性格らしい(^^;)。どこか古風なところのある礼儀正しい青年なのだが、ちょっと間が抜けている。
 貧乏と言う割にあまり思い詰めてもやつれてもいないその様子は、出会ったばかりの頃の香南を彷彿とさせた。
 出がらしの番茶をすすりながら、

「今度私が、美味しい抹茶を持ってきますよ」

 などとさらりと言ってのける辺りの順応力はハンパなものではない。

 

 休日で店には出ていないものの、やはり麻薬取り引きの事が気になってじっとしていられなかった稟が、調査の進み具合を確認しようとゼロワンSTAFFを訪れたのは、ちょうど忍武が抹茶の話を始めた頃だった。

「……ああ、ちょうどいいところに……。今、新しい応募者が来てるんですよ」
「まあ、助かるわ」

 稟はそう言って、アーマスに案内されて室内に入った。

「えーと、こっちが大学生の広田秋野くん、こっちがフリーターの加賀美忍武くんです。……こちらが今回の依頼主のまぐまぐバーガーの店長の高梨さんだ」

 そのアーマスの紹介で、広田と忍武、そして稟は向き合って膝を正した。

「初めまして、広田秋野です」
「どうも、お初にお目にかかります。ただ今ご紹介を受けました、加賀美忍武と申します」

 そう言って、広田と忍武が深々と頭を下げる。

「ご丁寧に、どうも……。縁島洋上高校前店の店長の、高梨稟と申します。よろしく」

 今度は、稟が頭を下げた。
 ちょうど深々と下げた頭を上げようとしていた広田と忍武が、その稟の丁寧なお辞儀を見て、再び頭を下げる。

「あ、ども……」
「ご丁寧に……」

 頭を上げようとして、稟はその二人のお辞儀に、また頭を下げる。
 さらに広田と忍武が頭を下げ、稟が下げる。
 そしてまた広田と忍武が頭を下げ、稟も釣られてお辞儀をする。
 間の悪い事にまたお辞儀がすれ違い……以下略。
 タイミングを外して、お辞儀はまだ続き……以下略。
 そして……。
 いわゆるどこでどっちが止めればいいのか分からない……という状態に陥っていた。

 そしてその三人の奇妙で、どこまでも日本的な習慣を、アーマスは呆然と見つめていた。

「あ……いや……痛み入ります」
「ホントに……宜しくお願いします」

 俺が止めなければ……一生これが続くような気がする。
 アーマスは本気でそう思った。

「あのーー、挨拶はその位にしてですね、仕事の話を……」

 その声に、三人が一斉に頭を上げた。

「あ……」

 軽い目眩を覚えて、稟が身体をふらつかせた。畳に額をこすりつけるほど丁寧なお辞儀をしつこいほどに繰り返したのだから、無理もない。
 その稟を、はしっと広田が抱き止めた。

「だ、大丈夫ですか」
「え……ええ」

 そう答えながら、稟は耳まで真っ赤になっていた。
 気まずい沈黙が、狭いオフィスの中に漂っている。

(お辞儀くらいで貧血を起こすなんて……私には似合わないわ。初対面の男性の気を引くあさはかなお芝居だって思われたに違いないわ)

 なんだか……泣きたい気分である(^^;)。

「店長殿のお茶は私が入れましょう。お台所をお借りします」

 そう言って忍武が立ち上がり、キッチンの方へ向かった。
 稟にとっては、その忍武の台詞は天の助けとでも言えそうなものだった。

(笑い者にすまいと気を使ってくれたのね。このご恩は一生忘れないわ)

 そしてその稟に対してアーマスと広田と忍武が抱いた思いは……、

(この頼りなさそうな女性が、店長なんてやってるようには見えないよなあ)

 というその一言に尽きた。

 

 

 

 


Act2-9;恋の予感

「店長はん、お客さんどすけど……」

 オフィスで売り上げの計算をしていた稟に、京訛り丸出しの衿霞が声をかけた。

(小泉くんと言い、白葉さんと言い……どこで覚えてくるのかしら……)

 ……という疑問は、すでに面接の時にたっぷりと感じた。
 稟はファイルを畳んで棚に戻すと、鍵の掛かっているオフィスの扉を開けた。オフィスには売り上げ金が置かれている事もあり、アルバイトの出入りは禁止されているのだ。

「お客さんってアルバイト希望の方かしら?」
「アルバイト希望じゃない思いますけど。なんや、恐そうなお人でしたさかい」
「恐そうな……って、押し売り?」
「……は?」

 衿霞は一瞬、言葉を失った。

「あ、いえ……やくざ?」
「店長はん、押し売りが恐いんどすか?」
「いえ……そんな事はないけれど……(^^;)」

 そう言った稟の顔は……“私は気丈な女なのよ”と自分に言い聞かせつつも、気弱そうに震えている。

「心配せんと大丈夫です。もし押し売りがきたら、うちが守ってあげますから」

 衿霞はそう言って、人懐っこい笑顔を向けた。
 そういう人情に……結構稟は脆い。

「優しいのね、ありがとう」

 衿霞の事を軽く抱きしめ、稟は臆面もなく言った。

「……で、お客さんどすけど……なんや、大事な話がある言わはって。お店の方で会われます? それとも、こっちへお通ししたらよいでしょうか」
「大事な話……何かしら」
「ゼロワンSTAFFのアーマスはんの紹介や言うてはりましたから、きっと例の薬のことや思いますけど」

 衿霞の言葉に、稟の表情が堅くなった。
 本来なら、部外者をオフィスに入れるのは規則違反になるのだが、勤務中に店を離れる訳には行かないし、誰が聞いているか分からない店内で麻薬取り引きの話をすることなどできるわけもなかった。

「じゃあ、そうね。こちらへ入って頂いて。……できるだけ目立たないようにね」
「分かりました」

 衿霞が身を翻して店の方へ出て行くのを見送って、稟は小さくため息をついた。

(しっかりするのよ、稟。しっかりしなさい。このお店で麻薬の取り引きが行われているかも知れないって言うのに、こんな気弱な事でどうするの。アルバイトの子たちやお店に来る高校生を守らなくちゃいけない私が、逆に守ってあげる、なんて言われて……)

「高梨稟さん……だな?」

 突然そう声をかけられて、目の前の男を見上げた瞬間、稟の目が点になった。
 そこに立っていたのはハイヒールをはいた稟より頭ひとつ分以上背の高く、そして見るからにごつい体格をして……苦虫を咬み潰したような表情ので稟を見降ろしている男(しかも外人)だった。

「……」

 いわゆる、声も出ないという状態である。

「軍事学部で助教授をしているハインリヒ・フォン・マイヤーだ。ゼロワンSTAFFのグレブリーの紹介で……どうした?」
「……」

 一歩、稟は後ずさった。
 そしてオフィスに通した事を今更のように後悔する。
 たかが押し売りを恐がる稟が、軍事学部助教授なんて言う肩書きを聞かされて、平静を保っていられるわけはない。その肩書きがなくたって、マイヤーは充分見る者に警戒心を抱かせる威圧感を醸し出しているのだ。
 そして、群島に住んで早や五年……稟も“ヤクザも恐がる軍事学部”(多少の誇張あり)という噂を耳にしたことくらいはあった。

「…………」

 マイヤーもまた、言葉を失ってしまった。
 この顔とこの体格で今日まで生きてきたのである。初対面の素人女にあからさまな警戒心を抱かれる事はすでに慣れきっていた。……とは言え、そのあからさまな警戒心を抱く女と話をする事にまで慣れているわけではない。
 こうもビビられたのでは、二の句をつぐのも至難の技だった。
 もともと、話すのも女も苦手な性格なのである。

「……顔色が悪いが、持病でもあるのか」
「いえ……ちょっと頭痛が……、何でもありませんわ。どうぞお入りになって下さい。グレブリーさんのご紹介って……もしかして薬物中毒になった女の子の恋人の方ですかしら?」
「……保護者だ」

 そう低く否定して、マイヤーは勧められた事務用の椅子に腰を降ろした。

 

 そしてその頃……。
 同じ店内でアルバイトの女の子たちは、店が暇なのをいい事に私語に明け暮れていた。もちろんその話題は、『高梨店長を訪ねてきた“過去のありそうな”男』のことに終始している。

「店長の恋人かなあ」
「恋人がいるようには見えないけどなあ、店長って」
「でもさ、あーゆーいかにも強そうなタイプの男の人って、案外……“俺が守ってあげたい”とか言って、店長みたいな万年少女とくっつきそうじゃない」
「……映画じゃあるまいしぃ」

 噂話に盛り上がるアルバイトたちを横目に、ただひとり衿霞だけがその輪の中に入らず、店内のキャビネットや調理台の影などに目を配っていた。だが、アルバイトとしてこのまぐまぐバーガーに潜入してすでに一週間にもなるというのに、未だに麻薬の噂はおろか、サクマドロップスの缶を見かける事さえないままだった。

 

「お願いです。……その麻薬中毒になったと言う女の子に会わせて下さい」

 マイヤーから香南の禁断症状についての詳しい話を聞き、稟は蒼白になった。そして日頃の彼女からすれば考えられないほど積極的な願いを初対面の男に申し出たのだ。
 事態を重視した稟の言葉を受け入れ、マイヤーは彼女が勤務を終えるまで一時間ほどを待ち、群島中央病院へ向かった。
 その光景を目撃したアルバイトの面々が、ふたりの関係をきっぱり誤解し、その日のまぐまぐバーガーは『高梨稟に訪れた遅い春/二十八歳にしてついに初恋か』の噂で持ちきりだった。

 

 マイヤーと稟が中央病院に来たとき、内科病棟ではちょっとした騒動が持ち上がっていた。

「……患者さんの姿が見えないんです。ええ、屋上も、休憩室も探しましたけど……」

 慌ただしく走り回る看護婦たちのもらした言葉をふと耳にして、マイヤーは嫌な予感を感じていた。

(まさか……香南が)

 そして、マイヤーのその予感は的中していた。
 香南は回診が終わった後、担当の看護婦が薬を用意しているわずかの間に……病室から姿を消したのだ。

「分かっているだろうが、非常に危険な状態だ。ようやく禁断症状が収まりかかってきたところだというのに今また薬に手を出したりしたら、もとの黙阿弥だ」

 津久井はマイヤーを責めようとは思わなかった。警察病院に入院させ、適切な処置をしていればあるいは……という考えは捨てきれなかったが、今更それを言ったところでどうなるものではない。
 心当たりを探してみると言って慌ただしくマイヤーが出て行き、病棟の相談室に津久井と稟だけが残された。

「……顔色が悪いね。心配ごとがたまって疲れているんじゃないのかな? 店で麻薬の取り引きが行われているかも知れないという不安も分かるが、食事や睡眠はきちんと取らないと……」

 そう言って、津久井はソファに腰を降ろした稟の顔をのぞき込んだ。

「いえ……大丈夫です。私がしっかりしなければ、店の子たちを守る事はできませんから」
「大した人だな。そう気が強いようにも見えないのに……」

 何気なくそうもらして、津久井は稟の肩に手を置いた。
 その津久井を見上げて稟はちょっと頬を赤らめた。

 

 ちなみに、津久井加奈子はその落ちついた風貌から男性に間違えられる事が多い。しかし……歴とした「女医」である。
 とは言えそんな事を気付くほど、稟は勘のいい女ではなかった(^^;)。
 いつも男性に対して抱く漠然とした警戒心を……「彼」には抱かなかった。
 稟が気付いたのは……病院を出た後も津久井の事ばかり考えている自分の気持ちの変化だけだった。

 

 

 

 


Act2-10;恋の真相を知る者

 病院から姿を消した香南を探す……と言っても、マイヤーにはそれほど当てがあるわけではなかった。
 北海の珍味を行商しているコネもあって、香南には群島中に無数と言える「顔見知り」がいるのだ。マイヤーと言えどもその交友関係の全てを把握しきれるはずはないし、知っていたとしても虱潰しに当たっていたのではキリがない。
 公営住宅の香南の部屋、学校、軍事学部……香南の立ち寄りそうな先をあちこち探して、マイヤーは次にSNSを訪れた。

「マイヤーさん」

 ラウンジに入ったマイヤーを見つけて、広田がそう声をかけた。
 この店の常連客である広田とは、すでに顔見知りである。

「……香南の様子、どうですか? 見舞いに行こうかな、とも思ったんだけど……かえって迷惑なるかもしれないし、迷ってたんです。実は俺……ゼロワンSTAFFのスパイ募集に応募したんです。何か……役に立てればな、と思って。とは言っても、……明日からインドへ行く事になっちゃって……行動を開始できるのは、帰ってきてからなんですけどね」
「そうだったのか。……香南の事はグレブリーから?」
「んー、姿が見えないのはちょっと前から気付いてたけどね。詳しい話はアーマスから聞きました。で、どうなんです? 香南の具合」
「……一進一退、だな」

 そう言葉を濁してマイヤーはスツールに腰を降ろし、コーヒーを注文した。
 広田の口ぶりからすると、まだ香南が病院を抜け出した事は知らないようだった。つまり香南は……広田の行動範囲には姿を現していないという事になる。
 マイヤーは広田に香南の脱走を告げる積もりはなかった。
 香南が病院を抜け出したのは、薬を手に入れるためなのだ。
 広田やアーマスが病院からの脱走を知って騒ぎ始めれば、香南はそこを避けてマイヤーでは目の届きようもない場所を探し出し、隠れようとするに違いない。そうなってしまっては手も足も出ないのだ。
 頼りない子どものように見えて、香南には浮浪児同然に暮らしていた頃に身につけたしたたかさがある。行商で鍛えた土地勘もある。ねぐらを探し、人との接触を極力断って姿を隠す事は彼女にとって、決して困難なものではないのだ。事実、そうして香南は半年以上も暮らしてきた。

「薬物の正体は……分かったんですか?」
「いや。病院の津久井が調べてくれているが、表沙汰に出来ないからな……。手間取っているようだ」
「薬か……ルイスあたりなら飛びつきそうな話だな」

 ブランデーティを口に運んで、広田はそう小さくもらした。
 ルイスは公営住宅の住人であり、17歳にしてMILの学生である天才少年だった。自宅に研究室顔負けの設備を整えて、薬の研究をしているのだという話を、広田は耳にしたことがある。

「そういえば……ルイスは何かを知っているようだったな」

 時折このSNSに現れるルイスとは、マイヤーも何度か顔を会わせた事がある。
 マイヤーは公営住宅の三畳間で幻覚症状に陥った香南を発見したとき、開け放った玄関の向こうから、覗いていたルイスのことを思い出した。

「俺、ちょっとルイスの事を調べてくる」

 そう言って、飲みかけのブランデーティをその場に残したまま広田は立ち上がった。  マイヤーは熱いコーヒーゆっくりと飲んだ。ひりひりと苛立った胃袋に、その味が苦い。

(どこにいるんだ……香南)

 

 広田は行動的な男である。
 こうと決めたら即座に身体を動かすフットワークがあった。
 そして……インドへ出発する前に何かひとつくらい、手がかりを見つけだしておきたいのだと言う焦りもあった。

「ルイスはいるか」

 公営住宅の葉月の部屋をノックして、顔を出した黒沢世莉にそう言い放ったのは、SNSを飛び出してから三十分も経たないうちだった。

「いるけど……」

 その世莉の背後から、広田の大声を聞いてルイスが顔を出した。

「ルイス……きみは薬の研究をしているって言ってたよな?」
「……? ああ、してるけど。それが何か?」
「サクマドロップスの缶について、知ってる事があるなら教えてくれ」
「……広田さん、それ……どこで?」

 ルイスの表情が「サクマドロップス」の一言で変わった。
 世莉や他の同居人たちのことをちょっと振り返って、「屋上へ行こうよ」と小さく声をかけた。

 

「香南が薬物中毒で入院している。……知ってたんじゃないのか、香南の事を?」

 広田は、あるいはサクマドロップスの缶に入った麻薬にルイスが一枚噛んでいるのではないかという疑問も抱いていた。
 だから……その口調がわずかに、強いものになっている。
 だが、ルイスはその広田の疑いにまるで気付いていないような表情だった。

「やっぱりそうだったんだね。……最近姿が見えないし、ちょっと前に見かけたとき様子がおかしかったから、何となくそういう感じがしてたんだ」
「薬の事……知ってるのか?」
「……『ラブシック』」
「ラブシック?」
「そういう名前で呼ばれてるんだ、あの薬は。女子高校生なんかの間で広まり始めてるらしい。サクマドロップスの缶に、ドロップスに混ぜて入れられてね。……でも、詳しい事は僕もよく知らない。ちょっと前にその薬の事を知って調べ始めたんだけど他の麻薬とはまったく違うルートを通っているらしくて、分からない事だらけなんだよ」

 ルイスもまた……麻薬の事を調べていたのだと聞かされて、広田はちょっと肩すかしを食らったような感触を味わっていた。
 だが、サクマドロップスの缶に入っていた麻薬が『ラブシック』と呼ばれているのだという事を知っただけでも、収穫としては申し分のないものだった。

 広田と別れた後、ルイスは自分の部屋に戻り、パソコンの端末に向かった。
 データベースを検索して、目当ての情報を引き出す。
 モニターには、

『【ラブシック】 薬物の名称か?』

 という文字が映し出されていた。
 ルイスは最近はあまりアクセスのない、「幽霊」のユーザーのIDを使ってこのデータベースにアクセスしていた。
 いくつかのキーを操作し、ルイスはその情報をデータベースから完全に消去する。
 例えこの情報が消去されている事に気付いた者がいるとしても……「誰が」情報を消去したのかを掴む事なできないだろう。ラブシックが薬物の名称である事が知られてしまったのは不覚だとも言えるが……それは重大な失敗ではないのだ。

「香南が入院……か」

 モニターの横にまだ起きっぱなしになっているサクマドロップスの缶をこつっと指先でこづいて、ルイスは小さく呟いた。
 ラブシックの効果を……気付いている者はまだ少ないのだろうと、ルイスは広田の反応から感じとっていた。

 

 

 

 


Act2-11;「恋のおまじない」の薬

 コーヒーを飲み終えてマイヤーがSNSを出るのと入れ違いに、三日月迅と広川庵人はトレーニングの後のシャワーを終えて休憩しようとラウンジに入った。
 ジャーナリストである広川は、格闘技の達人でもあり、このSNSに出入りするうちに知り合った三日月にこうして時折稽古をつける事があるのだ。

「なにか心配ごとでもあるみたいだな。心ここにあらず……そんな感じだったぞ、今日のトレーニングは」

 注文したアイスティーをゆっくりと飲みながら、広川はそう言って三日月の顔を見つめた。三日月は余り表情を表に出す方ではないのだが、その顔が、いつもより暗くかげっているように見える。

「ラブシックって言葉が……頭から離れなくて。まだまだ未熟だな、ぼくも……」

 三日月はため息をもらした。

「ラブシック?」

 そう聞き返して、広川の顔は意外そうな表情になっていた。

「知ってるんですか? 広川さん」
「……女子高校生の間に流行している、麻薬の名前だよ。いや……麻薬らしい、としかまだ俺も言えないが……」

 広川は言葉を詰まらせた。
 麻薬汚染の状況を調べるために訪れた群島内のいくつかの高校で、その名は幾度となく耳にした。
 もっともその麻薬の流行の中心となっている女子生徒たちは、それを「麻薬」とは呼ばず「おまじないの薬」と言っていたのだが……。

「詳しく教えてください」

 三日月はテーブルに身体を乗り出すようにして広川に詰め寄った。
 だが、広川とてようやくその麻薬の存在を掴んだ部外者に過ぎなかった。先輩面をして三日月に教えてやるようなことはまだ何も知らない。
 ラブシックは、その顧客のほとんどを占めているだろうと思われる女子高校生にとっても、決して知名度の高いものではない。
 麻薬に接触を持った事のある生徒の話はいくつか聞く事ができたが、そのほとんどはLSDやハッシシ、スピードと言った……麻薬としてはポピュラーなものばかりだった。
 ごく小数、ヘロインを体験した事があるとか、友人が打っているところを見た事があるとか言った噂程度の情報を漏らした生徒もいないではなかったが、そうした素行不良の生徒たちでさえ、ラブシックの名を出すと首を傾げる者が多かった。
 ラブシックの情報を知っていたのは、むしろそうした不良グループとは一歩離れた場所にいる、平凡な生徒たちだった。
 その情報のほとんどは、

「噂を聞いた事がある」
「友達のお兄さんの彼女が買ったって……」

 とかいった、信憑性の薄そうな噂話ばかりだった。
 そしてその効果も、

「おまじないの薬だもん。効き目だって大した事ないって」

 という反応と、

「すっごく効くっていう噂だけど……。麻薬みたいに禁断症状になるっていうし、自分で試そうなんて……ちょっと思えないなぁ」

 という反応にきっぱりふたつに分かれていた。
 そしてそのどちらも……どういうルートでラブシックが流れているのか、値段はどの程度で、実際にどんな層の顧客を持ち、その顧客がどのくらいの人数に上っているのかについては、すべて、

「分からない」

 の一点張りだった。

 こういう質問をぶつけられた時の、「私の友達」や「ちょっと聞いた話しなんだけど」という答えは……それが自分の体験談である事が少なくない。
 だが、こうして取材される事になれているとは思えない、きわめて平凡で一般的な女生徒たちが、揃いも揃って巧みに広川の誘導尋問をかいくぐって真実を隠しているのだとは思えなかった。
 ……とすればその情報は、本当に小耳にはさんだ程度の噂話に過ぎないか、さもなくば、その顧客である中毒患者にもその全容を知られていない巧妙な流通ルートを持っているのかの、ふたつに一つだ。
 ラブシックという麻薬(であるらしい薬物)の情報を最初に耳にしてからすでに二週間にもなるというのに、広川はいまだにその「麻薬」が実在しているのだと言う確固たる証拠さえ掴む事ができずにいた。

 

 ラブシックが麻薬であるというシータの推理は……おそらく正解だったのだ。
 広川の話を聞いて三日月はそう確信を抱いていた。
 あのとき店を訪れた少女を探し出せば、恐らくは広川の取材も飛躍的に前進するに違いなかった。
 パーティションで仕切られたSNSの公衆ヴィジホンのブースから、公営住宅のナサティーン家の番号をプッシュし、三日月は電話を受けた長女のジーラに、シータを出してくれるように頼んだ。

「きみの推理は当たっていたようだよ、シータ。広川さんが取材でその情報を掴んでいたんだ。まだ詳細は不明だが、ラブシックってのは女子高校生を中心に広まっている新手の麻薬らしい」
「……やっぱりね。僕の方もずいぶんいろいろ調べてみたんだけど、なかなか引っかからなくて。新手の麻薬だって言うんなら、やっぱり製薬会社か、研究所の方面を当たった方がいいのかも知れないな」

 テーブルをとんとんっと指で叩き、シータはちょっと考え込んだようだった。
 やはり彼女の情報収拾能力を持ってしても、ラブシックの情報を得るのは難しいのだ。あの広川が、二週間もかかって証拠を掴めずにいるのもうなずける。

 

 三日月からの通話を切った後、シータはもう一度ラブシックの情報を見つけ出したデータベースにアクセスした。
 あるいは……その後何か新しい情報が追加されているかも知れないと言うはかない期待があったからだった。
 だが、結果はその期待を……大きく裏切るものだった。

「……そんな、バカな」

 シータが発見したあの情報はきれいに削除されてしまっていたのだ。
 一度公開された情報がその痕跡も残さずに消去される事など、滅多にある事ではなかった。消去されたならされたで、システム側からなんらかのフォローがあって当然である。
 そして、一般ユーザーが勝手に情報を消去する事などできるわけがないのだ。ハッキングに寄って、システムに潜り込んで消去するという方法をとらない限りは……。

(いったい誰が……)

 それはおそらく……ラブシックについて、なにか重大な事実を知っている者の仕業だろう。あるいは女子高校生たちの間に広まるその麻薬の供給源が組織ぐるみで情報を握りつぶしたのかも知れない。
 だが、完全に消去された情報を復活させる事も、その情報を消去した者を調べあげる事も不可能なことだった。
 シータはまた……無理矢理振り出しに戻されてしまったのだ。

 

 

 

 


Act2-12;恋のお守り

 洋上高校からそう離れていないところに、沫雷は露店を出していた。
 比較的安価な七宝や針金細工のアクセサリーをいくつか並べ、注文があればその場で針金細工を作ってやったり、指輪やペンダントトップに名前を彫り込んでやったりもする。
 アクセサリーを並べた台の上に、わざとらしくサクマドロップスの缶(これは近所のスーパーの菓子類売り場で仕入れてきたものだ。勿論、領収書はゼロワンSTAFFに回した)を置いて通りがかった少女たちの反応を見ようという作戦だった。
 麻薬の売人と間違えられて、ラブシックの事を口にする客がいれば、そこから麻薬の情報を得る事ができると考えたのだ。

 だが、アクセサリーの露店が繁盛している割に、得られる情報は少ないものだった。二、三人の少女が、サクマドロップスの缶に意味あり気な視線を投げかけたことはあるのだが、世間話にまぎれて麻薬の方へ話を持っていても、なかなか手ごたえのある返事は返ってこなかった。

「商品もあらかた売れたし……今日は店じまいだな」

 そうひとりごちて沫が片づけを始めようと腰を上げたとき、アーケードのショウウィンドーをのぞいていた少女が、沫の露店に気づいて近づいてきた。
 その目は、台の上のサクマドロップスの缶に吸い寄せられ、他のものなどまったく目に入っていないようだった。

「ラブシック、売ってるの?」

 ちょっとかすれた声が、そう沫に問いかけた。
 余りきれいな身なりとはいいがたい少女だった。ジーンズのショートパンツにオリーブグリーンのタンクトップ。赤いサスペンダー。そのどれもが、着古してよれよれになった代物だった。

「ラブシックって……なんだい?」
「だって、その缶」
「ドロップスが欲しいのかい?」

 沫はしらを切ってそう、そっけない口調で言った。ドロップスの缶を開け、少女に一粒差し出す。
 ドロップスを受け取りながら少女は期待はずれという表情で沫を見上げた。延びすぎた前髪の間から、額にある大きな傷が見えかくれしている。
 ひどく痩せて……やつれているように見えた。

(……麻薬の、中毒患者か)

 ラブシックと言うのが、ドロップスの缶に入れて取り引きされている麻薬の名前なのだと沫は気づいていた。

「もう店じまいをするところなんだ。今日最後のお客さんだな。特別サービスで、ただで針金のネームバッヂをつくってあげるよ。……名前は?」
「……香南」

 そう、小さく香南は答えた。

「でも……バッヂはいらない。もし作ってくれるんなら、これに鎖つけて欲しいんだけど」

 香南は沫の表情をうかがうようにしながら、ポケットに手を突っ込み、そこに入っていた二発の薬夾を取り出した。
 かつて香南とマイヤーを引き合わせた事件で……誘拐された香南を助けるためにマイヤーの撃った、愛用の拳銃GLOCK19の薬夾だった。

「……宝物なんだね」

 笑顔を作って香南の差し出した薬夾を受け取り、沫は小さく言った。
 アクセサリーを作るための道具を入れたケースから細いチェーンと薬夾につけるための小さな金具を取り出す。

「彼にもらったの?」
「うん」
「同じ学校の彼?」
「ううん……戦争に行ったの」

 小さく、香南は言った。
 薬夾に穴を開けて金具を取り付ける沫の手元を、じっと見ている。

「そうか。……寂しいね。ラブシックっていうのも、宝物なのかい?」

 あえて追求はせずに沫は作業を続けた。さりげなく話題をラブシックの方へ向ける。

「ラブシックはね、恋のおまじないの薬」
「おまじないの薬?」
「飲むと、好きな人の夢が見られるの」
「へえ、いいね。そんな薬があるんなら、私も試してみたいな」
「桜ちゃんが、くれたの」
「桜ちゃん?」
「学校で会った、友達。やさしーの。香南にね、ラブシックをくれたんだよ。でも、最近桜ちゃんにも会えないから……」
「手、出してごらん」

 沫は鎖を扱っていた手を止めて、香南に言った。

「え?」
「できたよ。つけてあげるから」

 そう沫に言われてはじめて気づいたように、香南は左手を差し出した。きらきら光るシルバーの飾り鎖に薬夾を通したブレスレットを、沫は香南の左手につけてやった。

「ありがと」

 香南はそう言って、左手の鎖をうれしそうに見つめた。
 ぺこりと沫に頭を下げて駅の方へ走っていく。

(「ラブシック」、「かなん」、「さくら」……キーワードとしては大収穫だな。これでようやくグレブリーさんに報告ができる。そして多分、ラブシックの正体は……)

 ラブシックは恋の夢を見る幻覚剤だ。
 沫はそう確信を抱いていた。
 それならば……女子高校生や女子中学生を中心に、しかも不良グループや暴力団などとは縁のない場所にいる娘たちに広まっていったのだという話もうなずける。

 

 地下鉄の駅に入ったとき、香南はあの暑い日に感じたのと同じ、身の毛のよだつような強い悪寒を感じた。
 病院を抜け出した後に飲んだ薬が、もう切れかかっているのだ。
 ジーンズのポケットを探って、駅のコインロッカーに走る。ポケットには香南が倉庫代わりに使っているロッカーのキーが三つほど入っていた。
 震えだした指でキーをつかみ、ロッカーを開ける。
 そこには商売もののイカの薫製やコマイの干物と一緒に、サクマドロップスの赤い缶が入っていた。
 ドロップスの缶をつかむと、コインを入れて鍵を閉めるのももどかしく、トイレにかけ込む。薬の持続時間は、回を追うごとに短くなっていた。以前は一週間に一度飲めば足りていたのに、最近では毎日の様に飲まなければ、禁断症状が襲ってくる。

(まるで麻薬みたいだ……)

 トイレの個室に入ってドロップスの缶を開けながら、香南はそんなことを考えた。
 不器用な指先で缶の蓋をこじ開ける。桜子からもらったのは、部屋に持って帰った缶と、この缶のふたつだけだった。

『それが終わってまだ薬が欲しかったら、そのときは売ってる店を教えてあげる』

 桜子はそう言って、店で売っているのだと言う試供品ではない缶を見せてくれた。
 試供品はぎっしりとピンク色の糖衣錠だけが詰まっていたのだが、桜子の持っていた「商品」のほうは、ドロップスに混じって、5、6錠の粒が入っているだけだった。
 それが一回分なのだ、と桜子は教えてくれた。

(桜ちゃん……どこに行っちゃったんだろう。……ラブシックって……どこで売ってるんだろう)

 缶から取り出した十粒近い錠剤をまとめて口に放り込んで、香南はそう口の中で呟いた。
 口の中でゆっくり解けていく糖衣の味。
 全身を濡らす冷たい汗が、ずっしりと重くのしかかってくる倦怠感がゆっくりと緩和されて行くのが分かる。

(まーちゃん……)

 戦争に行ってしまったと思っていたマイヤーが、まだ日本にいるのだと、香南はふと思い出した。
 マイヤーは戦争になど行っていない。そう、香南は恐い夢を見ただけなのだ

 汗に濡れて額に貼りつく前髪を、香南は神経質に払った。その手首で、さっきもらった銀色のブレスレットがさらっと軽い音を立てた。

 

 地下鉄の駅のコインロッカーを香南が倉庫代わりに使っているのだと言うことはマイヤーも知っていた。
 縁島洋上高校駅のコンコースにつながる階段を降りながら、マイヤーはここにもおそらく香南はいないだろうと言う、半ばあきらめかかった予感を抱いていた。
 洋上高校の制服のセーラーを着た少女たちが数人、マイヤーを追い越して駆け足で降りて行く。ちょうど地下鉄がホームに入ってきたところの様だ。

(香南にも……制服を用意してやらなければな)

 その少女たちの後ろ姿を見送って、マイヤーの意識にそんな考えがふっと浮かんだ。
 制服など持っているわけもなく、香南は私服姿で補習授業に通っているらしい。だが九月になり、新学期が始まればいつまでも私服で登校する訳には行かないだろう。

(それまでに、快復してくれればいいのだが……)

 マイヤーはゆっくりとした足どりでコインロッカーのコーナーへ歩いて行った。
 だがやはり……そこに香南の姿を見つけ出すことはできなかった。

(どこに行った……香南!)

 やり場のない怒りが全身に満ちていた。
 コインロッカーの扉に強く拳を叩きつける。

 そのとき、切符売り場から無人改札を通ってホームへ向かう香南の姿があることにマイヤーは気づかなかった。
 そして香南も……ほんの数メートルしか離れていない場所にマイヤーが……夢などではないマイヤーがいることには気づかなかった。
 ただ、ぼんやりとマイヤーの夢を見ていた。

 

 

 

 


Act2-13;恋文の香り

 8月24日――。
 洋上高校ではこの夏三度目の転入試験が行われていた。
 洋上大学への入学を前提とした独自の教育を行うこの高校は、他校に在校中に進路を変更し、転入を希望する生徒にも広く門戸を開いている。
 基礎教養に二年近くを消費する他の大学とは違い、洋上大学では生徒のそれぞれが個別の研究を志す新しい教育制度を持っている。そのため、洋上高校ではその基礎教養のカリキュラムを組み込んでいるのだ。
 門戸は広いが、努力のない生徒がやすやすと卒業できるような、甘いシステムではない。

 九月から2年に進級するクラスへの編入を希望している生徒は、今回の試験では二名だった。
 杜沢修子、そして小岩井詩織。
 どちらもこの群島に引っ越してきたばかりの少女である。
 ふたりの試験を担当することになった仁科は、広い教室の片隅で試験用紙に向かっているふたりを監督していた。
 だが、その顔は浮かない表情だった。
 時折ついため息をもらしてしまうようなことも何度かあった。
 群島の高校のいくつかでは、実際に麻薬汚染の問題が持ち上がっているのだと言う。今のところこの洋上高校にそんな問題は持ち上がってはいないが、いつまでも他人事では済まされないだろう。
 そして……また花村桜子の事件のことが思い浮かんだ。
 校内から犯罪者が出る……そのときに他の生徒たちがどれほど傷つくかを考えると気が重かった。
 生徒たちを守りたい。
 それは仁科だけでなく……この高校のすべての教師が抱く思いであるはずだ。
 だが、教師も万能ではない。
 学校を離れた生徒たちの行動を逐一見守ってやることなどできはしないのだ。そして生徒たちは、教師の目の届かない放課後に、さまざまな場所で犯罪の要素に近づいて行くのだ。

 また、仁科がため息をついた。
 ふと試験問題から目を上げると、修子は教壇に座っている仁科を見つめた。手元には書類を広げているのだが、それを読んでいるとは思えない様子だった。

(……仁科先生は、優しくて頼りがいのある先生だって聞いたのに……なんだか元気がないみたい)

 修子はすでにこの群島で何人かの友人を作っていた。
 洋上高校に転入するつもりだと言う話をしたときに、そうした者たちから仁科の噂を聞いたのだ。

 

 試験が終わったの時には、すでに昼食時近くになっていた。
 手続きが終わるのを教室で待っている間、修子は一緒に試験を受けた詩織といろいろとおしゃべりをしていた。
 詩織とは、こうして同じ日に編入試験を受けたのだが、顔見知りではなかった。

「私、まだここに引っ越してきたばかりで、あまりお友達もいないの……。学校へ入っても……みんなと仲良くできるかどうかちょっと不安だったの」
「そっかぁ。でも、こうやって会ったのも縁だもの。仲良くしようね。私も引っ越してきてあんまり経ってないんだけど、結構友達できたの。みんなにも紹介するわ」

 修子の笑顔に安心したように、詩織も笑顔を浮かべた。
 これまで緊張していたらしいのが修子にも良く分かった。

「済まないな、すっかり遅くなって……」

 そう言って仁科が教室に戻ってきたのはそのときだった。

「いいえ、いいの。待っている間に詩織ちゃんとすっかり仲良くなったもの。ちょっとお腹すいちゃったけど」

 修子がにこっと笑顔を仁科に向けた。

「そうだな……もうこんな時間だ。じゃあ、先生が昼ご飯をご馳走しよう。杜沢くんと小岩井くんが仲良くなったんなら、その記念に……どうだ?」
「うれしい(^_^)」

 そう声を上げたのは詩織の方だった。
 修子はちょっと考えていたようだったが、同じように笑顔を作った。

「喜んで。……あの、まぐまぐバーガーでもいいですか? 私、ちょっと人と待ち合わせしてるから」
「デート? 修子ちゃん」
「まあね(^_^)」
「いいの? お邪魔なんじゃない?」
「うーん、でも、せっかく先生が誘ってくれたんだし、みんなで一緒の方が楽しいし……ね? 先生」
「彼氏の分までおごらせるのか?」

 そう言って、仁科はちょっと苦笑した。
 重く沈んでいた表情に、ふっといつもの笑顔が戻った。

「彼氏なんかじゃありませんよー」

 修子はその仁科の言葉に、いたずらっぽく微笑んでそう言った。

 

 仁科が修子と詩織を連れてまぐまぐバーガーに入ってきたとき、洋上高校生の高橋聖羅はドイツ人の少女を連れて同じ店内で食事をしていた。
 入ってきた仁科に、軽く会釈する。

「あの人誰? 聖羅お姉ちゃん」

 交換留学生として群島にやってきたハーツェリンデ・モントフェルトは、姉のように慕っている聖羅にそう耳打ちした。

「ん? ああ、私の行っている学校の先生よ、うさぎちゃん」
「ふーん」

 うさぎちゃん……というのはハーツェリンデのニックネームだった。
 小さくうなずいて、ハーツェリンデは飲みかけのまぐまぐシェイクに再びとりかかった。

 その時、カウンターに入っていたのは唯だった。

「ご注文をどうぞ」

 すでに唯は、年季の入ったアルバイトと同じように営業スマイルを身につけている。しかし、アルバイトの仕事は上達しても相変わらず店内での情報はまったく掴めていなかった。
 この縁島洋上高校前店は、まぐまぐバーガーとしてもかなり規模の大きな方である。
 アルバイトの多くは洋上高校の生徒で占められており、そのため大学生が中心の店に比べるとアルバイトの人数が多く、シフトも複雑なのである。
 夏休み中なので旅行などの日程の都合で週単位の休みをとっている者もいるし、シフトの問題でまだ顔を会わせたことのないアルバイトもいた。稟は毎日スケジュール表とにらめっこしてゼロワンSTAFFからのスパイの配置を悩んでいるのだが、やはり簡単には行かないのだ。
 唯、衿霞、諒、広田、忍武の五人はようやく店内の人間関係を把握し始めたというところなのだ。とても『ラブシック』と呼ばれているのだと言う麻薬のことにまでは手が回らなかった。

 注文を終えて席に行こうとする仁科と詩織からはちょっと離れて、修子は店内を見回した。
 だが、待ち合わせをしている相手の姿はそこには見あたらなかった。
 約束の時間にはずいぶん遅れてしまっている。ひょっとしたら帰ってしまったのかもしれなかった。

「すみません。あのー、待ち合わせをしてたんですけど……」

 修子はカウンターの唯にそう声をかけてみた。

「待ち合わせ? もしかして杜沢修子さんですか?」
「ええ」
「待ち合わせの相手の方、しばらく待ってらしたんですけど、急用ができたと言ってお帰りになったんです。メモをお預かりします」

 そう言って、唯はさっき店の客――30位のきれいな女性だった――に預けられたメモを修子に渡した。

 メモには、

『ごめんなさいね、修子ちゃん。急用ができました。
 次に会えるのを楽しみにしてるわ    ――M』

 という文字が記されていた。
 ほのかに、黒水仙の香水が香っている。

「修子ちゃん。待ち合わせの人、いないの?」

 仁科と詩織の座っているテーブルに近づいてきた修子に、詩織がそう声をかけた。

「うん。急用ができたみたい。……残念」
「……あ、いい匂い。ナルシス・ノワールね」

 メモに顔を近づけて、詩織が言った。

「ナルシス・ノワール?」
「うん、黒水仙って本当にはない花の香りなんだって。そう雑誌で読んだけど……」

 フローラルとムスクの混ざりあったその不思議な香りが、あの人によく似合うわ。
 修子は詩織の話を聞きながら、ぼんやりとその香りをかいでいた。