Act2-14;恋の取り引き

 修子と詩織と仁科の会話はまだ続いていた。
 そして同じ時……まぐまぐバーガーのキッチンでは、先輩のアルバイトの目を盗んで時間切れになって捨てられたハンバーガーをくすねようとしている六甲の息詰まる攻防戦が続いていた。

「なんでやー、どーせ捨てるもんやなか。食いもん粗末にしたらあかんゆーて、子供のころ叱られたんじゃなか? 一個くらい見逃したってバチはあたらんがや」
「さっさと仕事せい、お前は!」

 相変わらず謎の方言を口にしている六甲に情け容赦ない声が飛ぶ。
 空腹を抱えながら……それでも六甲は渋々と仕事に戻った。

 

 そして客席では闇沢武士が、三日月とシータの会話から知った『ラブシック』の事をどう調べようかと悩んでいた。
 ……勿論闇沢は、たまたま昼食を食べるために立ち寄ったこのハンバーガースタンドでその問題の麻薬が取り引きされている事などまったく知らなかった。

 

「はじめまして。先ほど電話で面接をお願いした天本真弓です。……忙しいみたいですね。お邪魔だったら待ちますけど……」

 面接を受けるために訪ねてきた真弓は、オフィスから出てきた稟に、大きな眼鏡の向こうから戸惑いがちにそう問いかけた。

「いいのよ。お昼時は……そうね、ちょっと混雑するけど、今は洋上高校も夏休みでしょう? これでも暇なくらいなのよ。えーっと、店の方にはちょっと開いている席がないようね。裏で話しましょう。狭いけど休憩用のコーナーがあるの」

 そう言って稟は真弓をキッチンの奥――オフィスへ続く更衣室や休憩所のある場所へ案内した。

「送ってもらった履歴書は見せてもらったわ。……採用には問題ないわね。いつから来ていただけるかしら? ほら、今ちょうど年度の変わり目でしょう? 進学を理由にバイトをやめる人も多くて……ちょっと人手不足なのよ」
「それなら、今日からでも! 私、働くの大好きですから。頑張りまーす」

 さっきの……借りてきた猫のような大人しい女子大生ぶりっこはどこへやら……だった。

「……頼もしいわね。じゃあ、お昼の混雑が終わったらさっそくお店にでてもらいましょう。とりあえず着替えてね。制服はたぶんクリーニングから返ってきているのの中にサイズのあうものがあると思うわ。今コーヒー持ってくるから、とりあえずここでこのマニュアル読んでてね」

 稟はそう言いおいて立ち上がった。
 履歴書には、農学部の生徒だと書いてあった。

(農学部には働き者が多いって聞いたし。はきはきしたいい娘が来てくれてよかったわ(^_^))

 麻薬騒動のせいですっかり気落ちしてた稟は、久々に晴れ晴れとした気分になっていた。
 もともと、稟はこうしたきっかけでアルバイトの学生たちと出会うのが楽しみで仕方ない性格だった。だからこの仕事を選んだのだ。

 

 真弓は稟に言われた通り制服に着替えようと、更衣室の扉を開けた。
 ……が、突然、

「きゃっ!」

 という悲鳴が上がった。
 中に高校生らしいアルバイトの少女ふたりの姿があった。

「あー、びっくりした。新しいバイトの人?」
「ええ……今日からお世話になります」
「そっか。あのね、おねーさん、更衣室に入るときは絶対ノックしてね。バイトの男ども、よくのぞこうとしてるから……新しい制服はね、その一番右端のロッカーに入ってるから」

 そうそっけなく言って、バイトのふたりはさっさと出て行ってしまった。

(……なんだったんだろう?)

 一瞬だったが、ドアを開けた瞬間、ふたりがなにかを受け渡ししていたように見えた。……赤い缶と、たぶん札だと思えるものを交換していたような気がする。

 

「仁科せーんせ、こんなところでデート?」

 アルバイトを終えて帰ろうとする少女が、仁科に声をかけた。今度三年に進級する洋上高校の生徒だった。

「違う違う、今度二年に転入する生徒だよ。今日は転入試験だったんだ」

 仁科はくすくす笑っている少女にそう声をかけた。
 いつもはどちらかと言えば大人しくて……目だたない生徒だったように記憶しているのだが、今日は人が変わったように明るい。

「ね、ヨーコってば……早く行こう!」

 もう一人の少女にそう声をかけられて、彼女は、

「先生、じゃあね」

 とくすくす笑いを浮かべた顔のまま言って、店を出ようとしている友人の方へ身を翻した。持っていたバッグが大きく揺れ、中に入っていたドロップスの缶が転がり出たのはそのときだった。

「落としたぞ」

 仁科が立ち上がり、ドロップスの缶を拾い上げた。

「ありがとーございます(^_^)」

 そう言ってぺこりと頭を下げると、ヨーコと呼ばれた少女は店を走り出ていった。

 その光景を店にいた結城唯が、闇沢武士が……そしてハーツェリンデが見つめていた。

 

(あの缶は……)

 そう即座に気づいたのは唯だけだった。
 闇沢は仁科がそうであったように、ただ日常的な光景の一コマとして、その光景を見つめていただけだ。

 いや、闇沢の意識はそのあとハーツェリンデのもらした小声の独り言の方にむいていた。

「ラブシック……」

 確かにそう、その外国人の少女はもらしたのだ。

(まさか……あの缶が?)

 だが、その闇沢の表情の変化に気づいた者は誰一人としていなかった。

 そして、ハーツェリンデはハンバーガーの最後の一口を口に放り込んで、持っていたバッグの中をのぞき込んだ。
 そこにはあのヨーコと呼ばれた少女が持っていたのと同じ、赤いドロップスの缶が入っていた。

 

 

 

 


Act2-15;恋仇からの電話

 8月25日、快晴――。
 ゼロワンSTAFFは、今日も退屈な程に暇である。
 山田製薬の秘書と常務の不倫を調査するため、アーマスは、

「潰れかかった会社で、社内不倫の調査なんかする金があるんなら……経営の立て直しでもすりゃあいいのに」

 とぼやきながら出かけていった。
 忙しいときに限って、こういうどーでもいーような(でも金になるので断りきれない)仕事が舞い込んでくるものなのだ。……とは、中川が国際電話でもらした愚痴である。

「だったら早く帰ってきてくれよ」

 ……というアーマスの意見は、どうやら却下されてしまったらしい(^^;)。

 

 留守番は今日もアメデオ(……とユッコが呼んでいるところのアインシュタイン)とユッコである。(繰り返すが、「ユッコとアインシュタイン」が留守番しているのではない「アインシュタインとユッコ」が留守番をしているのである)

「今日はあやとりしよう!」

 アーマスが出て行ってから……ユッコがそう提案を出すまで、ほんの十分も経っていなかった。つくづく、会社の状況を理解していない暢気な性格である。嫌がる諒に無理を言ってまぐまぐバーガーへ潜入させなければならない理由も、このユッコを見れば十分にうなずける。
 何しろオフィコンの中では、これでもユッコはゼロワンSTAFFの切り札とも言える有能な人材なのだ。だからこそこうして会社の留守を任されもする。
 つくづく……胡散臭い会社である。

 

 ゼロワンSTAFFに予定のない来客が現れたのは……午後3時を少し回った時だった。
 ちょうど、ユッコがアインシュタインにあやとりで「猫」を作るのを教えてもらっ ていた時である。

「はーい、どちら様ですかぁ?」

 そう言いながら、もうユッコは扉を開けている。
 インタフォンで相手を確認した上で扉を開けるなどと言うしち面倒くさい手順を、このユッコが踏むわけはないのである。

「ウキキッ(だめだよ、ゆっこちゃん。おきゃくさんがきたときには、ちゃんといんたふぉんであいてをかくにんするんだ。それがゆうしゅうなすぱいへのだいいっぽだ)」

 勿論、ユッコにそのアインシュタインの猿語が理解できた訳はない。
 そしていつの間にこの天才猿が社内教育までを受け持つようになったのかは、社長の中川にも、社長代行のアーマスにもわからない謎だった。

 

「……グレちゃんいる?」

 玄関の前に立っていたのは香南だった。

「うーんと、出かけてるけど……。あれ? 確か克巳ちゃんの結婚式で頭から血吹いて倒れた娘だよね(^_^)。もうすぐ帰ってくると思うから、上がってかない? 美味しいクッキーがあるよ」

 ちなみに……アーマスはユッコには企業内スパイの仕事の事はいっさい話していない。話せば厄介な問題が増えるだけだと思ったからだった。
 だからユッコが知っているのは、

「まぐまぐバーガーにアルバイトを斡旋しているらしい」

 というくらいの情報だけだった。
 それで留守番が勤まってしまうんだから……やっぱり胡散臭い会社である(^^;)。

「……うん」

 小さくうなずいて、香南は部屋に上がった。

 

 あやとりの抗議に香南が加わって白熱していた頃、新婚旅行先(そろそろインドにつくはずの船の中である)からの中川の定期連絡が入った。

「やっほーーー」

 だが、画面に映し出されたのは中川ではなく、真奈美の顔だった。

「あれぇ、克巳ちゃんは?」
「克ちゃんは船酔でダウンしてるの。だから、今日は真奈美が代理っ☆ 何か変わったことありますかー?」
「別にぃ……」

 電話に出たのが中川ではなかったので、ユッコは急に口調が変わった。
 まあ、これでも一応、真奈美は恋仇なのである。

「グレちゃんはいませんかあ(^^;)」
「……今でかけてるの。グレちゃんに用だったら、二時間くらい経ってから掛けなおしてねぇ」

 カンペキに、ただの「いやみなおねーさん」である。

「あれ? 香南がいる……」

 モニターに映し出された室内に香南を見つけて、真奈美はそう声を上げた。

「香南に代わって、おねーさん(^_^)」

 真奈美はとりあえず逃げの一手に香南を使う事にしてそう笑顔を作った。
 このオフィコン連中のねちねちしたイジメには、結婚する前からたびたび襲われていた。その度に……、

(克ちゃんて、けっこーモテるんだにゃ)

 と改めて感じさせられていた真奈美ではある(^^;)。

「真奈美ちゃんっ!」

 モニターの前に座るなり、香南が声を上げた。

「明後日は香南の誕生日なの! グレちゃんが『味の屋』で誕生パーティしてくれるって! まーちゃんも来るんだよ。だから真奈美ちゃんも来てねっ! 約束だよ!!」

(香南……飲んでるのかにゃ?)

 真奈美はまくしたてる香南を見て、ふとそう思った。
 昼の三時からオフィスでアインシュタインとユッコと香南という面子で、何を理由に酒盛りをするのかははなはだ疑問ではあるが、とりあえず、酒を飲んだんじゃないかと十分に誤解させるだけの浮かれようだった。

(お酒あんまり好きじゃないって言ってたよーな気がするけど……。マイヤーさんに鍛えられたのかなあ?)

 OSPの明日を担うスーパーヒロインにしては、ちょっと勘の鈍いところが、真奈美の欠点である(^^;)。
 ……とりあえずその真奈美と香南の国際電話によって、中川と真奈美の世界一周新婚旅行からの帰還が決定したのである。

 

「香南が来た……?」

 山田製薬から戻ったアーマスは、珍しく締めたネクタイを外してソファに腰を降ろした。
 『今日の業務日誌』には、

『あやとりをした。ユッコは「猫」が作れるようになったけど、カナンは下手くそで全然駄目だった。「橋」も「東京タワー」も作れないからユッコも一緒に教えてあげたけど、やっぱり駄目だった』

 という文章がユッコの丸文字で綴られていた。

「これじゃ業務日誌って言えないだろう(^^;)」

 そう言いたい気持ちは、すでに社長代行をはじめて三日目できっぱりと捨てた。

「うん……グレちゃんに用だったみたいだけど……、途中でやっぱりいいやって帰っちゃった。二十七日にバースディパーティするんでしょ? だからその打ち合わせがしたかったんじゃないのかなあ。ユッコ、よく分かんないけど」
「パーティって……?」
「あの娘の誕生日なんでしょ? 電話で真奈美ちゃんとそう話してたけど……」
「……いつの間に退院したんだ、香南は」

 アーマスはちょっと不安になった。
 香南が退院できるほどに快復しているのだとすれば、マイヤーからなにか連絡があってもいいはずである。

「どんな様子だった、香南?」
「えー、どんなって……。結婚式の時とあんまり変わってなかったかなあ。なんか、すごくはしゃいでたけど……」

(まさか……)

 嫌な予感がした。
 何しろ、香南には病院から脱走したと言う「前科」がある。

 アーマスはヴィジホンに向かうとまず軍事学部を呼び出し、マイヤーに取り次いでくれるように頼んだ。だが、マイヤーはしばらく補習講義を休講にするという届けを出して出かけているのだと言う返事だった。
 さらに強くなった予感を抱きながら、アーマスはさらに群島中央病院の番号をプッシュした。
 そして受付の看護婦から返ってきた答えは、アーマスの予感を裏付けるものだった。
 内科病棟に入院中の森沢香南は、外泊届を出さないまま、病院から抜け出したというのだ。

(……また、薬を?)

 アーマスは舌打ちした。
 香南の将来を守ろうとするマイヤーの行動が裏目に出たのだとしか言えなかった。
 病院を脱走した香南が……食事をすることも、しゃべることもしないほどの極度の欝状態にあったはずの香南が、ここでユッコを相手にはしゃいでいたその原因は……また薬を飲んだのだという以外には考えられないことだった。

(香南を見つけてくれ、マイヤー!)

 

 

 

 


Act2-16;恋の夢を垣間見る

 六甲は四時間ほどの勤務を終えて、ようやくSNSのサウナよりくそ暑いキッチンから解放された。

「づ……づがれ゛だ」

 更衣室で着替える前に、とりあえず間食(時間切れになって捨てられたハンバーガーである。他のアルバイトの目を盗んでくすねる事には成功したが、調理用エプロンのポケットに突っ込んであったため、潰れている)を食べようと店の裏手の狭い休憩所に立ち寄った。
 キョロキョロと辺りを見回す。
 残念なことに、周囲に女の姿はない。
 だがその代わりに、六甲は休憩所のテーブルの下に落ちているサクマドロップスの缶を発見した。

「を――――、ドロップスや(^_^)」

 労働の後のすきっ腹に、たった一個のハンバーガーでは少なすぎると思っていたところだった。それが例え腹のタシになるとも思えないドロップスであったとしても、ないよりはいい。
 缶は軽かった。
 中にはもうほとんど残っていないのだろう。
 六甲は蓋を開け、中身をざらっと手に出す。
 中に入っていたのはドロップスではなく、某便秘薬そっくりのピンクの小粒だったのだが、そんなことは空腹の六甲の前には何の意味もないことだった。
 確認もせずに糖衣錠を口の中に放り込み、かりっと歯を立てた途端、

「う、うげえ。なんなんや、これ」

 思わずそう叫んで口の中の薬を吐き出す。

「ドロップスじゃい思ーたら、薬やん、薬なんかより、こっちゃの方がずっとええわ」

 六甲がそう言って、ハンバーガーに食いつこうとした時……オフィスから稟が顔を出した。

「どうしたの、小泉くん。……ゴキブリでもいた?」

 稟を見つめて、六甲の顔が一瞬輝いた。
 今日五食目になる間食のハンバーガーをつかんだまま、うっとりとしたような目が稟に向けられる。

「え゛……」

 何となく、稟は嫌な予感を感じた。

 

 そして約一分後……店の裏の休憩所には、稟の膝にちゃっかりと座り、いつもにも増した幸せいっぱいの表情でハンバーガーに食いついている六甲の姿があった。

「てんちょーはんの膝、座り心地えーがじゃぁ(^_^)」

 それがまさかラブシックによる幻覚症状なのだとは思いもせず……稟はハンバーガーに食らいついている六甲を、呆然と見つめていた。

 

 そしてその日、公営住宅の弥生宅でも同様の事件が起きようとしていた。
 このあいだ突然訪ねてきた広田のことを問いつめたところ、ルイスは、

「群島内で蔓延している麻薬のことを調べている」

 と言っていた。
 そのせいなのか、あまり外出することのないルイスが、珍しく外出している。

 ……世莉は暇だった。
 少し前に学校を辞めてしまったため、窓から入ってくる日光が部屋の床にくっきりと図形を描くのを一日中でも見ていられるくらいに……暇だった。

「はあ――」

 こんな毎日を送っていると、なんだか老け込むのも早いような気がする。いや、ひょっとするとこの若さでボケ老人になってしまう可能性だってある。
 そんな、根拠のない不安がふと過った。

「ルイスに……なんか本でも借りて読もう」

 そう思い立って、世莉は誰もいないルイスの部屋に忍び込んだ。
 他人の個室に忍び込むのは……例えそれが同居人の部屋で、何度も入ったことがあるのだとしても、ちょっとワクワクする。
 つい用のない机の引き出しやキャビネットの奥なんかを覗いてみたい衝動にかられたりもする。
 いや……世莉がそれをしたと言うわけではない。
 事実、世莉はしなかった。
 したいという気持ちが多少なかった訳ではないが、とりあえず我慢をした。
 そして小難しい専門書ばかりがずらっと並んでいる本棚を見て、とりあえず一番目だつ分厚い本を取り出した。どうやら、スペースシャトルのエンジンについてのものらしい。
 ……が、どうせ暇つぶしなのだ。
 内容なんてどうでもいい。
 そう考えて部屋を出ようとしたときに……世莉はパソコンのモニターの横に置かれているサクマドロップスの缶を見つけた。
 ルイスの部屋には……およそ似合いそうにない代物だった。
 カロリーメイトとミネラルウォーターだけで生きてるんじゃないかと思うときもあるあのルイスが……こんな小学生の食うような菓子を買い食いしていたなんてのは、ちょっと信じられない話である。

「そういえば……広田さんが、サクマドロップスがどうのって言ってたような気もするな……」

 世莉はそう独り言のように呟いて、缶を開けてみた。
 思った通り、中に入っていたのはドロップスではなく、ピンクの糖衣錠だった。
 これがルイスの言っていた、「麻薬」になのだと、世莉は直感的に悟った。

「……麻薬かあ。効くのかな、ホントに」

 世莉は麻薬を使ったことはない。別に使いたいと思ったこともなかった。
 ……が、だからと言ってまるっきり興味がないと言うわけでもない。
 あの出不精のルイスを動かすほどの麻薬である。きっとすごい効果を持っているに違いない。

 缶にぎっしりと詰まったピンクの錠剤をざらっと手に出し、世莉はそれを一気に口に運んだ。
 その量は……六甲が嘗めた数など問題にならないほど大量だった。

 

 ぼんやりとした陶酔が、世莉を襲っていた。
 何人かの女の顔が浮かぶ。
 そしてその中で……ひときわ鮮やかな光彩を放つ、一人の女性。
 それは美しい義母の顔だった。
 実際にはそれは義母ではなく、まぐまぐバーガーのバイトから帰ってきたところで世莉に出くわした葉月だったのだが、薬の陶酔に浸りきっている世莉には、そんな事はどうでも良かった。
 そして、葉月はノリ易い性格だった。
 昼間っから酔っているらしい(……と葉月は思った)世莉に、自分もビールを飲みながら言い寄り始める。上手くすれば普段は語る事のない世莉の恋心を聞き出せるかもしれないという企みもあった。聞き出したら、あとで笑ってやろう。
 だが、そんな葉月の無邪気な企みになど、世莉はまったく気付いていなかった。
 世莉にとっては今目の前にいるのは葉月ではなく、義母なのだ。
 望んだところでどうなるものでもないその彼女の幻影が、世莉の意識に浮かび……そして世莉を抱くようにそっとその両手を開いた。

「……」

 そして、世莉が彼女の名を呼ぼうとした瞬間、

 ざ――――――っと激しい水流に頭を突っ込まれて世莉は我に返った。
 その世莉の襟首を掴んでシンクに抑え込んでいるのは、いつの間にか戻ってきていたルイスだった。

「ぼくの薬を勝手に飲むなよ。……適量がどれくらいかも分からないで……。場合によっては生命に関わったかもしれないんだよ」

 びしょ濡れになった世莉に大判のタオルを投げて、ルイスは困ったように言葉を発した。

「何の薬なんだよ、あれ」

 頭を拭きながら、世莉はルイスを振り返って尋ねた。
 だがルイスは答える代わりに、不敵な笑いを唇の片隅に浮かべただけだった。

「……まだ、秘密」

 

 

 

 


Act2-17;恋する少女たち

 8月27日。ついにアーマスの待ち望んでいた中川と真奈美の帰還の日がやってきた。

 空港にふたりを出迎えたのはアーマスと諒プラス来なくていいと言うのについてきたユッコとアインシュタイン。
 そして、

「あーら、偶然よ、ぐ・う・ぜ・ん」

 と白々しい笑いを浮かべて金色のオープンベンツで現れたチャン・リン・シャン。
 中川の叔母に当たるという初老の元作家(ASで仕事を得た今も、なぜか頑なにその肩書きを名乗っている)上原尚子という……豪華というにはちょっと奇妙な顔ぶれだった。

 

 ……いや、実際には中川と真奈美は昨日帰国していたのだが、昨日は足りない土産を買い揃えるために横浜中華街とアメ横をハシゴして、空港ホテルに止まり、さも今日帰ってきたかのように見せかけていたのである。
 勿論すべて、真奈美の計画である。(「えへへ、奈美ってばあったまいいー」:本人談)

 

 そして一行はそのまま、香南の誕生日パーティ会場の『味の屋』へと向かった。
 呼んでもいないのに、

「今日は私も誕生日なの。偶然よね(^_^)」

 と六十回目のバースディ(「まあ、失礼ね。まだ55よ」:本人談)を香南のパーティに便乗して祝ってもらおうと押し掛けた上原の姿が紛れていたことは……できればSTも書きたくはない事実である。

 

 香南は約束の時間に少し遅れてやってきた。

 諒に公衆ヴィジホンから香南が電話をかけてきたのは、昨夜のことだった。
 病院から脱走したことも、おそらくまた薬を飲んでいるのだと言うことも、諒はアーマスから聞かされていたのだが、必死に何も知らない振りをして誕生パーティの話だけをした。
 そうすれば……とにかく明日は『味の屋』に来る。
 恋の夢を見せる麻薬『ラブシック』を飲んだ香南の気持ちが……諒には何となく分かるような気がするのだ。
 いくら思っても、なかなか応えてはくれないマイヤーを見つめて、香南が不安を抱き、寂しがっていたのだということが……諒には分かった。
 確かに香南はその薬の意味を深くは考えていなかったのだろう。友達に進められるままに、恋人のできるおまじないの指輪や、幸せになれる秘密のペンダントを身につけるように気軽に薬に手を出したのかもしれない。
 だが……。
 病院のベッドで小さな子どものように身体を丸めていた香南の姿が、諒の脳裏に焼き付いている。
 香南が……マイヤーの腕を求めているようだと、そのとき諒は思ったのだ。
 自分を守ってくれる、マイヤーの強い手を求めているようだった。

「どうしてそのときすぐに、俺に知らせなかったんだ」

 帰ってきたとき、諒からその話を聞いてアーマスは声を荒げた。

「駅の公衆ヴィジホンからだったんだろう? そのときすぐに探せば……見つかったかもしれないじゃないか。すぐに病院に戻せば……薬をこれ以上……」
「そうじゃないわ、アーマス」

 そのアーマスの言葉を遮って、諒は口を開いた。

「ね……明日は香南ちゃんの言う通りに、『味の屋』でパーティをしてあげよう。マイヤーさんにも来てもらって……。無理矢理押さえつけて薬をやめさせても無駄よ。何度だって逃げて同じことを繰り返すだけじゃない。それとも縛り付けて、閉じ込めて置くの? ……お願い、香南ちゃんの気持ちも考えてあげて。香南ちゃんが薬をやめさせられるのは……私たちやお医者さんじゃないわ」
「マイヤーと香南の問題だって言うのか」
「マイヤーさんが香南ちゃんをどう思っているのかは私は分からないけど……、答えがイエスでもノーでも……このまま、中途半端のまま放って置くのはかわいそうよ」
「…………そう、だな」

 涙さえ浮かべている諒のその表情に、はっと息を飲むほどの衝撃をアーマスは覚えた。
 諒が言いたいのは……もっと他のことなんじゃないか……そんな風に感じたからだ。
 彼女が香南のことを心配しているのは確かだ。だが、それだけではない。
 おそらく自分自身とアーマスが、今こうして続けている奇妙な同居生活のことを言っているのだろう。
 諒もまた……香南と同じように答えを欲しがっている。
 葉月と諒が親しくしていることは以前から知っていた。そして、その葉月が、諒の言葉からアーマスのことを誤解して、

「あいつは最低の男だ」

 とうそぶいている事も耳にしていた。そのことに……アーマスは苛立ちさえ覚えていたのだ。
 だがそれが……諒の……こんな中途半端な関係を続ける生活への不安から生まれた誤解なのだと、気づいたのだ。

「香南の為に……楽しいパーティをしてやろう」

 自分の部屋に入ろうとする諒の背中に、アーマスはそう言葉をもらした。
 その昨日の言葉が……今もアーマスと諒の心の奥に強く響いている。

 

 香南が『味の屋』に入ってすぐに……縁島洋上高校前駅で香南を見つけ、あとをつけてきたマイヤーも店内に入った。

「じゃあ、えーと、主賓もゲストも揃ったところで……香南の誕生パーティと社長と真奈美の新婚旅行打ち上げパーティを始めたいと思います。乾杯の音頭をとってくれよ、社長……」

 そう言ってグラス(中身はオレンジジュースである、念のため)を渡してアーマスがぐったりと椅子に伸びている中川をせっついた。

「あー、疲れたぞ、乾杯!」

 その中川の声に、集まった面々がそれぞれにグラスを触れ合わせた。『味の屋』の女将である紀美枝が作ってくれた特大のバースディケーキのロウソクを香南が吹き消す。

 そしてその後は……たまたま店を訪れた一般市民を巻き込んでの……いつも通りの大宴会となった。

「マイヤーさんも、どーぞ」

 そしてまたいつものごとく、テーブルを回ってビールのお酌サービスに精を出しているのは真奈美である。その上、今日は真奈美に張り合おうとオフィコンのユッコまでもがお茶汲みで鍛えた腕前を披露しているから……グラスの空く暇がない。

「いや……俺はいい。コーヒーを貰えるか?」

 真奈美の酌を断って、マイヤーは紀美枝にコーヒーを注文した。
 テーブルの向かいに座って、嬉しそうにケーキをかじっている香南をじっと見つめている。

 そして……毎度のように……宴会は『味の屋』の営業時間を過ぎた深夜まで続いた。
 紀美枝さん、すまん。

 香南の表情の変化に、マイヤーは気づいていた。
 宴会が始まったときはあれほどはしゃいで騒ぎまくっていたのに、すっかり言葉が少なくなり、大人しく座っている。さっきから次々に運ばれてくる料理にも、まったく手をつけていない。

「香南、そろそろ帰るぞ」

 マイヤーがそう声をかけた。
 そのマイヤーを見上げて、香南がこくん、とうなずく。すでに香南の目は……いつもとは違うかげりを帯びているようにも見えた。

「ええええええええ、香南帰っちゃうのぉ。まだまだ宵の口なのに(;_;)」

 耳ざとくマイヤーの言葉を聞きつけて、真奈美がそう声を上げた。

「まあまあまあまあ……邪魔するのは野暮ってもんだろ、真奈美」

 その真奈美を背後から抑え込んで中川が言った。
 中川も香南のことはすでにアーマスから聞かされていた。こんな言葉を発したのは単にマイヤーが香南と***という下心いっぱいの妄想を抱いたからだけではない。

「マイヤー……頼んだぜ」

 立ち上がったマイヤーに、アーマスがそう小さく声をかける。

「ああ」

 そう低くうなずいてマイヤーは香南を連れ、店を出て行った。

 そして主賓の一人を失ってなお……『味の屋』の宴会はどこまでも脳天気に続いた。
 ただ出ていくふたりを見守っているアーマスと諒の視線だけが、どこか飲んだ酒に酔っていなかった。

 

 

 

 


Act2-18;稚なくて、恋を知らず……

 『味の屋』の喧噪は薄い壁を隔てた『こうじや』にも聞こえていた。
 そして、その『こうじや』奥の貧乏たらしい四畳半で、坂井は突然訪ねてきた高校時代の友人・巽進一郎と酒を酌み交わしいていた。

 ふたりの間にあるちゃぶ台には、群島プロムナードからダウンロードした求人広告のプリントアウトが乗せられている。

「本気なのか……」

 『夜明け前』を茶碗に注ぎながら、坂井は低く言った。

「勿論だ。この巽進一郎、痩せても枯れても冗談など言うおちゃらけた性格はしとらん」

 

 答えた巽の言葉には、確固たる意志が感じられた。
 その巽を見て……さらにもう一度求人広告のプリントアウトに目をやって、坂井は長いため息を吐いた。

『それなりに覚悟の必要な仕事』

 以前に見た事のあるような見出しが、そのプリントアウトの最上段に印刷されている。

 そして……社名の欄に燦然と輝く、

『人材派遣ゼロワンSTAFF』

 の文字。

「……やめた方がいいと思うぞ、巽。貯金と息子さんたちからの仕送りで充分暮らして行けるんだろう。何も好きこのんでこんな胡散臭い仕事に首を突っ込まなくたって」

 坂井曰くの胡散臭い仕事とは……もちろんそのプリントアウトの職種欄に書かれている、

『企業内スパイ』

 である。
 そして坂井の不安を書き立てるように、薄い壁を隔てた『味の屋』の店内から、

「俺が愛してるのは真奈美だけに決まってるじゃないか……」

 という、お調子者くさい……そして聞き慣れた中川の声が聞こえてくる。

「いいか坂井。わしは今の生活に、何の不満も抱いてはおらん。貯金の利子、そして息子や娘たちの仕送り。まだ小学校の孫たちでさえ、時には小遣いを封筒に入れて送ってくれる。そんな悠々自適の生活に、不満なんか一個だってありはしない。だがな、だが、心はいつだって無垢な少年のように、心ときめく冒険を求めてやまないんだ」

 何となく、どっかで聞いたような台詞を、巽はぬけぬけと吐いた。
 さすが……高校の頃から四十年も坂井の友人をやっているだけの事はある。(^^;)

「だが巽、君子危うきに近寄らずと言う言葉もあるぞ。何せ相手は今隣の店で馬鹿騒ぎをしているあの連中なんだからな」
「望むところじゃあ」

 茶碗になみなみと注いだ『夜明け前』をぐいっと一気に煽ると、巽は鼻息も荒くまくしたてた。

「わしだってあと十歳……いや二十歳若ければ仲間に入れろと飛び込んでいるところだ。この巽進一郎、若い者に侮られるようなヤワな男ではないわっ!」

 思えば……この血の気の多さがこいつの欠点だった……と坂井はうなだれた。
 親父の建設会社を継ぐから、手伝って欲しい。
 辰樹がそんな話を持ちかけたとき……、

「鉄砲玉が必要ならいつでも呼んでくれ。地の果てからでも駆けつけるぞ」

 といきまいて、陸上自衛隊に入隊して行ったのは……そう言えばこの男だった。
 今更何を言ったところで止める事など不可能なのだと、坂井は思いはじめていた。
 坂井に止められるものなら、今ごろ巽はこんなところでスパイ募集の広告に目を輝かせていたりはしないはずなのだから……。

 

 御託はいいから酒の肴に田楽でも作ってくれ、と言われて、坂井は味噌を取りに暗い店舗の土間に降りた。
 店の明かりをつけようとして、ふとその手を止める。
 ガラス格子の表扉に、外の街頭を受けてふたつのシルエットが立ちすくんでいたのだ。
 長身で体格のいい男と、ちびの女の子と思われるそのシルエットを一目見ただけで店の前に立っているのが誰なのか、坂井には分かってしまった。

 

 『味の屋』を出たマイヤーは、少し歩いたところで立ち止まり、香南を振り返った。

「病院に……戻ってくれるな?」
「……」

 だが、香南は答えなかった。
 手首の鎖につけられた薬夾を、さっきからずっといじっている。
 すでに禁断症状が始まっているのだとマイヤーは気づいた。

「お前の使っている薬は……麻薬なんだ。子どもの遊びの薬なんかじゃない」

 マイヤーの表情は辛そうだった。
 ラブシックがどういう効果を持つ麻薬なのか……沫が香南から聞き出したその情報はすでにアーマスから伝えられていた。
 そして、昨日電話をかけてきた諒の言っていた言葉が……マイヤーの心に今も深く突き刺さっている。

(俺が……香南を追い込んだ)

 その思いが、マイヤーに自分自身を責めさせた。
 守ってやらなければならないと……そう思っていた香南を……マイヤーの迷いが、こうして追い込んで行った。
 下手をすれば生命を落とすかも知れない危険に香南の身がさらされた事への重い責任をマイヤーはひしひしと感じていた。

「……麻薬?」

 ようやく顔を上げ、香南は呟くように言葉を発した。
 その香南のがき臭さが、マイヤーには辛かった。諒が昨夜の電話で言っていた通り、香南はそれが麻薬だなどとは考えもせずに服用したのだろう。
 ただ……片思いの相手であるマイヤーの夢を見るためだけに……。

「そうだ……。まだ成分は分からないが……おそらくヘロインと同程度の強い依存性を持つ麻薬だろうと医者は言ってる」
「でも、桜ちゃんは……おまじないの薬だって言ってた。好きな人の夢が見られる、おまじないの薬だって」
「夢……?」
「うん。まーちゃんと一緒にいる夢を……いっぱい見た。とっても楽しかった。だから……いつまでもその夢を、見ていたかったんだ」
「……」
「薬が切れると……苦しかったよ。辛かった。もうまーちゃんが死んじゃったんだって感じるときもあった」
「病院へ戻ってくれるな? そして、薬をやめられるな?」

 マイヤーはもう一度その言葉を繰り返した。
 こくん、と小さく香南がうなずく。

「麻薬だなんて……知らなかった。桜ちゃんの言う通りの、ただのおまじないの薬だって思ってたんだ」

 香南の目から……ぽろぽろと涙がこぼれた。
 うつむいて、涙をこらえるように言葉を飲み込む。

「ずっと……香南のこと探してた?」
「ああ」
「………………」

 何かを言おうとしたが、喉の奥に詰まって出てこない……そんな感じだった。
 マイヤーは香南の肩にそっと手を置いた。
 驚いたように身をすくめて、香南が涙で濡れた顔を上げた。
 夜風に吹かれてさらりとなびいた長い前髪の間から、額の傷がちらりとのぞく。この傷と同じように……たとえ薬をやめられたとしてもラブシックの残した爪痕が香南の心から消えて行くことはないだろう。
 それがマイヤーには辛かった。
 ゆっくりと香南の身体を引き寄せ、伸びすぎた前髪をそっとどけて額の傷に唇を当てる。
 香南は……何も言わなかった。
 身動きもせず、ただ間近にいるマイヤーの存在を感じとっていた。

 

 ふたりのシルエットが離れ、ゆっくりと歩き出すまで……坂井は暗い土間に呆然と立ってその光景を見つめていた。

「をーい、坂井、田楽はまだか」

 巽の声が座敷の奥から飛ぶ。だがそれでも、坂井はもう何も映ってはいないガラス格子の扉を見つめて立ち尽くしていた。

(あなたもですか……マイヤーさん(;_;))

 ちなみに坂井は今回の『恋の日和作戦』のことも香南が麻薬中毒になったこともまだ知らなかった。

 

 

 

 


Act2-19;恋のスーパーヒロイン

 『味の屋』で幕を開けた宴会は。すでに理由など半分忘れられて、中川と真奈美の「新居」に移動していた。

「社長ー、仕事の話をだな……」

 などとアーマスが口を挟んだところで、すでに泥酔状態の中川に話が通じるわけはない。
 真奈美は事件の詳細はまだ知らず(……いや、知っていたところで宴会の途中で仕事の話をさせる真奈美ではないのだが)、アーマスのグラスにもばんばん酒を注いでいく。

「グレちゃん、堅い話は宴会が終わってから☆ 飲みましょーー。ぐーーーっと空けてください(^_^)。あ、諒さんも飲んで飲んで」

 そう言って、ケースで用意されているビールを片っ端から注ぐ。
 アーマスも……すでにちょっと酔い始めていた。諒も、酔っている。真奈美に負けない勢いで酌をして回るユッコ。宴会の匂いを嗅ぎつけて現れた衿霞が、ユッコのあまりにも強い援軍となってさらに酌をする。グラスの空く暇はおろか、飲む隙さえもないんじゃないかと思われる……怒涛のお酌合戦である。
 そのお酌合戦の一番の被害者はまぐまぐバーガーのバイトを終えてオフィスに立ち寄った忍武である。
 その中にあって、奇跡とも思えるマイペースさで雷がちびちびやっているのとは、くっきりと明暗を分けている。

「私もお酌をします……」

 というその声が、聞き入れられるわけもなく唯が飲まされている。
 そしてなぜか……パソコンの様子を見にやってきただけのはずのAREの野村が、グラスから溢れるビールをじっと見つめている。

(なぜなんだろう……なぜここに来ると、いつもこうなってしまうんだ)

 だがそんな気弱なことを言っている暇もなく、野村もまた、次から次へと飲まされて帰る口実を見失っていた。

 

 そしてさらに……宴会は盛り上がる。
 盛り上がりきってほっと一息つく頃には、すでに28日の夜に突入していた。

「うはははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 アブシンベル縁島にその……群島の住人なら、誰でも一度は聞いた事があると言われる笑い声が響いた。

「……こ、こ、この声は……」

 幾分酔いも覚めた中川の顔に、すっと影が落ちる。

「いやいやいやいや、中川くん、真奈美くん。MIL企画の新婚旅行計画完遂おめでとう!!!」

 なぜかその背中には二十八冊もの本を背負って、三宅準一郎がずかずかと部屋に上がり込んでくる。安マンションの鍵など、MIL特性の「自動開錠装置」を使えばないも同然だった。もし装置の性能が及ばず、鍵が開かなかった場合も自爆装置が作動して鍵もろとも吹っ飛ぶから、失敗はありえないという画期的な装置である。

「きゃーー、おじさま。遊びに来てくれるなんて真奈美嬉しいですにゃ」
「うむうむ。これはささやかだがワシと白葉君からの結婚祝いじゃ。まあ受け取ってくれや」

 そう言って、三宅は背負っていた二十八冊の本をどさどさと床に置いた。
 『世界の料理百科』農工研編纂、白葉教授監修の堂々全二十七巻プラス目次一巻の大全集である。家庭料理から高級レストランに出しても恥ずかしくない逸品まで、千数百に及ぶ料理がが網羅され、これ一冊あれば、一生料理のメニューに困る事はないと言われる名著なのだ。
 すでに五十四カ国語に翻訳されて全世界で愛読されているベストセラーだった。新婚妻に贈るプレゼントとして……これ以上の書物は有り得ない。

(直に還暦のくせに……よくやるぜ、この爺)

 狭いオフィスにただでさえ人間が溢れ返って足の踏み場もないと言うのに、残ったわずかなスペースにうず高く料理百科を積み上げられて……中川はさすがに悪態をつく気力さえ奪われてしまった。

「あ、これ美味しそうやわ(^_^)」
「真奈美、これなら作れる☆」
「ユッコお料理下手だから、これ見せて貰っておベンキョしなきゃ(^_^)」
「こっちなんか……お酒のつまみにもいいんじゃないかしら」
「今度、いろいろ作ってまた宴会しましょ」

 本に女の子たちが一斉にとびついて歓声を上げたのが、さらに面白くない。

「教授、飲みましょ(^_^)」

 三宅教授の登場で、終わりかけた狂乱の宴会に、またしても火がついた事は言うまでもない。

「うはははははは」

 ……という奇怪な笑い声が響く中で、アブシンベル縁島に住む小学生たちは残り少なくなった夏休みの夜を、その声を肴に怪談と花火で満喫していた。
 そしてその声は……彼らが夏休みの宿題にとりかかった三十日の午後になってもまだ続いていた。

「おっさん、……うはははいいから、この指輪なんとかしてくれよ」

 すでにアーマスが潰れ、野村も潰れ、女の子たちが仮眠をとり、生き残っているのは中川と三宅の他、へろへろに酔っぱらって抹茶を点てている忍武と、それを飲んでいる雷、料理百科を読んで今日のメニューを選んでいるアインシュタインくらいのものだった。

「んー?」

 手酌でまだ酒を注ぎながら、三宅は顔を上げた。
 中川の左手の中指には、MIL特性の通信機つき指輪がはまっている。真奈美のものとペアで三宅が作ってやったもので、抜け落ち防止装置(自爆装置付き)がついているため、外れないのである。

「通信機として使えるんならともかく、これじゃあ危ねえだけで役に立たないしさ」

 こんなものをつけたまま、なぜ中川が空港のチェックを通り抜ける事ができたのかは……謎である。

「ぢゃあ、真奈美くんの分をもう一個作ってあげようか?」
「……そういうことが言いたいんじゃねえんだよ、おっさん」
「男ならすぱっと抜くくらいの気概を見せたらどーだね、中川くん。うははははは」
「このクソ爺ぃ……」
「んじゃあ、こーいうんはどうだ? きみがMILに入学して研究員資格を取れたらワシが責任を持って外してやる。もちろん、自爆装置を作動させずにだ」
「……俺は文系なんだ」
「うはははは、諦めたまえ、中川くん」

 三宅も……結構酔っている(^^;)。

 

 そして、稟がゼロワンSTAFFを訪れたのは、

「そういえば今日って克ちゃんの誕生日じゃない!」

 ……と、真奈美が思い出し、引き続いて新たな宴会が盛り上がろうとしていたそのさなかだった。

「………………(^^;)」

 潰れたはずのアーマスがたたき起こされ、仕事に行くという雷が引き留められて再び真奈美と衿霞とユッコによる怒涛のお酌合戦が始まったその中に、稟は呆然と立ちすくんでいた。

「店長はんも飲んでください」

 衿霞がそう言って稟にグラスを渡し、反論の余地もなくビールを注ぐ。

「グレブリーさん、仕事のことなんですが……」
「はい。えーとですね、現在分かってる事は……」

 などと言う会話は、あっという間に真奈美に阻止されてしまう。

「お久しぶりです、店長さん☆ 奈美、九月からまぐまぐバーガーに復帰しますからね☆ ヨロシク。再会を祝して飲みましょ!」

 衿霞の注いだビールがまだ半分以上残っているグラスに、さらに真奈美がビールを継ぎ足した。
 稟が……そのパワーに反撃できた訳はない(^^;)。
 真奈美はゼロワンSTAFFに来るまで、稟の店でアルバイトをしていたのだ。
 だから稟は真奈美の宴会好きを知っていたし、真奈美は酌を断りきれない稟の性格をよく知っていた。

 そして、三十分後……。

「ウチの店でアルバイトの娘たちが麻薬の取り引きに手を染めてるなんて……そしてその麻薬が……ううううう」

 ビールのグラスを握りしめて、稟はぽろぽろと涙をこぼした。
 いわゆる……泣き上戸言われるタイプの酔っぱらいである。始末に終えないという点では、中川の説教癖にも通じる……宴会で最も嫌われる行為だ。

「にゃ☆ 店長さん、かなしーのは飲みが足りないせいですよ。がんがん行きましょ」

 そして、真奈美も懲りない奴だった。
 化粧が崩れるほど泣いている稟のグラスに、これでもかとビールを注いでいく。

「だいじょーぶ☆ 真奈美は三宅のおぢさまにも太鼓判を押して貰った正義のスーパーヒロインだもん。衿霞ちゃんや唯ちゃんや諒ちゃんと力を併せて……えーとそれから忍武さんや雷さんやグレちゃんや克巳ちゃんと……なんかすごくいっぱい味方もいるし……心配する事なんか、なぁーーーーんにもないですにゃ(^_^)」

 扇子を取り出して煽り立てる三宅の声援をバックに真奈美がそう力強く宣言した。
 その言葉を聞いて……稟は何となくほろっとして、また泣いた。
 ともかくこうしてスーパーヒロインは戦列に復帰したのである(^^;)。

 

――以下、次号

 

 

 

  


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