ACT4-11;恋に応える言葉

『群島中央病院に入院中の森沢香南をマイヤー助教授が見舞いに行った』

 その噂の発端は、もちろんチャン・リン・シャンである。
 そして軍事学部の噂はいつも、

「ちょいと、そこなきょんの字」

 ……という彼女の一声からねじ曲がり始める。
 そしてチャンが病院でマイヤーを目撃してからほんの一週間ほどで、

『あのコアラ牛が自殺未遂で入院。原因はマイヤー助教授と高梨稟(まぐまぐバーガー店長)の結婚話らしい』
『マイヤー助教授と高梨稟はすでに入籍を済ませているらしい』
『森沢香南はラブシックを大量に服用し、自殺を計った』

 チャンの悪気のない(注/本人談。信憑性は薄い)一言は、すでに軍事学部で広まっていた噂としっちゃかめっちゃかにミックスされ、噂を流した当人のチャンでさえまったく予期していなかった方向へと着実に発展しつつあった。
 折しも、群島中がパニックに陥ったベビークライシス−−数知れぬ赤ん坊が捨て子として群島の住人たちにつぎつぎに託されるという怪事件−−のまっただ中である。
 その育児戦争の惨禍は、軍事学部にも例外なく押し寄せ、話題はすべて赤ん坊たちにかっさらわれてしまうのではないか、とチャンでさえ危惧を抱いていた。しかし、実際には半ば育児ノイローゼとなった生徒たちが講義と育児当番のシフトをこなしていく多忙な毎日の中で、“助教授の噂”は心のオアシスとも言える「他人の不幸」であったのだ。
 そして、噂は……瞬く間に広まっていったのである。

「マイヤー助教授!!」

 赤ん坊の泣き声がそこかしこで響き渡る校舎の一角で、マイヤーを呼び止めたのは久慈だった。

「ラブシックの流通ルートを探るために、立ち上がるべきなんじゃないですか。群島にはびこる麻薬を、あなたが野放しにして平気な顔をしているとは思えない。戦うんなら、協力させて下さい」
「俺は調査からは手を引いた……そう言ったはずだ」
「あなたを慕っている少女が、麻薬に侵されて苦しんでいる……それでも何も感じないんですか」

 久慈の口調は荒っぽいものだった。
 平素なら、マイヤーを相手にこんな伝法な口を聞く者はいない。少なくとも軍事学部の学生には……。
 だが、久慈はマイヤーを真正面から見つめ、一歩も退こうとはしなかった。
 それだけ……彼は真剣なのだ。
 久慈はアメリカからの私費留学生であり、過去に軍歴を持つ男である。同じ軍事学部の生徒とは言え、高校を卒業してそのまま紛れ込んできた(例えばきょんのような)新兵とは訳が違う。

「自分は、かつて南米の麻薬組織壊滅作戦に参加した事があります。その時に、組織に利用され、麻薬欲しさに情報を売り渡した隊員も目にしました。自分の……親友だった男です。あなただって麻薬の脅威を知らないはずはない。……麻薬は確実に、人間の身体も精神も蝕んで行くんだ。あなたはそれでも手をこまねいているだけなのか? 自分を慕う少女が……その麻薬に苦しんでいるのに、立ち上がろうとは思わないんですか!」

 香南がラブシックの中毒になっている事を……久慈がどこから知ったのかは謎である。
 できれば、軍事学部に溢れ返っている噂がその情報源でない事を祈りたい(^^;)。

「俺は同じ事を何度も繰り返す気はない。もう一度だけ言う。俺は調査からは手を引いた。−−もう二度とその話を俺の前でするな」

 マイヤーの口調もまた、一歩も譲らない強いものだった。
 ラブシックの調査を、探偵やスパイと称する連中がやっていることに、口を挟む積もりはマイヤーにはなかった。やりたい奴はやればいい。それで彼らが何を得るのかは分からないが、他人のする事にとやかく言いたくはない。
 だが、香南が彼らの正義感の犠牲になることだけは絶対に許せなかった。
 マイヤーは、一介の兵士に過ぎない自分の分という奴を知っている。すべての者を救う事などできはしない。自分が音頭を取って麻薬を根絶することなど不可能なのだ。
 例え氷山の一角を崩す事ができたとしても、何の解決にもなりはしない。
 麻薬の歴史は決して浅いものではない。
 そしてその害はすでに幾度となく語られてきたのである。
 麻薬中毒が社会問題となり、その駆逐のために国家規模の対策が取られた事も少なくはない。
 だがそれでもなお……麻薬は存在し続けている。
 そして心弱い犠牲者を侵し続けているのだ。
 確かに久慈の言うように戦う事をマイヤーだとて考えなかった訳ではない。しかしそれで氷山の一角を崩す事ができたとしても……裁かれるのはその心弱い犠牲者ばかりなのだ。
 マイヤーがしなければならないのは、そんなことではなかった。

「俺は……あんたを英雄視しすぎていたようだ」

 険しい表情で自分を見つめるマイヤーを見据えて、久慈は吐き捨てるように言った。
 久慈の目には明かな怒りが込められていた。

「苦しんでいる少女ひとり救う事ができずに、戦士といえるのか? −−あんたは、最低の男だ」

 そう言って、久慈は身を翻した。

(俺が香南にしてやれる事は……麻薬の謎を暴いてやる事じゃない)

 その場に立ちすくんだままマイヤーは身体の中を激流の様に逆巻く怒りを堪えていた。

(あの娘の待っている言葉を、見つけてやる事だ)

『誰だって……自分の好きな人からの言葉を待っているんですよね。私がアーマスの言葉を待っていたように……香南がマイヤーさんの言葉を待っていたように……』

 そう言っていた諒の声が、今もマイヤーの意識に鮮明だった。


「きょんの字、首尾はどう(^_^)?」

 次の講義の準備をするため、校舎の出口へ向かったマイヤーは、開けっ放しになっていた会議室の扉から漏れるチャンの声に足を止めた。

「えーと、とりあえず“マイヤー助教授の赤ん坊は実は捨て子ではなく、実子らしい”ってトコまでいってるっす」
「ふーん、割とイイ線いってるじゃない。この勢いなら明日の午後には母親が判明するかな? マイヤーは知ってるのかなあ、まだ知らないなら、噂を耳にしたときの顔が見てみたいわ(^_^)」

 チャンは……ご機嫌そうである。

「まあ、こーゆー事なら俺に任せて下さいよ(^_^)」

 そして、きょんも上機嫌である。
 だがマイヤーは……その二人の嬉しそうな声を聞いて怒りに身を震わせていた。
 ラブシックの噂、捨て子の噂と並んで軍事学部を席巻する口にするのもはばかられる極めて馬鹿馬鹿しい不愉快な噂(注/マイヤー助教授の表現を引用)が、どうしてしつこく囁かれ続けているのか……その元凶の全てをふたりの会話から悟ったのだ。

「取り柄のないどーしよーもない生徒かと思ったけど、ホンっトこーゆー時「だけ」は役に立つわね。レポートはとりあえず受理する。ご苦労だった、きょん一等兵」
「おありがとうごぜえますだ、お代官様」

 チャンもきょんも……ノリノリである。

「うむうむ。本日よりは教官命令によりきょん・リン・シャンと名乗るがよろしい」
「分かりましたっ! 単位宜しくお願いしますっ!」
「……助教授命令で却下だ(ー_ーメ)」

 悪ノリがいささか度を越していたため、きょんはもちろんチャンも……その怒号が低く響きわたるまでマイヤーの存在には気付かなかった。

「さぁーてと、おシゴトおシゴト。ああ、忙しくてやんなっちゃわよねえ」

 そしてこういう時の、チャンの逃げ足は早い。

「ほんっと、年度頭って事務処理の仕事が溜まって大変だわ」

 そう言ってチャンは机の上にあった書類をぱたぱたとしまい込み、作り笑いを浮かべてマイヤーの脇をするりとすり抜けて行ってしまう。

「そ……そりゃあねえっす(T_T)」
「よっぽど実弾射撃の的になりたいらしいな、<u>篠田清志</u>」

 いつもなら「きょん」の一言で済ませるところをわざわざフルネームで呼ばれるその恐怖は……すでに去年一年間だけで骨身に染みるほど味わった。
 マイヤーとふたりっきりで部屋に取り残されたきょんには……もちろんチャンのような脱出のキメ台詞はない。
 待っているのは……地獄のハイポート走である。
 それでも、実弾射撃の的にならずに済んでいるのは、マイヤーの鋼鉄の自制心のおかげだった。

 

 


ACT4-12;ナサティーン家の恋のスパイ
  1. ラブシックは、恋の幻覚を見せる麻薬である。
  2. 中毒患者は主に女子高校生であるらしい。
  3. 軍事学部生大トロ殴打事件の加害者・花村桜子はラブシック中毒だった。
  4. サクマドロップスの缶に混入された異物とは、恐らくラブシックのことだろう。
  5. 群島中央病院の医師・津久井はラブシックの中毒患者を診察ものと思われる。
  6. ラブシックに良く似た効果を持つと思われる「カウント」という麻薬がアメリカのある一地域で流行したことがあった。
  7. 洋上高校生でラブシックを実際に見たことのある少女たちは、すべて桜子に薬をもらっていた。
  8. 警察病院に入院中の桜子はかなりの精神的ダメージを負っている模様。
  9. 洋上高校で教師・三枝を刺した橋本陽子はラブシック中毒だった。禁断症状に陥ると自殺、殺人などの衝動にかられる可能性もある。
  10. ゼロワンSTAFFという人材派遣会社がラブシックのことを探っているらしい。
  11. 現在巷に飛び交っている情報は……ほとんどがデマであるらしい。

「これからどんな風に調査を続けるか、そこが問題だな……」

 ベビークライシス事件の煽りを食って赤ん坊だらけになったナサティーン家の居間で、ジーラはこれまでに分かったことを書きとめたメモを見つめて、小さく息を吐いた。

「調査のやり方変えるの?」

 うつらうつらし始めた赤ん坊の身体をそっと揺すってやりながら、シータがジーラを振り返った。

「そう。このままゴリ押しするのはヤバそうだからね」

 群島中がこれだけの騒ぎになっているのである。
 女子高校生の手から手へと渡されているような麻薬が、今も以前と同じように供給されているとは思えなかった。
 窓口のひとつであった桜子が警察に保護されていると言うだけでもかなりの影響が出ている筈なのだ。薬を手に入れることができない中毒患者もいるに違いない。
 そうした中毒患者の全てが、禁断症状によって桜子や陽子のような事件を引き起こすとは思わなかったが、それでもこれ以上中毒患者たちを追いつめたくはなかった。

「……ラブシックの事も頭の痛い問題だけど、この子たちも問題だよね……」

 そのシータの言葉が、ぐずり出した赤ん坊たちの声の中で力なく発せられる。
 慣れない育児にかかりっきりになって思うように調査が進められない、というのも確かに事実なのだ。そして同じようにラブシックを追っていた探偵たちも、育児に追われているのだろう。

「それにしてもヤランはどこ行っちゃったのかなあ」


 赤ん坊の寝顔を見ながらシータがそんな呟きをもらした頃、ヤランはゼロワンSTAFFを訪れていた。
 狭いオフィスは……赤ん坊の洪水だった。
 仕事の間この子預かってぇ、と最初に言ってきたのはユッコだった。そして、ひとり預かってしまえばあとは芋づる式である。私も私も……とつぎつぎにオフィコンたちに赤ん坊を押しつけられた。オフィコンが子どもを預ければ、スパイ要員の連中だってそれを見逃すわけはない。今やオフィスは完全に託児所と化していた。
 そしてもちろん、中川が赤ん坊の世話なんて言う−−面倒くさい上にウンチも臭いような事をこまめにやるわけはない。
 実際に赤ん坊の世話をしていたのは、アインシュタインと探偵見習いの羽山巧だった。

「僕、スパイ見習いとして雇って貰ったはずでしょ……?」

 ……という羽山の台詞に、もちろん中川が優しい言葉をかけてやったはずはない。
 羽山は、どこまでも貧乏クジを引き続けていた。
 それでもめげずにオムツを変え、ミルクをやっている辺り−−この男もかなりのお人好しである(^^;)。


「この会社、ラブシックのことを調べてるんでしょ? ぜひぜひ雇って下さい(^_^)」

 その赤ん坊の洪水の中に膝を突き合わせて中川と向かい合い、ヤランはにっこりと笑った。

「……何でその事知ってるんだ(^^;)」
「エヘヘ、おっちゃんがSNSで話してるの聞いちゃったの」

 おっちゃん……とは、中川の事であるらしい(^^;)。

「ラブシックの事はどこで知ったんだ?」
「姉のジーラが調べてるんですぅ。探偵さんたちにもいろいろ頼んでるんですよ」

 ヤランは得意そうにそう言った。
 その一言で、中川の表情が変わった。
 ラブシックの事を探っている探偵と情報を交換すれば……と言っていた沫の言葉が電光石火のごとく脳裏をかけ巡った。
 情報交換なんて真似をして、せっかく独り占めできているまぐまぐバーガーの情報を外にもらす積もりはない。
 だが、分捕れる情報は……ひとつ残らず手に入れたい。

「今すぐ雇ってやっからさ。そのねーちゃんの調べた情報探ってくれる(^_^)? バイト料はずむよ」

 その中川の言葉に……ヤランは思わず絶句した。
 ゼロワンSTAFFが調べ上げた情報を手に入れようと潜り込んだと言うのに、逆にジーラの手の内を探って来いと言われるとは……。

 したたかさという点では、ヤランより中川の方が上手である(^^;)。

 

 


ACT4-13;父は、恋のスパイ

 巽守は赤ん坊をひとり背負い、もうひとりを抱えて医務室へ向かっていた。
 その……一見あまりにも非常識な姿は、だがベビークライシスのさなかにある軍事学部、いや東京人工群島に於いて、取り立てて注目を集めるほど奇異な姿ではなかった。

「……お、重い」

 守の貧弱な体格に、二人の赤ん坊は確かに荷が重かった。
 そして守に赤ん坊を押しつけたのは−−他でもない軍事学部の問題児きょんである。
講義の終わった後、ちょっと頼むぜ、の一言でオムツもミルクもなしに赤ん坊を渡し、姿をくらまして二時間。帰るに帰れず右往左往している守に、

「あら、きょんなら助教授にしごかれて泡吹いたとかで医務室に連れて行かれたってハナシよ」

 ……と教えてくれたのは築地綾子だった。
 泣きわめいているきょんのウルトラビッグワンX(注/赤ん坊の名前である(^^;)。周囲の反対を押し切ってのきょんによる命名)をあやし、粉ミルクを分けてくれたのも彼女である。
 綾子、きょん、守……と言えば軍事学部では、

「<u>あの三人</u>……」

 と言っただけで通用する問題児トリオだった。
 いや……問題児なのは主にきょんと守で、綾子はきょんにつきまとわれているだけだ、という噂もないではないのだが、実際そのつき合いの良さで墓穴を掘っているのは間違いあるまい。


 そしてきょんはその頃、マイヤーに申し渡されたハイポート走でダウンし、医務室に引きずり込まれ……ベッドではなくその下の床に転がされたまま大イビキをかいていた。
 ベッドの上は教職員たちの赤ん坊ですでに占拠されていた。

「きょんくぅん、ウルトラビッグワンXがパパを恋しがってるんだけど……」

 ようやくたどり着いた医務室で、守はきょんを揺り起こした。
 だが、守のか細い声では−−元気な赤ん坊の泣き声の中でさえ熟睡できる図太いきょんを起こすにはあまりにも役不足だった。

「こんな奴ぁ、こうすりゃ起きるんだ、こうすりゃあ」

 そう言って、きょんに蹴りをかましたのは医務室の看護医である(^^;)。
 乱暴なように見えるが、怪我人でもなく病人でもない根性なしに優しくしてやっているようでは軍事学部の医者は勤まらない。

「痛ぇ……」

 三発目の蹴りで……きょんはようやく目を覚ました。


「親父に会う?」

 乗客の大半が赤ん坊を抱いている地下鉄の中で、きょんはそう言って守を振り返った。

「……そうなんだ。で……ひとりじゃ心細いから、できればきょんくんに一緒に来て欲しいなあ……って。な、何か予定入ってる?」

 きょんの顔色を伺うように守は気弱そう言った。
 軍歴を持つ留学生にいちいちびくびくするその気弱な性格をして、守は学部内で守を除けばもっとも頼り甲斐のなさそうなきょんの弟分に収まっている。
 そんな性格の奴が、望んで軍事学部に入ってくるわけはなかった。
 守を軍事学部に叩き込んだのは、自衛隊で「鬼の巽」と呼ばれていた(と、本人は言っている)豪傑な父親である。
 その父親の話は、きょんもすでに何度か聞かされた事があった。

「まあ、いーけど……。俺がPTAのご機嫌取れると思うなよ」
「一緒にいてくれるだけでいいんだ。お願いします、きょん先輩」
「先輩はやめろって言っただろっ」

 きょんはそう言って眉を寄せた。
 留年して二度目の一年生をやっているきょんは……たしかに守から見れば「先輩」である。だが、同じクラスの奴にそんな呼ばれ方をするのは、かえって馬鹿にされているように思えてならない。
 もちろん守には悪気なんかこれっぽちもありはしない。
 心底きょんのことを頼りに思っているのだ。
 この……どっか見当違いな性格こそ、守が教官たちに「問題児」のレッテルを貼られる最大の原因なのだが、当人はそのことにはまったく気付いてはいなかった。

 そして、巽守の父親とはもちろん……ゼロワンSTAFFのスパイ要員にしてまぐまぐバーガーの必殺お掃除爺ぃ・巽進一朗である。

 巽親子が待ち合わせをしていたのは丹島かもめ商店街の『味の屋』だった。
 その『味の屋』の店内に守が入ってきたのは、約束の時間を一時間半も過ぎてからだった。

「渇−−−−−−っ!」

 注文したロースカツ定食はとうの昔に食い終わり、不機嫌そうな表情で腕組みをしていた巽は、守が入ってきた瞬間、そう怒号を響かせた。
 その一声だけで、守は入ってきた扉から店の外に吹き飛ばされそうだった。

「約束の時間も守れぬようでどうするっ! 遅れるなら遅れると電話の一本も出来ないとは何事だ!!!」

 席に座る暇さえ与えず、巽はのっけから説教を始めた。

「……時間に遅れたくらいで、ずいぶんエキサイトするな」

 その……何気なくもらしたきょんの一言が火に油を注いだ。

「きょ、きょんくぅん(;_;)」

 守が父親との待ち合わせに遅れたのは、きっぱりときょんのせいである。

「だいたいこんなトッポいのとつきあっとるから生活がだらしなくなって来るんだ。何のために軍事学部へ入れたと思うっ! 日本男児らしくぴしっとせんか!」

 守ときょんを横に並べて、巽の説教はまぐまぐバーガーへの出勤時間が迫るまで続いた……。(教訓:親に会わせる友達は慎重に選ぼう)

 

 


ACT4-14;恋のスパイ……続々

 築地綾子がアブシンベル縁島を訪れたのは、十月三日の午後だった。
 その日もゼロワンSTAFFには、赤ん坊の声がこだましていた。
 こだましていた。
 こだましていた。
 していた。
 していた。
 いた。
 いた。

 赤ん坊のオムツを代えていた羽山にお茶を入れるように言うと、中川は綾子と向かい合うように腰を降ろした。
 綾子は軍事学部の制服をびしっと着込み、薦められた座布団にきちんと膝を正して座っている。

(……変わった女だ(^^;))

 アルバイトの面接くらいで何もそんなにかしこまる事はないだろうに……と思いながらも中川は受け取った履歴書にざっと目を通した。

「で、ご希望の職種はオフィコンですか、それとも……」
「私……私、スパイの美学に憧れてるんです!」

 中川に最後までは言わさず……綾子はそう言ってがばっと身を乗り出し、にぱっと照れ笑いを浮かべた。事の展開からすると「キャッ」とぶりっこ笑いをする予定だったのだろうが、その辺の情報は案外いい加減だったらしい(^^;)。

「スパイをやるには、それなりの恵まれた容姿っていうか……あたしが言うと嫌みに聞こえるかも知れませんけどぉ、整った外見ってやつが必要だと思うんですよね」

 そう言って、綾子はわざとらしく床に「の」の字を書き始めた。

(軍事学部の生徒と聞いて……最初に気付くべきだった……)

 どっと押し寄せる脱力感に身をヘタリ込ませて、中川は彼女を部屋に上げた事を海より深く後悔し始めていた。
 軍事学部の関係者とは、出来ればかかわり合いになりたくない。その中川の思いは半年しか在籍していなかった大学時代から、なんら変わってはいなかった。名刺屋チャン・リン・シャンの出現以来その意味するところは多少違ってきてはいるが、どっちにしても彼らが「危険な」存在である事に変わりはないのだ。
 そしてヘタリ込んだ中川に追い打ちを駆けるように、綾子は懐から取りだしたぬいぐるみをずいっと差し出した。

「ご挨拶代わりにと思って持参しました」

 そのぬいぐるみこそかつて一斉を風靡した「SD聖くん」のニューバージョン、トレードマークのダリ髭もプリティーなSD三宅教授だった。MILの全面的なバックアップを受けて、自爆装置の「赤いボタン」も標準装備という危険極まりない玩具である。
 そのあまりにもタイムリーなご挨拶ぶりの影に、チャン・リン・シャンの暗躍がある事に気付かない中川ではない。

「名刺屋の嫌がらせに便乗して、俺に何をやらせようって魂胆だ」
「雇って下さい(^_^)」
「あ?」

 拍子抜けしたように中川は言った。

「するってぇと何か、お前は本気でスパイ志願だとでも言うのか。たかだかアルバイトの面接にいつもそのご大層な仮装してくってんじゃねえだろうな」
「これ、仮装じゃなくて制服なんです。そりゃあまあ、特別な式典の時以外、こんなカッコしてる学生なんていやしませんけど……。でも、ゼロワンSTAFFの社長さんは礼儀にうるさい人だからきちんとした格好して行かないと採用してもらえないって言われたものですから。最初は、やっぱりお振り袖かな? って思ったんですけど、美容院の予約が取れなくって……あの……何かマズかったですか? 私、挨拶間違えたのかしら……ええと……」
「……あの中国人に助言を求めたってのが、そもそも一番の間違いだと俺は思うぞ」


 なんのかんのと文句をタレながらも、結局中川が綾子の採用を決定した頃、稟はまぐまぐバーガーのオフィスでぼんやりと考え事をしていた。

「やっぱり……私の一存でどうにかなることじゃないわよね」

 事務デスクの上には巽が女子更衣室の天井裏から発見した十五個ほどのサクマドロップスの缶が置かれている。
 その内のひとつを開けて調べて見たところ、香南が持っていたものと同じピンク色の錠剤がドロップスに混じって入れられていた。

「店長、紙コップの在庫の事なんですけど……」

 オフィスの稟に広田がそう声をかけた。
 だが、稟は振り向かなかった。ドロップスの缶を見つめて、まだ何か考え込んでいるようだった。

「店長?」
「……あ、ごめんなさい。何かしら……?」
「またラブシックのこと考えてたんですか?」
「え……ええ」

 不安そうに顔を伏せて、稟は小さく頷いた。

「俺……この缶を見て、ちょっと気付いたことがあるんですよ」
「気付いたこと……?」
「この缶、あんまり新しいものじゃないでしょう? ほら、これなんか値札が黄ばんでるし、こっちは引っかいた傷が錆びてる。俺も最初ラブシックの話を聞いたときは、映画に出てくるような麻薬密売組織が裏にあって、この店を根城にしてるんじゃないかと思ってたんです。でも本当は、もっと規模の小さいものなんじゃないですかね。陽子ちゃんの単独犯行か……共犯者がいたとしてもふたりか三人くらい……そんな気がするんです」
「……でもそれで、捌ききれるものかしら? 陽子ちゃんは週に一回か二回しか来ていなかったし、他の娘たちだってみんな似たようなものよ」
「学校の方でもね、うちの女の子たちがいろいろ聞き込みをしてるんです。でも、ラブシックの名前や、その紹介を桜子っていう例の女の子がしてるって話を知っている娘たちに比べて、まぐまぐバーガーで薬を売ってるってことを知ってる娘はほとんどいなかったんですよ。この店のアルバイト、洋上高校の生徒が多いですからね、もしその密売に大勢が動いていれば必ず噂になるはずでしょう? でも誰も知らなかった。
 大勢の共犯者がいなくても、麻薬の密売はできますよ。例えばね、桜子っていう例の女の子が店の外でまず顧客を作って、常連になったところで例の“恋をするには”って合い言葉を教えるんです。時間とか曜日とかを決めておけば陽子ちゃんひとりだって充分捌けるでしょう。まあ……まだ証拠なんかないただの推測ですけど……」
「そう……そうね、そういう可能性もあるわね」
「あんまり深刻にならない方がいいですよ。あ、紙コップの在庫なんですけど、あと一箱しかないんで早めに発注して置いて下さい。じゃあ……」

 そう言って、広田はキッチンの方へ戻った。
 その広田を呼び止めようとして、だが、稟は続く言葉を口にすることができなかった。
 店内でラブシックの売買が行われている。
 橋本陽子というアルバイトのひとりが、その取り引きにどう関わっていたのかは不明だがラブシックの中毒となり、その禁断症状で傷害事件を起こしている。
 そして、店内からはラブシックの混入されたサクマドロップスの缶が発見されている。

 稟は、現在までに知り得た全ての情報を、本社を通じて警察に届けることを決めていた。

 陽子の起こした事件から警察が本格的にラブシックの調査を始めれば、まぐまぐバーガーの内部でその売買が行われていたことはすぐに明らかになるだろう。
 そうなってからでは遅いのだ。
 店内から発見された薬物を隠していたことが分かれば、稟にもゼロワンSTAFFのスパイ達にも嫌疑の目は向けられる。そして……何も知らないアルバイトにまで捜査の手は容赦なく伸びるだろう。
 それだけは、絶対に避けなければならないことだった。

 稟が店内でのラブシックの密売を警察に届ける。
 それは同時にゼロワンSTAFFの仕事に終止符が打たれるときでもあった。

 

 


ACT4-15;パパに恋はしない

「まーちゃん……」

 不器用な手付きでモデルガンのM60のマガジンに弾を込めていた香南が、その手を止めてマイヤーを見上げた。
 香南の快復は順調だった。
 九月末から急に冷え込んだせいで風邪をこじらせ、戻りかけた体重がまた少し落ちていたが、禁断症状による極度の自閉状態からはほぼ脱しきったと言ってもいいだろう。
 体力が戻るのを待ちながらもう少し様子を見て問題がなければ……と津久井も退院の時期についての話題をぽつりぽつりともらすようになった。

「ん? どうした」
「桜ちゃん……警察に捕まったの?」
「……ああ」

 マイヤーは低く答えた。
 毛布の上に転がっている玩具の弾丸を拾い上げて香南に渡す。

「ラブシック……飲んでたから?」
「傷害事件の犯人として捕まったんだ」
「でも、それってラブシックのせいなんでしょ?」
「……多分、な」
「香南も、あのままラブシックを飲んでいたらそうなってたのかな」

 そう、ぽつりと言って香南はうつむいた。
 あの禁断症状の苦痛の中で、香南が何を思い、何におびえていたのかは分からない。
 マイヤーは香南の頭に手をやり、その髪をくしゃくしゃと撫でた。
 身体が快復して行くのと同じ早さでは、心に負った傷は癒えては行かない。
 香南がラブシックに抱く恐怖感は強いものだった。それはラブシックだけでなく、他の薬にも及んでいる。風邪を引いたときにも、解熱剤ひとつ飲むことができなかったほどだ。
 例え津久井が退院を認めても、香南が本当に立ち直るまでにはまだ長い時間がかかるだろう。


「ハインリヒさん、ちょっとよろしいかしら」

 面会時間が終わって病棟を出たところで、マイヤーはそう声をかけられた。振り返ると香南の母親・森沢香織が立っている。

「……どうも」
「香南のところに来て下さってたのね。大学のお仕事もお忙しいのに……いつもありがとうございます」
「いえ。一度きちんとお会いして話をしなければと思っていたんですが、つい延び延びになってしまって申し訳ありませんでした」

 香織とは幾度か病室で顔を会わせたていた。
 だが、香南の状態が落ちつかない事、マイヤー自身が多忙であまり時間を取れない事もあって、なかなか腰を落ちつけて話をする機会を得られなかった。
 津久井からそろそろ退院した後の事を考えた方がいい……と言われていたため、香南の両親にも相談しなければと思っていた矢先だった。

「こちらでの香南の保護者などと言っておきながらこんなことになって……詫びて済む問題ではありませんが、私にできる限りの事は……」
「よしましょう、そんな話は……。あっちで、座って話さない?」

 そう言って、香織はエレベーターホールの一角を占める喫煙コーナーに向かった。
 自動販売機のコーヒーを買って一方をマイヤーに差し出す。

「ありがとうございます」
「ハインリヒさん、三十六歳ですって?」
「……? ええ」

 マイヤーは突然何の事だろうと思いながらも頷いて香織の方に目をやった。

「私と同い年なのよね」

 コーヒーを口に運びながら事も無げに言う香織の言葉を聞いて、マイヤーは思わず手にしていた熱いコーヒーの入った紙コップを取り落としそうになった。

「……そ、そうだったんですか(^^;)」

 親子ほど年が離れている相手だと、そうからかったのは広田だったろうか……。
 だが、その時でさえこれほどの衝撃を感じてはいなかったような気がする。

「ハインリヒさんにとって香南の気持ちって、子供のおままごとみたいに思えるでしょう?」
「…………」
「ふふ、ホントのことだもの。しかたないのよね。私だってそう思うもの。でも、本人は真剣なのよね、きっと」
「…………」
「パパになっちゃだめよ、ハインリヒさん」
「……は?」

 突然、香織の言ったその言葉に、それまで黙り込んでいたマイヤーが突然顔を上げた。

「そうでなきゃ気付かないわ、あの娘。……あなたが香南を守ろうとしている思いやりにも、香南を大切にしてくれている気持ちにも……」

 香織の言葉が……自分自身にさえ見えていない心の内を見透かしているような気がして、マイヤーはぎくりとさせられた。


 香南と同じように、飯田橋の警察病院に入院中の桜子もまた、ラブシックの禁断症状による錯乱からは快復しつつあった。
 ときおり発作のように狂暴になることがあったが、それ以外の時は会話もできるようになり、篠田清志を殺そうとした、あの夜の事をぽつぽつと話す事さえあった。
 だが、ラブシックの事は一言も話そうとはしなかった。
 自宅マンションから発見されたサクマドロップスの缶はすべて空で、部屋のどこからもラブシックは見つからなかった。
 ラブシックをどこで手に入れたのか。
 常用していたはずのラブシックはどこに隠してあるのか。
 桜子はそれを決してしゃべろうとはしなかった。

「……誰?」

 浅い眠りから醒めた時、桜子は部屋の中に人の気配を感じて身体を起こした。
 消灯時間を過ぎても、非常ライトが各所につけられた病棟は真っ暗にはならない。
 その薄暗がりの中に、誰かが立っていた。
 金髪の少年だと−−桜子には分かった。

「ラブシックが、欲しくない?」
「……誰よ、あなた」
「欲しくないのかい」
「ラブシックなんて、知らないってば」
「上げてもいい。僕のピルケースの中に、五粒ほど入ってる。ちょうど一回分だ」
「……本当に?」

 喘ぐような声が、桜子の喉から漏れた。
 身体はラブシックの禁断症状から立ち直っても、桜子の心はまだその薬の見せる甘い夢の陶酔を忘れてはいないのだ。

「嘘じゃないよ。僕の質問に答えてくれるだけでいい。難しい質問じゃない。そうすれば上げる」
「……質問って?」
「君が、誰からラブシックを手に入れたのか。それだけだよ。−−僕は警察とは関係がない。それを知って、誰かに密告するつもりもない。ただ、知りたいだけだよ、僕の作った薬を、誰が君たちに売ったのか」
「女の人よ。佐山……笹山だったかな? そんな名前の人。……なんとか製薬の社長秘書だとかって言ってたけど、知らない人よ。会ったのだって、一度きり−−陽子ちゃんとふたりでオールナイトの映画に行ったときに声をかけてきたの。それだけ。それだけしか知らないわ。ねえ、もういいでしょ? 薬ちょうだい。お願い、ホントにそれしか知らないんだから」

 人影が一歩、ゆらりと動いてポケットから出した銀色のピルケースをベッドの上に投げた。
 桜子はせき立てられるようにケースを取り、中に入っていたピンク色の錠剤をいっぺんに口の中に放り込んだ。

「この薬飲んで……みんなどんな夢見たんだろう。あたしね、しょっちゅう一目惚れして、そのたんびにその人の夢を見るの。でもね、知ってるの。ラブシックで夢を見たら−−絶対にその通りの恋はできないんだってこと。夢の中で誰かが言ってくれた言葉は、誰も絶対に私に投げかけてはくれない言葉で……夢の中で誰かが私にしてくれたキスは……誰も絶対に私にはしてくれないキスなんだって……知ってるの。望む通りの恋なんて、できないのよね。でもどうして……みんなそれを欲しがらずにはいられないのかしら」

 その発音は次第におぼつかないものに変わっていった。

「どうしてなのか……僕もそれを知りたかった。だからこの薬を作ったのかも知れないな」

 もう聞こえてはいないのだと分かっていた。
 だがそれでも桜子の言葉に答えるように、ルイス・ウーは小さく呟いた。
 桜子がどんな夢を見ているのだろう、と彼はふと考えた。
 それは恐らく彼女が見る……最後のラブシックの夢なのだ。

 

 

――第5話に続く