ACT3-7;恋のおびえ 
 肩にふわっと毛布のかけられた感触で諒は目を覚ました。

「すまん、起こしたか……?」

 ふと顔を上げるとマイヤーの姿があった。香南の看病に来ていた群島中央病院の病室で、いつのまにかうつらうつらしていたらしい。

「……やだ。ごめんなさい。私ったら、寝ちゃったのね」
「疲れているんだろう。今日はもう、帰った方がいいんじゃないのか。あとは私が見
るから」

 ベッドで眠っている香南を起こさないよう、マイヤーは声を落とした。

「このくらい、大丈夫です。……今日は香南ちゃんのお母さんもいらしてたんですよ。
マイヤーさんにも改めてご挨拶したいって、そう伝言ことづかってます」
「ああ……そうだな」
「じゃあ、今日は私は帰ります。なにかあったら電話して下さい。明日もまた様子見
に来ます」

 そう言って、諒は立ち上がった。
 その表情はどこか暗いかげりがあった。連日香南の様子を見にこの病院に通ってい
る疲労もあるのだろうが、やはり一番の原因はアーマスとの事なのだろう。

「グレブリーには……知らせていないのかね?」

 帰り支度を始めた諒に、マイヤーがそう声をかけた。
 アーマスの部屋を出たことを、諒はただ“気持ちに行き違いがあって……”としか
言わなかったが、今回のラブシック騒動がその原因なのだと、マイヤーは気づいてい
た。
 諒はアーマスの部屋を出て行ってしばらくはぶらぶらしていたようだが、現在は水
天宮−−るるいえ海底開発のマイア・I・リークに世話になって落ちついているよう
だった。
 彼女の出て行った後、アーマスが荒れているのだと言う話も、マイヤーは小耳には
さんでいた。

「こんなことに口出しする柄でもないが……せめて居場所くらいは……」
「人の気持ちって、難しいですよね」

 諒はマイヤーの言葉を遮るように言って、香南に目を移した。

「私……香南ちゃんの気持ち、分かるような気がするんです。マイヤーさんが好きで、
マイヤーさんと一緒にいるためなら何でもしたい。香南ちゃんには、それしか見えて
なかった。だからマイヤーさんが戦争に行くなら、自分も。そのためには軍事学部に
入るしかない……軍事学部に入るためなら高校にも通う−−って。単純な発想だけど、
香南ちゃんなりの努力があって、自分に無理を強いる事だってしてたんだなって、そ
う思うんです。ただの“好き”からもう一歩踏み出すってすごく勇気のいることでし
ょう? 誰だって……自分の好きな人からの言葉を待ってるんですよね。私がアーマ
スの言葉を待っていたように……香南がマイヤーさんの言葉を待っていたように、ア
ーマスが私の言葉を待っていたんじゃないかって……今は思うけど……でも……」

 諒は、涙をこらえるかのように、深く息を吸い込んだ。

「今はまだ……どうすればいいのか分からないんです。アーマスはいい人だし、喧嘩
したからって嫌いになった訳でもない。でも、彼との暮らしにはなにかが足りない。
なにかが私には合わないんです。−−こんな言い方、卑怯だけど、好きになる事と一
緒にやっていけるって事は違うでしょう?」
「……」

 マイヤーは、言葉を失っていた。

「ごめんなさい……。別にマイヤーさんを責めてるわけじゃないの。ただ……私とア
ーマスにはもう少し時間がいるって、そう思ってるだけ。アーマスも私も、もう少し
頭を冷やさなくちゃ。……それでもう一度やり直せるなら、きっといい関係になれる
と思うの。一緒に暮らすにしても……もっと別の関係で再会してもね」


 出ていく諒に、結局マイヤーは発する言葉を見つけ出す事ができなかった。
 病院に戻ってからの香南は……表面上は以前よりずっと快復している。わずかずつ
ではあるが食事をとるようになり、言葉を口にするようになった。
 だが、マイヤーの記憶の中で今も鮮明な−−あの底抜けに明るい元気な娘の印象は
すっかり失われたままなのだ。

(俺の言葉を−−待っていたのか、香南)
(ガキ臭く笑ってたあのときにも)
(俺に涙を見せたあのときにも)
(俺の言葉を待っていたのか……)

 ただ稚ないばかりの子供だと思っていた。
 だがその香南から……おそらく諒はもっと別の一面を見い出していたのだろう。
 精いっぱい歩み寄ってやったのだと思っていたその自分の位置と、香南の突っ走っ
て行こうとするそのゴールとのわずかな隔たりが、香南にとってどれほど遠いものだ
ったのかを、マイヤーは改めて思い知らされた気持ちだった。


 真奈美が香南を見舞って病室を訪れたのは、諒が出て行ってから三十分ほど経った
時だった。

「……香南、いる?」

 そう言って真奈美が入ってきたとき香南は目を覚ましていた。
 宝物のM60のモデルガンをベッドの上に引きずり上げて、マイヤーの“講義”を
聞いていたらしい。
 入ってきた真奈美の方に、香南が視線を投げる。
 少なくともそうして他人の存在を受けとめるだけのゆとりが、香南には生まれはじ
めている。

「あのね、お土産持ってきたの。奈美と、克ちゃんと、あと広田さんと三宅のおじさ
まと白葉のおじさまから合同でね、じゃーんっ☆ 香南の制服っ! 退院したら、必
要でしょ? 補習で香南と一緒だったみんなも、香南が学校に来るの楽しみにしてる
んだよ」

 真奈美の口調はいつもとまるで変わらないものだった。
 痩せて、顔立ちまで変わってしまったような香南を見つめて、それでもまったくそ
れに気づいてさえいないように笑顔を向けている。

『香南は絶対治るよ。みんながついてるもん。マイヤーさんがついてるもんっ!』

 病院に来る前に中川から香南の様子を聞かされたとき、真奈美はそう強気に言い放
った。その確信は、今こうして変わり果てた香南の様子を見ても変わりはしない。

(奈美は信じてるもん。香南は強いんだから……。絶対に負けたりしないんだから)

 だから、絶対に涙を見せたりはしない。
 香南がどんなに変わっていようと……絶対にいつも通りの笑顔で香南を励ますんだ。
 心の底にある不安を、その思いで吹き飛ばして真奈美はここに来たのだ。

「…………うん」

 小さく、香南が呟いた。
 真奈美がスーツバッグの中から出したセーラー服を見つめて、無表情だった香南の
顔が、わずかに紅潮したように見える。

「ね……香南、補習のクラスに桜ちゃんがいたでしょ?」
「……!」

 その瞬間、香南の表情がこわばった。
 手に持っていたM60のマガジンがぽとりと布団の上に落ちる。

「桜ちゃんのこと、教えて。夏休みの間に桜ちゃんに……」
「……や……」

 香南は眉を寄せ、何も聞きたくないというように耳を両手でふさいだ。

「香南!」
「ぃやああああああああああっ!」

 これまでずっと香南の看病を続けていたマイヤーも、こんな風に取り乱すのを見る
のは初めてだった。香南の喉を切り裂くように発せられた悲鳴には、明かな恐怖がこ
められている。

「どうしたの、何があったの?」

 その香南の悲鳴を聞きつけて、担当の看護婦が飛び込んでくる。
 続いてナースコールから香南の容態の急変を告げられた津久井が病室に駆けつけた。

「邪魔になる。……部屋を出ていよう」

 鎮静剤の指示を出している津久井の様子を、唖然として見つめている真奈美の腕を
つかんで、マイヤーは病室を出た。

「……桜ってのは香南に薬を渡したっていう、洋上高校の生徒だな? なにか分かっ
たのか?」
「えとね、昨日ゼロワンSTAFFに軍事学部の生徒の人が来たんだけど……。前に
ニュースでやってたの、マイヤーさん覚えてる? 軍事学部の生徒Cが女子高校生の
A子に大トロの短冊で殴られて……っていう事件」
「ああ、覚えている」

 忘れるわけがなかった。
 女子高校生ごときに殴られて昏倒するなど軍事学部の名折れだ……と職員一同頭を
抱えた事件なのだ。被害者の篠田は、学部内では「きょん」と言っただけで通用する
ほどの有名な劣等生である。新入生の中で軍歴を持つ留学生に比べて日本人学生の成
績が低いのはいつものことだが、きょんはその中で評価項目の80%以上で最下位を
マークするという軍事学部始まって以来の快挙を成し遂げた札付きである。
 去年度だけで軍事学部には成績の悪さを表現する慣用句として「まるできょんだな」
が定着したほどだ。

「……で、そのきょんって人を殴ったA子っていうのが桜ちゃんだったって分かった
の。桜ちゃんがサクマドロップスの缶をたくさん持ってたって……」

『桜ちゃんね、やさしーの』

 香南が沫にもらしたのだと言うその言葉が、ふとマイヤーの脳裏によみがえった。
 そして……薬の事を決して語ろうとはしない香南のかたくなな行動を、ようやく理
解した。

(香南は、おびえていたんだ)

 

 


ACT3-8;恋の行き着く場所
「まーちゃんからデートのお誘いなんて……光栄だな」

 SNSのラウンジでマイヤーを見つけた中川は皮肉っぽい笑いを浮かべた顔で言う
とスツールに腰を降ろし、珍しくカウンターに入っているシータ・ラムにビールを注
文した。

「社長さん、酔っぱらわないでよ」

 ラムはそう言って渋い表情をしたが、とりあえずビールのジョッキを中川の前に出
した。

「今日のことは……聞いているか?」
「ああ、真奈美から電話がかかってきた」
「調査の方は、進んでいるのか?」

 マイヤーはコーヒーのカップをソーサーに起き、ちょっと身体をずらして中川の方
を向いた。周囲の客を気にして声を潜める。

「進んでる……なんて、胸を張って言えるだけの成果はないね。例の女子高校生の殺
人未遂の原因がラブシックだったってくらいなもんだな」

 そう言って、中川はジョッキを取った。
 中ジョッキを満たすビールの半分ほどを一気に流し込む。

「酔うなよ、お前の図体を抱えて送り届けてやるつもりはないぞ、中川」
「……友達だろー、多少のコトは大目に見ろよ」
「友達でも、言うべき事は言うさ。……飲んだくれてる場合じゃないはずだ」

 軽い気持ちで言ったその言葉に、真顔で返されて……中川は困ったように苦笑した。

「そんな言われ方をすると……話が切り出しにくいな」
「……話?」
「いや……まずはあんたの話を聞くよ。呼び出したのは俺じゃないんだからな」
「香南のことだよ」

 そう低く言って、マイヤーはコーヒーを一口飲んだ。

「……今回の騒動にもし俺が必要なら、そのときは協力する。どんな形でも、例えタ
ダ働きでもな。だからこれ以上……麻薬の事で香南に構うのはやめてくれ」
「あんたさぁ……この先どうするつもり?」
「どういう意味だ?」
「俺は正直−−香南のことは分からねえんだよな。あんたの気持ちもさ」
「あの娘は、まだ子どもだ」

 マイヤーはカップの中で揺れるコーヒーの表面をじっと見つめていた。

「……見捨てる事なんか……できないくらいに子どもだよ」
「今はな。だが、十年……いや、五年経てばあいつだって充分大人になる。その時に
まだあんたが今みたいに保護者面してんのは……いくらなんだって可哀想だろ」
「俺はそれを待つだけだ。そのときになってまだあの娘が今と同じ気持ちでいるのな
ら、それは子どもの恋愛ごっこなんかじゃない本物の−−思いのはずだ。その気持ち
に応えてやる事なら、俺にだってできるかもしれない。それまでは俺はあの娘の保護
者でいるつもりだ。……それでいいんだと思っている」
「十年経って、それでも応えてやれなかったとしたら?」
「俺が応えなかったとしても……そのときにはあの娘は、踏ん切りをつけるられるだ
けの大人になっている。俺のような中年男よりもっといい男を見つけられる女になっ
ているはずだ。都合のいい言い訳に聞こえるかも知れないが……それ以上のことは何
も約束してはやれないな−−おい、ほどほどにしておけよ」

 そう言って、マイヤーは中川の手からジョッキを取り上げた。
 すでにジョッキは底にわずかな泡が残っているだけである。

「素面じゃあ話せない事だってあるだろう?」
「……」
「一日でいい……香南を貸してくれないか」
「ラブシックの事を調べるために、か」
「まぐまぐバーガーでの調査はまるで進展していない。あの合い言葉を使って、薬を
受け渡しているのが誰なのかを突き止めたいんだ。香南ならすでにその連中と接触し
てい……」
「中川」

 マイヤーは拳でテーブルを叩いて強い口調で中川の言葉を遮った。
 その表情は険しいものだった。
 だが、中川はそれで退こうとはしなかった。

「香南をオトリに使えば、ラブシックのことが掴めるかも知れな……」

 堅く握った拳が中川の頬をとらえたのはその瞬間だった。
 スツールごと、背後に吹き飛ばされるようにして中川は床に叩きつけられた。
 店にいた客の全員が、驚いてマイヤーに視線を投げる。

「ち、ちょっと……マイヤーさん」

 カウンターから出てきたラムが、あわてて中川を助け起こす。
 そのラムの手を半ば無視して中川は立ち上がり、スツールの前に立ちすくんでいる
マイヤーの方を見つめた。口の中が切れているのが分かった。溢れてくる血の味が生
温く喉へ流れていく。

「……今の話しは、聞かなかった事にする」
「ありがたいね」

 ラムから受け取ったオシボリで口の端から流れ出す血を拭って、中川はマイヤーを
上目使いに見つめた。
 マイヤーがそんな駆け引きなど通用しない男だということは先刻承知だった。
 それでも、絶好の切り札である香南を無視できるほどに中川は善人ではなかった。
 しかしマイヤーの表情を見つめて、あきらめるより他にはないのだと中川は続く言
葉を飲み込んだ。
 中川の意識のどこかにも……まだ仕事のためにすべてを割り切ってしまえない甘さ
があった。

「俺が必要になったら……いつでも電話してくれ」

 それを捨て台詞とばかりにマイヤーは伝票を手にして身を翻した。

 マイヤーが中川を殴った一発が、派手な殴り合いの発端になるのではないか……と
見守っていたSNSの客たちは期待を裏切られたように各々の席に戻った。
 しかしその中でたったひとりだけ……ラムとウェイターの手を借りて手洗いに向か
う中川の背中を見つめて立ちすくんでいる少女がいた。

「確かにラブシックって言ってた……」

 ヤランはそうぽつりと漏らした。
 姉であるジーラに、ラブシックのことを調べるから協力してくれ、と言われたのは
三日くらい前だった。そのジーラの言葉に従って、他の姉たちはそれぞれに行動を開
始していたのだが、ヤランはどこからどう調べはじめていいか分からずぶらぶらして
いたのだ。


「社長ー、だから言ったでしょ。マイヤーさんは自制心は強い方だけど元来手が早い
って」

 ラムからの電話で中川を引き取りに来た広田は、控え室のソファでひっくり返って
いる中川を見降ろしてあきれたように言った。

「……実感したよ」

 忌々しそうに言って、中川は顔面を覆っていた氷嚢を外した。口を切っているせい
でその言葉はもごもごとした聞き取りにくいものだった。
 殴られた左目の回りが黒くアザになっている。

「本気でやられたら、死んでたかも知れねえ」
「何言ったんです、マイヤーさんに?」
「香南をオトリに使ってラブシックの事を調べたい」
「……もう二、三発殴られれば良かったのに……」
「正義の味方じゃいられないときだってあるさ。マイヤーが香南を守りたいと思うよ
うに、俺にだって守りたいものはあるんだ」
「それを今のマイヤーさんに分かれってのは酷な話しでしょう」
「分かってるよ、あいつは。だから一発で済んだんじゃねえか」

 広田の手を借りて身体を起こすと、中川は吐き捨てるようにそう言った。


「もう一杯飲んだっていいだろー」
「俺に引きずって帰れとでも言うんですか、勘弁してくださいよ。第一、口ん中切っ
てるんでしょ。さあっ、帰りますよ」

 そうせきたてられ、半ば広田に引きずられるようにして中川はSNSを出た。
 そして広田も中川も……アブシンベル縁島までふたりを尾行している少女がいる事
にはまるっきり気づいていなかった。

「ゼロワンSTAFFかあ。確か、スパイの募集してたっけなあ」

 階段から回り込んでゼロワンSTAFFのオフィスに入っていく中川と広田を見送
って、ヤランはそう呟いた。

「あたしも頑張らなくっちゃー」

 新たな活気が彼女の中に満ちていた事は……まだ誰も知らない(^^;)。

 

 


ACT3-9;恋の探偵見習い
「ボス、私何すればいいですか?」

 朝……九時四十五分。
 はっきり言って、夜木はまだ寝ていた。ソファに転がって毛布をかぶっていた夜木
が目をさましたのは、飛び込んできた玉乃宙美の甲高い声に叩き起こされたからであ
る。

「ボスはやめろって言っただろう…………」

 眠い目をこすって大あくびをし、髪を整えながら夜木は何とか起き上がった。
 宙美が探偵をやりたいと言って夜木に接触を計ったのは昨夜のことである。そうい
えばその時に、明日事務所にくれば仕事をやらないでもない……と言ったような気も
しないではない。

「はい、じゃあ……えーと、隊長!」
「それもパス」
「えーと、じゃあ……うーん……なんて呼べばいいですか?」
「社長とでも呼んでくれ」

 そう言って、夜木は昨日までの調査の記録にもう一度目を通した。

「……で、社長? 私……何すればいいんでしょう」
「そうだなあ……」

 夜木は書類を机の上に放って宙美の方を見た。
 何しろアルバイト代わりに探偵をやろうと言うのである。経験などあろうはずもな
い。

「とりあえずは祝詞の手伝いをしてくれ」

 そう言って、夜木は宙美にラブシックのことを簡単に説明してやった。
 夜木直樹もまた、ラブシックについての調査をジーラ・ナサティーンに要請されて
いる探偵の一人である。
 花村桜子の調査にかかりっきりになっていた夜木は、ジーラからの依頼を部下であ
る三輪祝詞に一任していたのだが、多少、風向きが変わってきている。
 ジーラからの「ラブシックはどうやらサクマドロップスの缶に入れられて取り引き
されているらしい」という情報だった。おそらくA子の事件現場に大量に転がってい
たあのドロップスの缶も……同じ用途に使われていたものだろう。

(花村桜子はラブシックの禁断症状による錯乱から、事件を引き起こしたのかも知れ
ない)

 夜木はそう疑惑を抱き始めていた。
 桜子の調査は−−彼女が殴り倒した相手が軍事学部の生徒で、篠田清志という名前
なのだという部分まで調べがついている。
 篠田清志は縁島のマンションに姉と二人暮らし。警察の事情聴取に答えた通り、桜
子とは特定の関係ではなかったようだった。

(もうちょっと篠田をつついてみるかな……)

「じゃあ、私、祝詞さん探してお手伝いしてきますー」

 宙美がそう言って出て行こうとしたのはその時だった。

「あー、宙美ちゃんちょっと待ってくれ」
「はい? なんですか、社長」
「やっぱ少しこっち手伝ってくれ」
「どんなことですか?」
「うーん、まあ色じかけっつーか……」
「へ?」

 宙美は夜木の言葉を聞いてかくっと首を傾げた。
 そしてその宙美を見つめて、夜木がわずかに笑ったように見える。


「あのさ、友達の中でクスリやってる娘なんている?」

 三輪祝詞の調査は……どこまでも地道に続いていた。
 洋上高校の女子高校生を見つけてはこまめに聞き込みを続けている。
 ……だが、

「あー、知ってるぅ。ねえねえお兄さん『週刊オリエント』の人でしょ?」
「あたしも聞いた。4組の澄ちゃんが取材されたって言ってたもん。ラブ……ラブシ
ックだっけ? ねえ、どんな薬か分かった?」
「好きな人に飲ませれば、片思いも上手くいくってホントなの?」

 祝詞がラブシックの名前を出すより早く、声をかけた三人組の洋上高校生の少女た
ちが一斉に口を開いた。

「あ……あのね(^^;)」

 それを知りたいのは、祝詞の方である。

(広川さんの取材は好調らしいけど……これじゃあ貧乏クジだよなあ……)

 結局少女たちから聞き出す事ができたのは、広川が取材したらしい生徒たちの名前
ばかりだった。

(このままじゃガセネタを掴む可能性が増えるばっかりだ)

 ジーラの機動力によって、一度に大勢の人間が動き出した事のツケは……こういう
場所に出たのである。


「ねえ、あなた篠田くん……篠田清志くんでしょ? 私、軍事学部の鈴木くんから聞
いてたの。一度会ってお話したいって思ってたのよ(^_^)」

 宙美は背後から清志の肩を掴んで、そう声をかけた。

「…………この中で?」

 振り返って、きょんはまじまじと宙美を見つめた。
 接触の方法は多分間違ってはいなかったのだろう。
 ……だが、いかんせん場所が悪かった。夜木がきょんを見つけたのはSNSのジム、
そしてトレーニングを終えたきょんに追いすがって宙美が声をかけたのはシャワールー
ム(もちろん紳士用)の前だったのだ。

「そういう直接的なアプローチって、俺、結構好きよ」
「…………(^^;)」

 そう言ってきょんは宙美の腕を掴み、シャワールームのドアを開けた。

「あ、あのね……そうじゃなくて……」

 慌てる宙美をシャワールームに連れ込もうとする。
 そのきょんの襟首を後ろからがしっと掴む腕があった。

「おんしゃ、大トロで殴られてもちっとも懲りとらんようじゃの」

 低い広島弁がつい口から出た。
 きょんの襟首を掴んでいたのは……夜木直樹だったのだ。

「俺……そっちの趣味はないんだけど……」
「宙美ちゃん、ご苦労さん。あとは祝詞の方手伝ってやって。俺はこいつと楽しい話
があるから」
「はーい、社長!」

 そう言ってきょんの脇の下をくぐり抜けると宙美はシャワールームから飛び出した。

「じゃあね(^_^)」

 きょんにそう手を振って宙美は出口の方へ走って行った。

「ヤバイ話じゃない。きみの頭をかち割ろうとした桜子ちゃんのことをちいっと聞か
せて欲しいだけだ。軍事学部じゃ武勇伝を大喜びで話してるって言うじゃないか。俺
にも聞かせてくれたって罰はあたらんじゃろ?」
「桜子ちゃんのって、あんたもスパイ?」
「俺は探偵だ。さあ、中で話すか、それともラウンジへ行くか?」
「ラウンジが……いいな。俺、身持ちは堅い方なんだ(^^;)」

 貴様には何より用心深さが欠けている……と怒鳴ったのは、確か助教授のマイヤー
だっただろう。そして、女と見れば尻尾を振ってついていくその性格をなんとかしろ
と講師のチャン・リン・シャンにも小言を食らった事がある。
 ……確かに彼らの言う事に間違いはない。

(当分、女には用心する事にしよう)

 そして恨めしそうな目を……夜木の方へ向けた。

(それと……男にも、だな)

 人間不信になりそうな予感が、ちょっとだけしたような気がする。


「サクマドロップスの缶なら、確かに見たよ」

 注文したコーラを飲みながら……きょんは不機嫌そうに言った。

「……茶箪笥からさ、どどど−−−って雪崩みたいに落ちてきてさ。あん時は、死ぬ
かと思って……」
「茶箪笥じゃなくてダイニングボードだろ」
「うるせえなあ、俺、横文字弱いんだよっ」
「そのサクマドロップスの缶に……何が入っていたかは分からないか?」
「…………」

 夜木の顔を見つめて、きょんは言葉を失った。

「あんたさ、がちがちに凍ったマグロの塊で頭ぶん殴られた事あるか?」
「いや……好運にも」
「なくたって、状況の想像くらいはできるだろ? どこの馬鹿が頭割られそうになっ
てぶっ倒れる時に……泣きっ面に蜂って具合にどこどこ降ってくる缶を開けてドロッ
プスなんか食うってんだよ」

 そう言って、きょんはコーラのグラスを口へ運んだ。

「ニュースくらい見ろよ」

 夜木は、そうため息をもらした。
 あれだけTVで回収騒ぎを大々的に報じているのだ。サクマドロップスの缶と聞い
てピンと来たって良さそうなものである。

(やっぱり……直接当たって確認した方がいいな。花村桜子は……確か警察病院に収
容されているはずだ……)

「俺なんかなあ、殴られた傷が禿になったんだぞ。分かるか? 19の身空で禿だぞ」

 コーラを煽りながら……ほとんど酔っぱらいの愚痴とばかりにわめいているきょん
の話しをこれ以上聞いたところで、多分得られる情報など何もないだろう。夜木直樹
はそう感じていた。

 

 


ACT3-10;恋の秘密
(中川は……焦っている)

 調査を開始して半月余り……、遅々として成果の上がらない仕事に苛立つ中川の気
持ちは、マイヤーにも分かっていた。
 しかし、だからと言って中川の申し出を受け入れるつもりはない。
 禁断症状に苦しむ香南を警察から隠したのはそのためだったのだ。せっかくここま
で快復した香南を再び薬をめぐる騒動の渦中に戻したくはなかった。

「ラブシック……初めて耳にする名前だわ」

 マイヤーが19号埋め立て地の『白薔薇』で密会したのは……とある大企業の幹部
である女だった。
 香南の持っていた薬は、糖衣された錠剤だった。恐らくは薬品を扱う企業が、その
バックにいるはずだ−−その確信は、マイヤーの中で今も消えてはいない。金目当て
のヤクザなら、そんな面倒な真似をするはずはない。
 だが、企業を相手に探りを入れるのは……マイヤーにとっても得手な分野ではない。
 なけなしのコネを叩いてようやく会う事のできたのが、この女だったのだ。

「では、貴官の会社は無関係なんだな?」
「−−ええ」

 短いが、きっぱりとした発音だった。

「そう……確かに断言できるんだな?」

 もう一度、念を押すようにマイヤーは言った。
 女は全身を喪服のような黒いツーピースに包み、小さな帽子から下がるベールの中
にその表情を隠している。強い香水が、テーブルを挟んで座るマイヤーの鼻をくすぐ
った。

「うちの社が絡んでいるのなら……すぐに足のつくような方法はとらなくてよ」

 そう言った女の表情は……その黒いベールの向こうで笑っているようにも見えた。
 妙な言い回しだが、それも確かだった。
 大企業には大企業なりの裏のコネクションが存在する。いくら末端とは言え、女子
高校生が稚拙な手段を講じて薬物の受け渡しをするような真似をするはずはなかった。

「あまり一人で深入りしない方が良いわ。……これは知人としての忠告よ。そしてあ
なたの可愛い恋人のお嬢さんをいたわってあげて……」

 女はそう言ってゆっくりと腰を上げた。
 その言葉は大企業の幹部として多くの社員の頂点に立つ女のそれではなく、ごく平
凡な……愛情に満ちた女の口調だった。

(誰が……何の目的で薬を流しているんだ……)

 マイヤーは一人店の奥のボックスに残り、女の残して行った黒水仙の香りを振り払
うように冷めたコーヒーのカップを口へ運んだ。


 企業が臭いと目星をつけたのは、マイヤーだけではなかった。
 ゼロワンSTAFFの沫雷もまた……アクセサリーを売り込むという名目で群島の
主だった大手企業にもぐり込み、社内の様子を探っていた。
 だが、マイヤー同様これと言った手がかりは得られないままだった。
 まぐまぐバーガーでの調査の傍ら、広田もMILでのコネクションを使ってさまざ
まな研究所を当たっているのだが、こちらも獲物はないままである。
 そしてまぐまぐバーガーでの調査は…………、

「店長はんの膝、座り心地がええがじゃ(^_^)」

 ……と言っては毎度のように稟の膝に座ってくすねたハンバーガーをかっくらって
いる約一名の撃退に追われている。

「あ、あの……あんまりいじめないでね……」

 六甲をつまみ上げてロッカーに吊るしに行く広田を見つめて、稟がついそうもらす
光景も、このまぐまぐバーガーではすでに見慣れたものとなりつつあった。
 そして、六甲撃退ではすでにまぐまぐバーガーにおける第一人者となりつつある広
田も……まだ何の手がかりも得てはいなかった。
 真奈美もしかり。
 衿霞もしかり。
 清掃員として深夜のまぐまぐバーガーに潜入している巽進一朗もまたしかりだった。
 唯もしかり……。
 いや、唯は本当は手がかりをすでに得ていたのである。
 仕事を終えて帰ろうとするアルバイトのひとり・橋本陽子が、店でサクマドロップ
スの缶を落としたのを、唯は目撃していたのである。
 だがそれは業務メモには書いていなかった。
 中川やアーマスにはもちろん、稟にも他の仲間たちにも一言も話していない。

(どうせなら、現物を押さえてからの方がいいわ)

 ……と、唯は思ったのだ。
 どうせアルバイトとして店に出入りしているのだから、陽子と接触する機会はすぐ
にある。
 何とか親しくなって流通ルートの話まで聞き出せればすごいラッキーっ!! とい
う考えが唯の頭の中をかけ巡っていたのだ。
 それに加えて……ラブシックという薬に、ちょっとだけ興味があったせいもある。

(飲んでみたら、どんな感じなんだろう?)

 そう考え始めると、なんだかちょっとわくわくしてくる。
 大人しく報告をしてしまうのは、もったいないような気がするのだ。

(見つけたら一粒嘗めてみよう(^_^)、残りは社長のところに持って行けばいいわ)

 軽い気持ちでそんなことを考えていたのだ。
 ……が、この二、三日、さすがに唯も不安になり始めていた。
 唯と陽子のシフトのズレである。
 週に二日くらいしか働かないアルバイトも、まぐまぐバーガーには多い。特に高校
生は人数も多いし、就業時間にも制限があるため時間数が極端に少ないのである。そ
れでも中には連日のように働いている高校生もいるのだが、陽子はあまり熱心なアル
バイトというわけではない。

(ちょっと……やばいかなぁ)

 さすがに唯もそう感じはじめていた。自分の些細ないたずら心が、事件解決を長引
かせる結果となったのでは一大事である。
 とは言え、今更白状するのもバツが悪い。

(とりあえず、陽子ちゃんを探してみよう)

 唯はまぐまぐバーガーでの仕事を終えた後、稟から聞き出した陽子の住所を訪ねよ
うと地下鉄に向かった。

 

 


ACT3-11;恋の噂の中で……
 洋上高校の内部は、今やラブシックの噂で持ちきりだった。

「木の葉を隠すなら森−−って、こういう事なんですよね」

 三日月にそう愚痴をこぼしたのは闇沢だった。
 ラブシックが洋上高校の内部で流行を始めている、とは言っても、実際に関わって
いる生徒はごく一部であった筈だ。ほとんどの生徒は、その名前さえ知らなかったは
ずなのである。
 それが、一連の調査によって女子高校生たちの話題はラブシック一色に塗り変えら
れてしまった。
 そういう噂には……いつだって尾ヒレがつくものだ。
 誰が知っているらしい。
 どこで売っていると言う話だ。
 薬を手に入れるために売春をしている生徒がいる。
 そういう情報を手に入れたのは、闇沢だけではない。ジーラたちも、広川も、箕守
も噂に翻弄され、真実を見失いつつあった。
 そして本当に「真実」を知っている者は、その噂の中に身を潜めてじっと沈黙を守
っているのだ。

 だがそんな中で彼らは、まったく別の場所から−−あるひとつの共通点を見つけ出
していた。
 闇沢がかつて耳にしたクラスメイトの少女の『ラブシックが欲しいなら、桜子のと
ころに……』という話。
 そして箕守は「ウィンズテイル」に来る洋上高校生の少女から、

「ラブシックって名前だったかなあ? よく覚えてないけど……桜子ちゃんが片思い
で悩んでいるんならおまじないの薬上げるって、ピンク色の錠剤の入ったドロップス
の缶をくれた事があったわ。……何度か飲んでみたけど、全然効かないし、危ない薬
だったら嫌だなって思って缶ごと返しちゃった。週刊誌の記者の人が取材とかに来た
でしょう? 桜子ちゃんが警察に捕まったって噂もあったし、みんなしらんぷりして
るんだと思うな。だってやっぱり警察なんて、コワイし……」

 という話を聞き出していた。
 さらに夜木が掴んだ女子高校生A子−−つまり花村桜子の事件とラブシックの関係
の三つである。
 そのすべてが……桜子というひとりの少女につながっている。
 校内にはすでに花村桜子が新学期を待たずに退学した裏には、警察沙汰となった事
件があるのだという噂も流れ始めていた。
 桜子まで追うと、いつも情報はぷっつりと途切れてしまう。
 紹介者はいつも桜子であり、ラブシックが実際に取り引きされているのは学校の外
であるらしかった。
 花村桜子が……すべての鍵を握っているのである。
 そして彼女が警察の手にある現在−−糸は半ば断ち切られたも同然だった。


「陽子ちゃん、最近元気ないね」
「先輩のところに遊びに行ってみればいいのに。学校辞めても、先輩まだ引っ越しし
ちゃったわけじゃないんでしょう?」

 地下鉄の駅までの道を歩きながら、クラスメイトのふたりがそう励ますように橋本
陽子に声をかけた。

「先輩とデートしたんでしょう?」
「え?」

 陽子は、驚いたようにそう言って友人の顔を見上げた。

「だって、この間そう言ってたじゃない」
「う……うん。でも……先輩、他につき合ってる人、いるし……」

 その口調は戸惑うようにおぼつかないものだった。先輩と、デートした……それが
ただの、楽しかった夢の記憶でしかないような不安な気持ちが心の中にどす黒い染み
のように広がってくる。

「あたし、忘れ物しちゃった。宿題のノート……。取ってくるから、先に帰って」

 改札口のところまできたとき、陽子は急に立ち止まった。

「待ってようっか?」
「ううん、いいの。あたし、今日は先輩のところに行ってみる」

 そう言いながら、陽子はぎこちない笑いを浮かべた。
 身を翻して階段を昇ろうとしたとき、その背後で、

「ねえ、陽子ちゃんが先輩とデートしたって、嘘じゃないの?」

 クラスメイトがそう言っているのが、雑踏に紛れて陽子の耳に飛び込んできた。

(嘘じゃ……ないのに)
(あたし、ホントに先輩とデートしたわ)

 そう、自分自身に言い聞かせるように陽子は口の中で呟いてみた。
 だが漠然とした不安が、陽子の記憶を次第に曖昧なものにしていく。
 全身を冷や汗が流れている。
 鳥肌の立つような不快感。
 耳の奥でガラスを引っかくような音がこだましている。

(気持ち悪い……)

 学校に向かう足を、陽子は早めた。
 桜子が警察に捕まったのだという噂が、ふと意識に蘇った。週刊誌の記者だか、探
偵だかがラブシックの事を調べているのだという話もすでに聞いている。
 なぜあのおまじないの薬を、そうした者たちが追っているのかは陽子は知らなかっ
た。ただ、見つかったらきっと罰せられるのだという本能的な恐怖を感じているだけ
だった。

(あの薬を飲めば……こんな不安はなくなっちゃうわ)
(そしてまた、笑顔を浮かべて先輩に会いに行ける)
 ^^^^^^

(あの娘は……)

 地下鉄の駅から出て、下校する生徒たちの流れに逆らうように学校へ戻っていく陽
子の姿を見つけて三日月は足を止めた。

『必勝法があればなあ……。やっぱりラブシックの方がいいや』

 SNSにやってきて、三日月に占いを頼み……そう呟きをもらしたあの少女に間違
いなかった。

(何か手がかりを得られるかも知れない)

 その思いから、三日月は少女を追った。

「ねえ、君……」
「……え?」
「以前、SNSに占いをしに来ただろう? 覚えてないかな。その時に……」

(捕まる……!)

 見知らぬ男に呼び止められた瞬間、その不安がどっと沸き上がってきた。
 三日月の手を振り払うようにして陽子は身を翻し、ぱっと駆け出してしまった。

(みんなが、あたしと先輩の邪魔をしようとしている)
(あたしを捕まえて……あたしと先輩の邪魔をしようとしてるんだ)

「待ってくれ!」

 三日月はそう叫んで少女を追った。
 学校へ走り込んで行った彼女を追うようにして校内へ入っていく。
 そしてその光景を……もうひとり、目撃している者がいた。

(陽子ちゃん……)

 唯だった。
 何とか陽子に接触し、ラブシックの情報を得ようと洋上高校を訪れていたのだ。


 教室にはもう残っている生徒はひとりもいなかった。
 荒い息を押さえて陽子はロッカーを開ける。そこにはドロップスの缶が入れてあっ
た。
 缶の蓋を開けながら、周囲を見回す。
 追ってきた男は、校舎に入った時に陽子を見失ったらしい。教室の外にもその姿は
なかった。
 陽子は缶を開けた。手のひらに転がり出るドロップス。その中にピンク色の糖衣に
包まれた錠剤が紛れている。

「どうしたんだ、具合でも悪いんじゃないのか?」

 不意にそう声をかけられて、陽子はびくりと身を堅くした。
 手に持っていた缶が床に落ち、中のドロップスと錠剤とが、ばらばらと床に転がり
出る。
 陽子の前に立っていたのは、数学教師の三枝だった。

「先生……」

 立ちすくんで……青ざめた表情のまま、陽子は三枝を見つめた。
 三枝は、ラブシックの事など知らなかった。校内で麻薬の噂が取りざたされている
のだと聞いてはいたが、クラスメイトとも滅多に口をきかないような大人しい生徒で
ある橋本陽子がそんなものに関わっているなどとは思うわけがない。
 ただ陽子が具合を悪くしているのでは……と勘違いしただけなのだ。
 しかし陽子にはそうは感じられなかった。

(先輩は、もうあたしのことなんか嫌いになったんだ)

 最初に浮かんだのはその事だった。
 目の前にいるのが三枝なのだとは陽子は思ってはいなかった。そこに立っているの
は彼女がずっと憧れていた−−憧れているだけで声をかけることも、手紙を書くこと
もできなずにいるうちに学校を辞めてしまった、演劇部の先輩なのだ。

「あたし、嘘なんかつかなかったよね、先輩」

 呟くように陽子は言った。見開いた瞳から、ぼろぼろと涙が溢れる。
 開けっぱなしになったロッカーの中に工作用のナイフが入っているのが目に入った。
 そしてその瞬間−−自分でもまったく意識しないうちに、陽子はそのナイフを握り
しめていた。
 三日月が、唯が階段を駆け上がって教室の前にたどり着いたのはその時だった。

「先輩まで、嘘だなんて言わないで」
「橋本っ!」

 三枝の鋭い言葉が発せられた。
 だが、その声も……陽子にはまったく聞こえてはいないようだった。

「あたしのこと、嘘付きだなんて言わないで!」

 ナイフを握りしめたまま、倒れ込むように陽子が三枝に身体をぶつけてきたのはそ
の時だった。

 

 


ACT3-12;恋と殺意と
「橋本……なぜ……」

 三枝は激痛のこみ上げてくるわき腹を押さえて床に膝をついた。
 身体に力が入らなかった。陽子の手から、ナイフを取り上げなければならない……
傷は決して深くはないはずだ……そう自分に言い聞かせて立ち上がろうとする。だが、
血塗れになった手にナイフを掴んだまま立ちすくむ陽子の方に、そのたった一歩を踏
み出す事ができなかった。

「陽子ちゃんっ!」

 先にそう声を発し、教室に飛び込んできたのは唯の方だった。
 三日月は床に落ちたサクマドロップスの缶と、散乱するドロップスに紛れて散らば
っているピンク色の錠剤を見つめて、言葉を失っていた。

(禁断症状……)

 衝動的に殺人未遂を犯した花村桜子の事件のことがまっさきに頭に浮かんだ。そし
て同じ日に報道された女子中学生の謎の自殺が……同じようにラブシックの禁断症状
によるものなのだと、三日月は直感的に悟った。

 陽子はナイフを取り落とし、床に落ちたサクマドロップスの缶を拾った。大半は床
にばらまかれてしまっていたが、缶の中にはまだ半分くらいのドロップスが残ってい
る。その缶を握りしめると、陽子は教室を走り出て行ってしまった。

「救急車を呼んで下さい! 私は彼女を追いますから……」
「待てよ、それなら俺が……」
「私、彼女とは友達なんです」

 そう叫んで唯は陽子のあとを追いかけた。


(救急車……?)

 恋人である三枝に生徒たちの様子を聞くために洋上高校を訪れたスジャータは、昇
降口の前に止まっている救急車の赤いサイレンを見つめてふと立ち止まった。
 嫌な予感がした。

「スジャータさん!」

 そう呼び止められたのは、小走りに救急車に駆け寄った時だった。

「三日月くん」

 なぜここに三日月がいるのか、それは分からなかった。だが、彼のその表情を見た
ときにスジャータは自分の予感が的中したのだと悟った。

「三枝さんが刺されたんです」

 その三日月の言葉は、スジャータにとって足元をすくわれるような衝撃だった。


「間違いなく……SNSに来た娘だったんだね?」

 ジーラはソファに座ってうなだれている三日月にそう声をかけた。

「間違いありませんよ。橋本陽子って名前だそうです」
「それにしても……まずいところに声をかけて……まあ、今更言ったってしかたない
ことか……」

 三日月を責めるつもりは、ジーラにはなかった。
 間が悪かった。−−他にどう言うこともできない状況だったのだ。
 しかし……三日月は胃の底に苦くこびりつく思いをふっきることができなかった。
あのとき、声をかける前に彼女が禁断症状に陥っているのだと気づけばあるいは……。
 そんな考えが、自分自身を責めている。

「俺……ふと気づいたんですけど」
「気づいたって、何に?」
「あの花村桜子って女子高校生の事件と同じ日に報道された自殺……。女子中学生の、
動機も良く分からなかった自殺騒ぎがあったでしょう? あれも、ラブシックのせい
じゃないか、って。陽子って娘が先生を刺したのを見たとき、何となくそう感じたん
ですよ。やっぱり……警察に任せた方がいいと思うんです」

 そう言って立ち上がり、三日月は教室で見つけたラブシックを一粒、ジーラに渡し
た。

「……ここまでジーラさんたちを巻き込んだのは僕だし、一応預けます」

 それだけを言って、三日月はナサティーン家を出て行った。


「……で、見失ったって訳か」
「すみません……」

 中川はヴィジホンのモニターに映る唯の顔を見つめて、小さくため息をついた。
 ずっと走り回って陽子を探していたらしい。唯の息はまだ荒かった。汗で化粧が落
ち髪が乱れているのにも気づいていないようだった。

「とりあえず戻ってこい。戻って、ことの次第を全部業務メモに書いて提出しろ」
「でも……私、陽子ちゃんを探して……」
「そんなことは警察に任せればいい。とにかく戻ってこい」

 叱るような口調でそう言って、中川はヴィジホンを切った。

(食らいつけばまだ金にはなる相手なんだけどなあ……)

 忌々しくそう口の中で呟く。
 営利目的の正義の味方にとっては、犯罪はむしろお得意さまであり、真の敵は警察
なのだ。
 警察が介入してくれば、手を引かざるを得ない。
 例え……ただ働きに終わったとしても、だ。

(手っとり早く証拠をつかんで金をせしめないと……ヤバイな)

 社員の前では、どれほど追い詰められても口にはできない思いが、中川の中にはあ
った。
 一気に増えたスパイ要員を養うためには……前金として受け取った契約金を巻き上
げられないための口実が必要なのだ。

「……これ以上、警察沙汰を起こさないでくれよ、中毒患者のみなさん」

 宗教には縁のない性格だが、天にも祈りたい気分だった。