ACT3-13;恋を追わずば……
 ASの会議室では……極秘の会議が行われていた。

「状況はどうだ」

 部下たちの顔を見回して田無がそう声を潜めた。

「芳しくありません……」
「お前ら、ずっとその調子だな。真面目にやってんのか」

 ここ数日の返事は、いつも判で押したようにその一語に尽きた。
 そしてその彼らの返事を聞く田無の表情は、次第に剣呑になってきている。まあ、
競馬、競艇、競輪と負け続けた後に、パチンコで勝負をかけて無惨に敗れ、挙げ句に
麻雀でカモられては、晴れやかな顔などできるわけもないのだが……。

「どう真面目に頑張ったって、俺たちのコネクションじゃ限界ありますよ」

 ほとんど、泣き言としか言えない反論が返された。

「そのへんの中坊だの女子高校生だのがやってるクスリだろ、マスコミの人間として
恥ずかしくないのか」
「そんなこと言ったって、きっぱりとハタケ違いなんですから……」

 田無はASではそれなりに視聴率を稼いでいるプロデューサーである。
 だが、その専門はドラマとスポーツ番組なのである。南洋で遊び惚けているらしい
某プロデューサーを出し抜こうと、手っとり早く視聴率の稼げそうな番組のネタとし
てラブシックを選んだは良かったが、その手ごたえの方はからっきしなのだ。

「どう考えたって、今回は出遅れましたよ。なにしろ巷じゃ噂に尾鰭がつきまくって、
がせネタが飛び交ってるんですから……。下手にそんなネタをつかんだら、末代まで
の大爆笑ですよ」
「……語り草だろっ!」

 憮然とした表情でそう言って、田無はさっき半分くらいまで吸って灰皿に捨てたタ
バコを拾い上げ、もう一度くわえて火をつけた。

「とにかく急いでネタを集めて形にしないとな。モノがモノだけに長引くと横やりが
入るからな。たとえば…………」
「田無ちゃ−−んっ!」

 会議室の扉が乱暴に開け放たれたのはまさにその瞬間だった。

「まあ……このドア、活きがいいわね」
「…………おばばみたいな…………」
「もう、嗅ぎつけられてますよ、田無さん」

 実録事件簿企画室のおばば……こと元作家(と、職を得た現在も名乗っている)上
原尚子の姿がそこにはあった。

「ラブシックの企画をなさるんですって? つきましてはね、私、ちょっとしたネタ
を仕入れてきましたのよ。女子高校生にクスリを流しているのはアメリカの陰謀で、
CIAのスパイが女装して洋上高校に潜入してるって言うんです。なんでもアメリカ
は霊界からの助言を受けてクスリの開発を始めたとかで…………」

 がせネタをつかまされたら末代までの大爆笑−−確かにそうなのかも知れない。
 田無は目の前にいる「がせネタをつかまされた」大馬鹿野郎を見つめて言葉を失っ
ていた。

「ね、ね、すごいでしょー? 私の情報もちょっとしたものだとそろそろ認めてくれ
てもいいんじゃないかしら。この企画、実録事件簿企画室との合同ってことにしませ
ん? 私、この間目玉焼きを焦がしちゃったから、新しいフライパンが欲しいのよね、
シルバーストーンでね、色はピンクで……」
「ピンクでシルバーストーンでひよこさんマーク入りのフライパン買ってやるから放
っておいてくれ(T_T)」

 実録事件簿企画室のスタッフが全員耳栓持参で仕事をしている……という噂は、た
ぶん真実だったのだろうと田無は心底感じていた。
 何となくこの企画がお流れになってしまうだろうという、ほとんど確信と言っても
差し支えはなさそうな予感を、その場に居合わせたすべてのスタッフが(注/おばば
を除く)抱いていた。


 噂は噂を呼ぶものである。
 ASの田無たちがラブシックに目をつけた頃には、ラブシックの流通ルートを暴い
て一旗上げようとする連中が群島中に溢れ返っていた。

「まぐまぐバーガーが怪しい」

 そう言い始めたのが誰だったのか、もうみんなが忘れていた。
 どう怪しいのかさえ知らない奴も……大勢いた。
 まぐまぐバーガーを張っていれば、ラブシックが手に入る。あるいはラブシックの
ネタが手に入る……という噂が広まっていたのである。
 そしてその噂を−−当事者である高梨稟は知らなかった。

「…………」

 行列が外まで続くほど混雑している店内を見渡して、稟は発する言葉を見つけるこ
とができなかった。
 わざとらしく広げた新聞の影から店内を観察する、目、目、目……。
 そしてそうした探偵たちと相席を余儀なくされた好奇心いっぱいの女子高校生や女
子中学生が、

「恋のおまじないのクスリを、ちょっとだけ見てみたい」

 という野次馬根性で長居している。
 ……こんな繁盛ぶりは、たぶん店始まって以来だろう。

(この人たちもみんな……ゼロワンSTAFFのスパイの方かしら……)


「あんたはん……探偵さんでっしゃろ?」

 裏口からこっそり忍び込もうとした羽山巧に、ごみを捨てに行っていた衿霞がそう
声をかけた。

「……見習いですけど(^^;)」

 正直が、いつも美徳とは限らない。
 そんなものは探偵にとっては邪魔なだけである。……例えそれが、見習いでもだ。
 だがここでにっこり笑ってシラを切り通せるほど、羽山は場数を踏んではいなかっ
た。まだ探偵見習いのかたわら高校生をやっているような駆け出しなのだ。

「見逃して欲しいやろ?」

 衿霞はそう言って、にっこりと笑いを浮かべた。

「そうですね」
「だったら、うちに情報売らへん? ラブシックのこと、あんたはんどの程度知っと
るん?」
「……知ってるもなにも……これから忍び込むところだったんですから……」
「はあ?」
「ラブシックのこと探らなきゃ、探偵じゃねえって友達に言われて」

 どこまでも……正直な奴である。
 群島に300人の探偵がいる、という噂に「しかし食えている奴は五人くらいしか
いない」とオマケがついているのは……つまり、こういうことなのだ。

 

 

 


ACT3-14;イチゴ味の、恋をする
 夜木直樹は、群島の中では珍しく「食えている」探偵の一人である。食えているだ
けで事務所の家賃にまでは手が回らず、半年余りも滞納している……というのが現状
ではあるのだが……。
 深夜−−群島を離れ、飯田橋の警察病院の前に夜木は車を止めた。

「ホントに忍び込むつもりなの?」

 ナビシートの榊原良子が、夜木にそう声をかけた。
 良子は夜木の探偵事務所が入っているビルのオーナーだった。今噂のラブシックの
ことを調べていると知って、純粋に好奇心だけでここまでついてきたのである。
 ……よくよく、物好きな性格である。

「ついてくるなよ」

 という夜木の言葉は、

「だって、家賃六ヶ月分……」

 という反撃に、いともあっさりと白旗を上げてしまった。

「本気で……忍び込むつもり? 相手は警察よ」
「本気だよ。本気じゃなくてこんな格好できるか……」

 忌々しく夜木は言った。
 そう……彼は病院に忍び込むために「看護婦さん」に変装していたのである。より
詳しく状況を述べるなら……女装しているのだ。
 SNSで隣に居合わせた人材派遣会社の社長に、

「よっ! 白薔薇のホステス」

 ……と声をかけられることも、最近はなんとか減ってきた。
 その矢先に、再び悪夢が再来するとは……彼も考えていなかった事態である。
 それもこれも、榊原良子の熱心な協力なしには有り得なかったことだ。

「……夜木ちゃんって、ほんっと女装似合うね」

 良子はそう罪の意識などまるでなさそうに笑った。
 確かに良子の協力を得て、夜木の女装は前回のホステスも今回の看護婦さんも……
大成功である。
 化粧はあくまでも自然に、だがそこはかとない女らしさを感じさせる仕上がり。
 実務的に動きまわることを前提としてぴっちりと結い上げた髪。
 だがその女装を手伝いながら良子がぽつりと、

「派手にできなくって残念だわ」

 と呟いたことだけは、たぶん一生忘れないだろう。


「…………」

 警察病院の資料から、桜子の病室は割り出してあった。
 幸いなことに誰にも発見されることなく、夜木はその病室にまでたどりつくことが
できた。
 だが、その病室に収容されている桜子を一目見た瞬間、言葉を失った。
 彼女に会うことが、舞い込んできたふたつの依頼を解決するための糸口なのだと夜
木は考えていた。
 しかし……。
 拘束服に包まれた桜子の姿を見れば……彼女から事情を聞くことなど不可能なのだ
とすぐに分かる。

「ラブシックは……ジーラの言う通り、かなりヤバい薬らしいな……」

 人の気配に気づいたように、桜子が目を開けた。
 そしてその途端−−静まり返った深夜の病院に響き渡るすさまじい悲鳴が彼女の口
から発せられた。

(……!)

 彼女から話を聞くことはあきらめて、夜木はきびすを返した。
桜子の悲鳴を聞きつけて病棟の職員がどっと集まってきたのである。

「そこで何をしているっ!」
「お前……ここの職員じゃないな」

 夜木を追うように怒号が飛んだ。
 その声から逃れるように、必死に走る。
 ローヒールのパンプスが脱げ、ストッキングが踵から太股までビッと音を立てて伝
染する。
 だが、そんなことに構ってはいられなかった。
 こんな姿で捕まっては……お先真っ暗である。

「とんだシンデレラもあったもんだ……」

 何とか逃げ出し、病院の裏手に止めてあった車に飛び込むと、夜木はアクセルを思
いきり踏んで助手席の良子にそう愚痴をもらした。

「ネタは、手に入った?」

 追い打ちをかけるつもりは……良子にはなかった。
 だがそれでも、夜木にとっては致命傷スレスレの衝撃である(^^;)。


 翌日−−。
 良子は経営するランジェリーショップの店内にボンヤリと座っていた。
 昨夜、夜木の仕事につきあって飯田橋までついて行ったせいで絶え間なく眠気が襲
ってくる。

(野次馬根性も……考えものだな)

 小さくあくびをもらして良子は口の中で呟いた。
 女装した夜木をはやし立てて、一緒に写真を撮ったところまでで……やはり我慢し
ておくべきだったのだ。
 わざわざ飯田橋までついていって知ったのは、

『探偵の仕事って、結構地味なもんね』

 ……というだけの感想である。
 女装姿のまま深夜の病院を掛けずり回った夜木にとっては、充分派手な仕事ではあ
ったのだが、そんなことは野次馬の知ったことではない。

「良子おねーちゃん、どうしたの?」

 そう声をかけたのは、店の仕事を手伝っているハーツェリンデだった。
 まだ中学生のため正式のアルバイトではなく、店を手伝った代わりに「お小遣いを
あげる」という程度のものだったが、それでもちょっとお姉さん気分を味わって、ハ
ーツェリンデは楽しくてしかたないらしい。

「うん……ちょっとね」

 さすがに、

「ね゛む゛い゛」

 とは答えられずに良子はそう言って笑顔を作った。

「なんか悩みがあるんでしょう?」
「え、悩み?」
「そういうカンジがしたんだけど……違う?」
「う、うん……そうね。ちょっと悩みも……」

 別にないが、眠いよりはすこしは格好がつく。
 そう思って良子は再び笑顔を作る。

「うさぎにも分かるわ。ね、恋の悩みでしょ?」
「え、こ……恋?」
「恋に悩んでいるときによく効くおまじないの薬を持っているの! 見て見て」

 罪のない満面の笑みを浮かべてハーツェリンデはバッグの中からサクマドロップス
の缶を出し、良子の前に置いた。

「うさぎちゃん、これ……どこで……」

 良子はその缶を見て思わず声を上げた。
 ラブシックに関する事件のことはすでに夜木から聞き出している。いや、そうでな
くたって群島中がこれだけの騒ぎになっているのに気づかないわけはない。

「ラブシック……」
「良子おねーちゃん、知ってるの?」
「え、ええ」
「飲んだことある?」
「飲んだことは……ないけど。ねえ、うさぎちゃん……これどこで手に入れたの?」
「どこでって、お店でよ」
「まさか……まぐまぐバーガー?」
「まぐまぐバーガー?」

 きょとん、とした顔でハーツェリンデは良子を見上げた。

「あの……ハンバーガー屋さんの?」
「違うの?」

 あるいは、まぐまぐバーガー以外にも流通のポイントがあるのかも知れない。そう
考えて良子の表情が真剣になった。

「お店って、にこにこマートだよ?」
「にこにこマートで……売ってるの?」
「うん」
「……ホントに?」
「そうよ。うさぎね、高校生のおねーさんたちが話してるのを聞いたの。このドロッ
プスね、恋のおまじないの薬なんだって。飲んだら恋が叶うよって言ってたわ」

 ハーツェリンデは嬉しそうに言って缶を開け、オレンジ味のドロップスを一粒、口
の中に放り込んだ。

「良子おねーちゃんも、食べる?」

 そう言って差し出された缶を良子は受け取り、中のドロップスを全部てのひらに出
してみた。

「…………(^^;)」

 中に入っていたのは、ドロップスだけだった。

「どっちかって言うと、オレンジよりイチゴの方が恋の味ってカンジよね」

 つまりハーツェリンデは……恋のおまじないと言って女子高校生がやり取りしてい
る「薬」に、大きな勘違いを抱いていただけなのである。(^^;)

 

 


ACT3-15;恋のジンクス
「助教授、ちょっといいですか」

 座学の講義を終えて助教授室に戻ろうとしたマイヤーに、そう声をかけた者がいた。
 振り返ると、軍事学部の学生のひとり−−久慈龍一郎が立っている。

「おう、久慈……質問か?」

 そう答えて、ふと時計に目をやる。

「お急ぎですか?」
「いや……まだ大丈夫だ。−−で?」
「助教授に、協力をしたいんです」
「協力?」

 マイヤーは眉を寄せた。
 久慈が何を言っているのか、とっさには判断がつかなかったのだ。だがすぐに彼が
ラブシックの事を言っているのだと気付く。

「貴様も探偵の仲間入りか?」
「そんな積もりはありません。−−ただ、助教授がやっていることに協力をしたいだ
けです」

 マイヤーは小さくため息をついた。
 群島中がラブシックの謎ときに夢中になっている中で、軍事学部だけが埒外に置か
れることはないのだと分かってはいる。だが、野次馬根性だけで首を突っ込んでくる
連中に、事件をかき回されるのは面白い事ではなかった。

「……ラブシックの謎ときがやりたいのなら、探偵かスパイのところへでも行くんだ
な。俺は−−もう調査からは手を引いた」

 マイヤーはそう突き放すように言って、助教授室のドアを開けた。
 これ以上、彼の話につき合っていたくはなかった。ふと時計に目をやる。寄り道を
しても面会時間には間に合うはずだった。


 白葉によるサクマドロップス回収の影に、津久井加奈子がいることを−−シーラは
看護婦の話から突き止めていた。少し前に過労で倒れた白葉は、退院後の検診を受け
るために群島中央病院へ行き、診察の間にその話を津久井から聞かされたと言うのだ。

(津久井さんは……ラブシックの中毒患者を診察したんだわ)

 それはシーラの勘だった。
 だからこそ、白葉はあんなにも急いだのだろう。警察病院で中毒患者の末路を見た
夜木の言葉がジーラたちをせき立てている。
 これ以上、中毒患者を増やしてはならない。
 桜子や陽子のように……薬によって他人を傷つける少女たちを、これ以上増やして
はならない。

(きっと分かってくれるわ。津久井さんなら……)

 そう自分自身に言い聞かせるように呟いて、シーラはヴィジホンのハンドセットに
手を伸ばした。群島中央病院の番号を調べ、病棟に詰めている津久井を呼び出す。

『津久井ですが……、ああ、きみか』

 モニターに映し出された津久井の表情は、多少疲れているようにも見えた。

「お久しぶり。どう? 仕事の方は」
『特に変わりはありませんが−−今日は何か?』
「ちょっと聞きたい事があったのよ」
『……聞きたい事?』
「ラブシック……知っているでしょう?」

 シーラはその表情の動きまで読みとろうとモニターに映る津久井の顔を見つめてい
た。だが、津久井はいつもの冷静さを崩そうとはしなかった。

「知っている事があったら、教えて欲しいのよ。私……今その薬の事を調べているの。
薬剤師として−−女子高校生たちの間で流行しているっていうその薬がどんなものな
のか、調べなければならないと……」
『一種の幻覚剤−−あるいは媚薬と言った方がいいのかもしれない。効果はそう強い
ものではないが、服用する人間によっては強い依存性が認められるらしい−−分かっ
ているのはそのくらいですね。詳細なデータを得るためには、もっと詳しい研究が必
要ですからね』
「津久井さん、あなたラブシックの中毒患者を診ているんじゃない?」

 シーラは回りくどい言い方をこれ以上続ける事は無意味だと考えて、そう話を切り
出した。
 だが、それでも津久井の表情に変化はなかった。

『たとえ診ていたとしても……患者のプライベートに関わる話を部外者にする訳には
行きませんね』

 その言葉は、ある意味ではシーラの抱いた疑惑を肯定していた。
 しかし……それ以上のことは、決して津久井は明かさないだろう。

 シーラからの通話が切れた後も、津久井はヴィジホンのハンドセットを握ったまま、
ぼんやりと考え込んでいた。
 まぐまぐバーガーの番号を回そうとして、その指を止める。
 直接会って話をした方がいいだろうと考えたのだ。


 そして……まぐまぐバーガーは今日も満員御礼の札を下げたくなるほどの大繁盛ぶ
りを見せていた。
 その混乱のさなかに、津久井は稟を訪ねてきた。

「……そうですか、津久井先生のところにも……」

 すでに多数の人間がラブシックを探ろうと動き出し、真相にかなり近付いているら
しい、と聞かされて稟はがっくりと肩を落とした。
 できれば警察沙汰は避けて通りたかった。
 店の信用−−ということももちろんある。
 アルバイトが麻薬の売買をしていたとマスコミに叩かれれば、まぐまぐバーガーは
必ずその責任を負わされる事になるだろう。
 だが、それ以上に……稟は不安だった。
 片思いの相手に、振り向いてもらいたい。
 その少女らしい気持ちから恋の麻薬に染まっていった少女たちが、警察やマスコミ
に追われるのは辛すぎる。

「私……やっぱり高校生の頃に、片思いの相手がいたんです。告白なんて、する勇気
がなかったから、何も言えないまま卒業してしまって、今では彼は可愛い女の子のお
父さんになってしまったけど……。でも、今でも思い出すと……ちょっと切なくなる
んです。この指輪……その頃に買ったんです。銀の指輪を左手の小指にはめていると
思いが叶うって、そんなジンクスがあるのご存知ですか? 馬鹿ですよね……たった
一言好きですって言えば……ひょっとしたら彼は振り向いてくれたかも知れないのに
こんな指輪に願いを託していたなんて……」
「ラブシックに手を出した娘たちも……きっと同じ気持ちだったでしょうね。私にも
少しは分かる。……香南を見ていると、ね」
「これ……預かっていて下さいますか?」

 そう言って稟は自分の指から銀の指輪を外した。
 高校生だった彼女が、小遣いで買った安物の指輪だった。その色も……もうくすん
で銅色に変わってしまっている。
 だが、稟の気持ちを包み込むように……津久井はその指輪を手のひらに大切そうに
包んだ。

「私……もっと強くならなきゃ。せめてこの事件が解決するまで……。それまでは恋
もお預けです。だから、津久井先生が預かっていて下さい。お願いします」

 稟にとっては……それは告白だった。
 ちなみに彼女はまだ、津久井が「女医」であることを知らない(^^;)。

「分かりました。でも……無理は禁物ですよ。ちゃんと睡眠をとって、食事にも気を
つけて……。あまりひとりで背負い込まないように。あなたには、だれか支えてくれ
る男性が必要ですよ」

 そう言った津久井の言葉は……心底医師としての心配りから出たものだった。
 だが、彼女を見上げる稟の表情は、まるでプロポーズを受けた少女のように輝いて
いた。

「ね−−見た見たっ!?」
「あれ、指輪でしょっっっ!」
「私も見たわ!」
「店長からあの人に指輪を渡したってことは……」

 高梨店長は「謎の男(注/津久井のことである)」からのプロポーズを断り、受け
取っていた婚約指輪を帰した。そしてその理由は「過去のありそうな男(注/マイヤ
ーのことである)」との激しい恋愛(注/アルバイトの高校生の表現のまま)に身を
投じたために違いない。
 推理と言うよりは当てずっぽうに近い新たな噂が、その一瞬の光景から生まれた事
など、もちろん稟が気付くはずはない。
 その直後に、津久井と同じようにラブシックのことを探っている者たちの事を伝え
るためにまぐまぐバーガーを訪れたマイヤーの存在が、その噂の広まっていくスピー
ドにさらに加速をつけていた。

「……マイヤーったら、やるなあ」

 まぐまぐバーガーの店内で、探偵や野次馬の女子高校生たちに紛れて新聞を広げて
いたチャン・リン・シャンが……密かにそう呟いた事には、稟はもちろん、マイヤー
も気付いてはいなかった。


「ちょいと、そこなきょんの字」

 軍事学部に戻ったチャンは、廊下をばたばたと走っていくきょんを呼び止めた。
 講義がとっくに終わった後もキャンパスに居座って、きょんが何をしていたのかは
泥だらけになった服と、ペイント弾を五、六発も食らったその顔を見れば一目瞭然で
ある。

「レポートの提出が遅れているぞ」

 軍事学部講師としての堅い口調で、チャンはまず説教から始めた。

「提出……したっすよ。昨日」
「あんな子供の落書きをレポートと呼べるか。明日までに再提出をするように」
「げげ、明日までぇ。無理っすよ、あのレポートだって一週間もかかって……」
「再提出の期間を延長する絶好のプランがあるんだけど……一口乗る?」

 急に、チャンの口調が変わった。
 そして同時に、きょんの表情も変わる。

「乗ります乗ります(^_^)、何でも言って下さい」
「実はね、今日まぐまぐバーガーで…………ゴニョゴニョ…………それがこの間、マイヤ
ーを訪ねてきた…………ゴニョゴニョ…………なわけよ。でね………………」

 チャンがこんなに嬉しそうな顔を、学生相手に見せる事など滅多にない。
 そして、きょんが教職員を相手に、こんなにやる気を見せる事も、多分絶対にない
だろう。

「分かったっす! 俺に任せて下さいっ」

 そう言って、きょんはどんっと胸を叩いた。
 軍事学部の噂は……こうしてロクでもない尾鰭を山ほどつけて広まって行くのだ。

 

 


ACT3-16;恋の罠に堕ちた者たち

 _ それなのに……アーマスはまだ追ってくる。
 彼の優しさが、諒をまだそれでも守ろうとする真摯な思いが、諒を袋小路に追いつ
めているのだ。

 アーマスはまだ、その事には気付いてはいなかった。
 ただ諒に会いたかった。
 そして彼女を傷つけたことを、どんな形でもいい……謝りたかった。そうしなけれ
ばもう一歩も進むことはできない。

『私……分かるのよ。香南ちゃんがどうして薬を飲んだか。マイヤーさんを見つめて
香南ちゃんがどんな思いをしていたか……分かるような気がするの』

 あの時、気付いてやらなければならなかったのだ。
 諒もまた、香南がそうであるようにもっと確かな手ごたえを求めていたのだと。

(女の子の気持ち……か)


 そしてルイスもまた、アーマスと同じように女の子の気持ちが掴みきれずにSNS
でウィスキーのグラスを見つめていた。

『最近、出かけてばっかりいるのね』

 実際、雪美はそう言っただけなのだ。
 だがその一言がルイスにはひどく重く感じられるものだった。
 彼女の呟いた言葉の裏に……何か形にはならない不満があるように感じたからだ。
 そう考えて振り返ってみると、この数日の雪美のルイスに対する態度は、ひどくそ
っけなくて、冷たいような気がする。

(……ままならないもんだ)

 雪美への気持ちが……自分の中ではっきりとした形を持ち始めてきた矢先に、この
始末である。
 言葉にはならない呟きがため息に変わる。
 ラブシックに手を出す少女たちの切ない気持ちが、ルイスには分かるような気がす
る。ほんの一瞬、夢を見るためにでも……その薬を飲みたくなってしまう。そんな気
持ちさえ、今のルイスにはあるのだ。
 ポケットの中には、サクマドロップスの缶から小さなピルケースに移し変えたラブ
シックが入っていた。
 世莉がルイスの部屋でこの薬を見つけ、飲んだのを見つけて以来、こうして肌身離
さず持ち歩いている。
 そして探偵たちがそうしているのと同じように、ラブシックの流通経路を手繰って
毎日まぐまぐバーガーに日参しているのだ。

(もう二度とこの薬を飲んではならない)

 ルイスはそう自分自身に言い聞かせた。
 だがそれでも手元に残ったわずかな錠剤を処分してしまうことができないのは、未
練なのだろう。
 この薬の持つ力……。
 それはルイスにとって簡単に捨て去ってしまうことなどできないほど魅力的なもの
だった。

(この薬が……すべての事件の引き金になったんだから……)

 ウィスキーの水割りを一気に煽って、ルイスは立ち上がった。
 店を出るときに、ふとカウンターにつっぷしているアーマスを振り返った。
 ルイスには……アーマスが仕事としてこの薬を追っているからではなく……心の傷
を癒すために、恋の夢を見せるその効力を求めているように見えた。

 

 


ACT3-18;恋する気持ちが、切なくて
 19号埋め立て地のライブハウスの片隅で、陽子は抱え込んだ膝の上でライムの身
体を撫でていた。

「ビール……飲める?」

 席に戻ってきた世莉が、そう言って陽子にビールの入った紙コップを渡した。
 小さく首を振って彼を見上げ、陽子はまたライムに視線を戻した。

「じゃあ、ジュースでも貰ってくれば?」
「ううん……いいんです。何にも欲しくない」
「そっか」

 そう言って、世莉は陽子の隣に腰を降ろした。
 こんなところまで世莉を追いかけてきたのに、陽子はおびえたように身を堅くして
世莉に近付こうとしなかった。

「恐い夢……見てたの?」
「え?」
「会ったときにさ、−−“先輩が怪我をする夢を見た”って言ってたじゃないか」
「……うん、そう……夢。……すごく、恐い夢」

 陽子の声は、充満する音楽と歓声とにかき消されてしまいそうなほど、か細いもの
だった。
 世莉が彼女を見つけたのは、このライブに来るために家を出たその時だった。
 公営住宅の入り口に立って陽子はずっと世莉が出てくるのを待っていたらしい。
 陽子とは、そう親しい間柄ではなかった。
 演劇部に所属している友達と一緒に、時折部室に顔を出していた。いつも彼女の目
が自分を追っている事に気付いてはいたが、ほとんど言葉を交わすこともないうちに
世莉は学校を辞めてしまったのだ。
 まさか彼女が訪ねてくるとは思っても見なかった。
 だが、陽子が大切そうに持っていたサクマドロップスの缶を見たときに、何が彼女
をつき動かして−−たった一言の言葉を言えなかった世莉のもとを訪ねさせたのか、
足を向けようと考えたことさえなかっただろうこの19号までついて来させたのかが
分かった。

「先輩……ラブシックって知ってる?」
「名前だけはね……知ってるよ」

 ポーカーフェイスのまま世莉は答え、ビールをもう一口含んだ。
 まさか陽子の方から、その名前を口にするとは思わなかった。少しずつ話をしなが
ら、世莉が誘導してそのことを聞き出そうと考えていたのだ。
 世莉はジーラに協力するためにラブシックのことを知りたがっていた訳ではない。
 ジーラなら陽子を見つければ薬を辞めさせようとするのだろうが、それをしたいわ
けでもなかった。
 薬を続けていれば、やがて陽子は身体も……そして心も蝕まれて行くのだろう。
 その結果は廃人かも知れないし、死なのかもしれない。
 だがそれでも、世莉には陽子の人生を決めてやる事などできないのだ。
 マイヤーがそうして香南を守っているように、陽子の人生を見守ってやる力を持っ
ている訳でもない。

「ラブシックって飲んじゃいけない薬なのかな。飲んでるの見つかったら……桜ちゃ
んみたいに警察につかまっちゃうのかしら」
「さあ……どうかな」
「クラスの人たち、ラブシックは麻薬なんだって、そう噂してたの。あたし、恐くな
って辞めようとしたけど……でも先輩の夢が見ていたかった。夢の中ではね……先輩
はいつもあたしのコト見ててくれたから。沢口先輩のコトじゃなく……あたしの……」
「沢口?」

 世莉はそう言って、陽子の顔をのぞき込んだ。
 そして……彼女がずっと誤解していたのだと気付いた。
 演劇部の沢口理恵は、確かに世莉とは親しかった。だが彼女と世莉の関係は、陽子
が嫉妬しているような類のものではない。同じクラスの友人として、部活仲間として
のつき合いがあっただけだ。

「先輩は、薬辞めた方がいいって思う?」
「別に……どっちとも思わないけど」
「……」

 陽子は押し黙ってしまった。
 突き放すような世莉の言葉に、怯んだように言いかけた言葉を飲み込んでしまう。

「友達が麻薬だって言ったから……私が辞めろっていったから……そんな理由じゃ薬
は辞められないよ。本当に辞めたいって自分が思わなきゃね。誰かが無理矢理薬を辞
めさせたって無意味だよ。薬なんていくらだって……このライブハウスでだって手に
入れられるんだからね。薬を続けていれば、身体を壊すかも知れないし、下手をすれ
ば死ぬかも知れない。でも薬を続けて行くのと同じくらい、辞めることだって苦しい
事だよ」
「……禁断症状が?」
「そんなのは……一時的なものだよ。その後に……ずっと薬なしで生きていく事の方
がずっと苦しいことなんじゃないのかな。薬を飲みさえすれば、それで何もかも辛い
事から解放されるんだって知っているのにずっと、それを我慢し続けなくちゃいけない
んだから……」

 陽子は膝を抱え込んでいる手に、ぐっと力を込めた。
 その動きに驚いて、ライムが膝の上から飛び降りる。


 陽子と別れた後、肌寒く感じる夜風の中を歩きながら、世莉は家に帰る道をぷらぷ
らと歩いていた。
 ルイスの部屋で見つけたラブシックを飲んだときに見たあの幻覚が、鮮やかに意識
に蘇ってくる。それは多分、世莉の知っているもっとも美しい義母の姿だった。