ACT5-1;恋のつぶやき
 縁島公営住宅の一角は……今まさに白熱していた。
 その震源地は、A棟一階の弥生葉月宅を中心として、数個の部屋が−−天井や壁に穴をぶち開けるという無謀な方法によってつなげられて形成された「弥生家」である。
 ただでさえ、「一人暮らしの若い人たち」というのは御近所づきあいの槍玉にあげられやすい。まじめに、静かに暮らしていてさえ「愛想が悪い」だの「陰気だ」などと陰口を叩かれる存在におとしめられることがあるのだ。
 ましてやこの「弥生家」の連中のは、夜中に騒ぐ、ゴミの収拾日はきっぱりと無視する(しかも分別すべきゴミをすべていっしょくたに袋に詰め込んでいる)、住人は野放図に(かつネズミ算式に)増えてくる、高校は中退する、女装はする、謎の薬品を調合すると日々の井戸端会議に新鮮な……そして思わず眉を潜めてしまうような噂話を提供し続けていたのである。
 さらに、群島全土を巻き込むベビークライシス−−集団捨て子騒動に便乗し、「ここで稼がずになんとする」とばかりに無認可の保育所をはじめてしまった。
 折しも公営住宅では町内会長選挙のまっただ中である。
 住民の誰もが、

「新しい町内会長が決まれば、きっと何とかしてくれる。きっと何とかしてくれる。きっと何とか…………。きっと…………きっと…………」

 と、ほのかな希望を胸に、弥生家の騒動からそっと目を反らしていたのだ。


 世莉の朝帰りは珍しいことではない。そのまま外泊にもつれ込み、二、三日帰ってこないと言うのも……別に珍しいことではなかった。
 だがルイスが朝帰り−−というのは、あまり日常的とは言えない光景である。

「よ、お早いお帰りで……」

 公営住宅A棟の入り口で待ち伏せしていた世莉が、そう皮肉っぽい口調でルイスに声をかけた。

「……誰か待っているの? こんな時間に」

 世莉がそこにいる理由を気づいていないわけではないのに、ルイスはわざとそうそっけなく言葉を返した。

「駅前でさ、タクシー捨てて路地を抜けた方が近道だって、宙実が教えてくれたんだ。その通りだったよ。……知ってた?」
「ぼくのあとを尾行してたのかい?」
「−−病院には、さすがに入らなかったけどね」
「へえ……あんなところに、何の用だったの」

 ルイスはまだ、シラを切り通していた。


 世莉は−−陽子がそこ収容されているのだと聞いて病院へ行ったのだ。何のためにかは自分でも分からない。
 陽子を脱走させてやろうか……。
 そんな考えが、まるっきりなかったのだと言えば嘘になる。
 弥生家では公営住宅の他の住人たちとの「全面戦争」に備えて武器を確保しようと数日前から軍事学部侵入計画が練られている。
 世莉が「陽子を連れて逃げる」なんていう無鉄砲な考えを抱いたのは……多分その影響に違いなかった。
 だがしかし……相手は警察なのである。
 遊びでは済まされない。
 恋の麻薬ラブシックの虜となり、警察に保護された陽子を、その片思いの相手−−陽子がラブシックに手を出すきっかけとなった自分が助け出す。……確かに筋書きは痛快だ。ハッピーエンドを予感させる展開でさえある。
 だが、所詮……それは世莉の柄ではない。
 好きだと言われて、悪い気はしない。
 あのまま警察の邪魔が入らずデートしていれば、それはそれで楽しかっただろう。
 しかし、だからと言って世莉と陽子が……陽子の望むような関係になれるわけではない。
 結局は病院の入り口でUターンしてしまったのだ。
 病院に忍び込もうとするルイスを見つけたのは、その時だった。


「以前、私がくすねたピンク色の錠剤−−あれがラブシックなんだろう?」

 世莉はそう言って、ルイスの表情をうかがった。
 病院に忍び込んだルイスが、何をしていたのかを詮索するつもりはなかった。

(陽子ちゃんに会うために……?)

 その疑問を、抱かなかった訳ではない。
 ルイスがラブシックのことを探っているのだと言う話は、すでに小耳に挟んでいる。カマをかけて聞き出そうか、とも思ったのだが、下手につついて自分が陽子を脱走させるために病院へ行っていたことを気づかれたくはなかった。案外、ルイスは勘がいいのだ。

「……あれが、ラブシックなんだな?」

 答えないルイスに、世莉はもう一度念を押すように尋ねた。

「……」

 それでもルイスは答えなかった。ただ、小さくうなずいただけだ。
 なにかを知っている……そんな表情だった。

「一発、殴らせろよ」
「……」
「あの薬は、お前が作った。そうなんだろう?」
「……」

 ルイスは……なにも答えようとはしない。
 ただじっと世莉の顔を見つめている。世莉にはそのルイスの表情が、お前と陽子のことを知っているんだと言っているようにも見えた。

「否定しないんだな」

 そう言いながら、世莉が拳を振り上げた。
 避けようと思えば、難なく避けられたはずだった。だが、ルイスは世莉の顔を見つめたまま、身じろぎ一つしなかった。拳が迫ってきた瞬間、覚悟を決めたように目を閉じただけだ。
 がつっと鈍い衝撃が世莉の拳に走った。
 足元をふらつかせるようにして、ルイスが二、三歩後ずさる。ルイスの顔は、殴られた痛みに歪んでいた。
 だが世莉はそのルイスを見つめて……自分が殴られたような気にさえなっていた。
 ルイスの頬をとらえた拳が、じりじりと痛む。

「ラブシックは、ぼくのオリジナルの薬じゃないよ。ラブカウントって麻薬を調べていた最中にできた、改良型だ。……肉体的依存性を抑えた、ね。答えには、なっていないかも知れないけど」
「……ラブカウント?」
「アメリカで少し前に流行した謎の麻薬だよ。出所がCIAだとか、軍だとかって噂もあったけど……今じゃもう覚えている人は少ないだろうな。ぼくも、偶然そのサンプルを手に入れるまでは名前も知らなかった。ほんの一時期だけ市場に出回って、警察が動き出すのと同時に姿を消したんだ。……廃人になった中毒患者十数人を残してね。−−多分、実験だったんだと思うよ。その麻薬の効果を確認するための……人体実験だったんだ。そして、今回のラブシック騒動も……」

 ルイスはそこまで言って、言葉をとぎらせた。
 自分がその薬を作ったのだと認めておきながら、ルイスの口調はひどく他人行儀なものだった。

(ルイスもまた−−利用されたんだ)

 世莉は、そう気づいた。
 だからもう何も、それ以上のことを口にすることはできなかった。

 ラブシックを作ったのは、確かにルイスなのだ。
 だが……誰かもっと別の者がその薬を−−ルイスさえ知らない場所で、陽子たちの間に広めたに違いない。

 

 


ACT5-2;恋を見つめる目
 倉庫の在庫チェックの結果を報告しようと広田がオフィスを覗いた時、稟はサクマドロップスの缶を見つめて、ぼぉーっと考えごとをしていた。
 すでにこの光景は、広田にとっても他のバイト連中にとっても見慣れたものとなりつつあった。

「あのぉー、店長。紙ナプキンとストローの在庫がですね……」

 そう声をかけてみたが、反応なんかあるわけはない。

(ダメだ、また自分の世界に没入している……(^^;))

 ラブシック騒動が起こるまでは、在庫管理をバイトに任せることなんてなかった稟なのだが、このところは広田がこうして時折チェックを入れなければ業務に支障をきたしかねない。

(私が倒れる訳には行かないわ。しっかりするのよ、稟。ここのバイトの子たちを守れるのも、赤ちゃんを世話できるのも……私ひとりなんだから。こういう時こそ、持ち前のしっかり者の威力を発揮しなくてどうするの)

 本人は自分を叱咤激励しているつもりだが、その実、単に煮詰まっているだけである。
 ……こういうタイプが、一番ノイローゼに陥りやすい。

「あのですね、店長」

 広田がオフィスの扉を開け、もう一度そう声をかけた。

(おろおろしてちゃダメよ。……そんなの、似合いやしないんだから。もう、決めたことなんだから……)

「店長ぉーーー」
「えっ?」

 三度目に呼んだ広田のその声で、稟は驚いたように振り返った。

「……やだわ、広田くんたら、オフィスに入るときはノックしてくれなきゃ(^_^)。それとも、驚かそうと思ったの?」

 もちろん……広田にはそんなつもりは毛頭ない。
 再三ノックをしても稟が全然気づいていなかっただけだ。
 そして広田を振り返ったときの笑顔は、その心労による憔悴ぶりを如実に伝える作り笑いだった。

「店長、具合悪いんじゃないですか?」

 広田は稟の顔を見て、ついそう言わずにはいられなかった。
 明らかに体調を崩している稟を気遣って、アルバイトの娘たちが彼女の仕事を減らそうと頑張っているのだが、その五分、十分の休憩さえ……こうして考えつめているのだ。……どう考えたって、神経が休まるわけはない。

「大丈夫よ。昔っから、健康だけが取り柄なんですもの。さ、お仕事しなきゃ!」

 そう言って、稟は机の上いっぱいのサクマドロップスの缶を片づけ、パソコンのスイッチを入れた。売上計算のプログラムを立ち上げて集計を始める。

「……あ、広田くんの用事を先に聞かなくちゃね。ええと、何だったかしら?」
「紙ナプキンとストローの在庫のことです。忘れずに注文しておいてください」
「そうね。そろそろ切れるころだったわね……」
「じゃあ……仕事に戻ります」
「あ、広田くん……」

 オフィスを出ようとした広田を、稟が呼び止めた。

「……何ですか?」

 その改まった口調に、広田は振り返った。
 稟の顔からは作り笑顔が消え、どこか思い詰めたような……もとの表情に戻っていた。

「明日にでも、ゼロワンSTAFFの方へうかがおうと思うの。……私がお願いした仕事のことでね。……でもその前に、できれば広田くんから社長さんに伝えて欲しいのよ」
「社長に伝えるって……何をです?」
「本社の方からの指示もあって、更衣室の天井裏から見つかった……この缶のことを警察に知らせることに決まったの」

 稟は、広田の顔をじっと見つめてそう呟くように言った。
 広田にとっては−−そして多分中川にも、ゼロワンSTAFFのスパイのすべてにとってその稟の言葉は、覚悟していたものだった。
 この店でアルバイトをしていた橋本陽子が警察に保護されたときから、いずれはこうなるだろうと誰もが感じていた。

「分かりました。−−そう、社長に伝えておきますよ」
「中川さんやあなたたちには申し訳ないことになってしまったわね。何の相談もせずに決めてしまって……」
「仕方ないでしょ。店長だって、会社の方針には従わなくちゃいけないんだから……」

 広田はそう言って、笑顔を作った。
 表面上はなごやかな感じだが、作り笑いの応酬である。
 この話を聞けば、中川は穏やかではいられないだろう。実際、広田だってこのままラブシックのことを調べたいという思惑がないではない。
 香南を立ち直らせることで手一杯になっているマイヤーの代わりに……ラブシックをばらまいている奴をぶん殴ってやりたい−−その思いは広田の中でまだくすぶっているのだ。
 それを横から警察にかっさらわれるのは、確かにおもしろくない。
 だが……それを稟に言ったところで、どうなるものでもないのだ。

(ぼくも、社長も……結局正義の味方には……なれない訳だ)


(……に、しても、社長になんて報告しよう……(^^;))

 八つ当たりされるのは……中川の性格を考えれば必至である。

 

 


ACT5-3;恋のスパイに課せられた使命
 うずうずしている。
 そのうずうずが渦をまいてゼロワンSTAFFの狭いオフィスに充満し、異様な圧迫感を醸し出している。
 うずうずしている。
 うずうずうずうず……。
 一瞬、中川と綾子の目があった。
 そしてぱっと離れる。
 そんな事がこの二時間ほどの間に……すでに四十二回を数えている。

「……なんかこう……肩懲りませんか?」

 赤ん坊のオムツを替えながら、羽山が二人を振り返った。
 幸か不幸か、彼は中川と綾子の間に流れるうずうずには、まったく気付いていない。
 そのうずうずが、二時間前に羽山のもらした−−、

「赤ちゃんもいることだし、オフィスは禁煙にしましょうよ」

 という一言から渦巻き始めたのだと言う事にも、もちろん気付いているわけはない。
 長年使い馴れた眼鏡をやめてコンタクトレンズに替えたばかりの羽山の視界は、涙でちょっと曇っている。ただでさえ観察力の鈍い羽山がそんな調子で……しかも山ほどの赤ん坊の世話をしながら目に見えない「雰囲気」を察するなんてことができるわけはないのである。
 それができるくらいなら、羽山以外には社長と「先輩」一名しかいなかった寺島探偵事務所で、いつまでも「見習い」と呼ばれてはいなかったはずだ。

(……タバコが……吸いたい……)

 綾子は中川に渡された書類に没頭して、なんとかその誘惑を断ち切ろうとしていた。

(田中製薬の秘書が……専務と浮気……浮気……ええええーーーいっ、人がタバコの一本も吸えないでいるってのに。何が浮気だっ、不倫だっ、反省しろぉぉぉぉぉ)

 築地綾子は、いわゆるヘビースモーカーである。
 一日に平均一箱以上のタバコを灰にしている。もちろん、大学で講義中にはタバコは吸えないのだから二時間や三時間吸わなくたって別にどうということはないはずだった。
 だが、

「禁煙ですよ」

 ……とわざわざ言われてしまうと、吸おうと思ってはいなかったタバコも吸いたくなってしまうのが人情である。
 そして……綾子のうずうずが始まった。
 さらに五分と経たないうちに、そのうずうずは中川に伝染したのである。中川は、基本的に喫煙者と明確に区分はできない位置にいる。ときどき、思い出したように一服するくらいのものなのだ。
 だが、そのうずうずのせいで……無性にタバコが吸いたくなった。
 いわゆる「喫煙者が密室で十本タバコを我慢すると、非喫煙者も一本我慢したのと同じだけの忍耐力を必要とされる」という効果である。
 いや……本来ならばそれは「喫煙者が密室で十本のタバコを吸うと、非喫煙者も一本吸ったのと同じだけの害がある」……という奴なんだと思うが、それはとりあえず横に置いといたところで差し障りはないだろう。

「築地……ちょっと出るか?」

 禁煙のうずうずの渦に、最初に根を上げたのは中川だった。
 人差し指と中指を口へ持って行き、タバコ吸おうぜ、のサインを送る。

「行きますっ!」

 座学の講議の最中に訳の分からない大げさな身ぶり手振りで送ってくる某軍事学生Cのブロックサインに比べれば、分かりやすいジェスチャーだった。すぐに意味を理解して笑顔になった。読みかけの書類を放り出さんばかりの勢いで立ち上がる。
 だがもちろん、そんなサインを理解する羽山ではない。端から見れば中川のその仕草は「投げKISS」にだって見える代物なのである(^^;)。

「赤ん坊の世話……頼んだぜ。もうじきまぐまぐのバイトが終わって加賀美が帰ってくるから、あいつにも手伝ってもらえ」
「あのー、社長。ぼくにはスパイの仕事は……」
「ま、それも修行だと思え(^_^)」

 そう捨て台詞のように言い放って中川は綾子を伴って出て行ってしまう。羽山は、反論の言葉さえ思いつけずにその後ろ姿を見送った。

「ベビーシッターのバイトに応募した訳じゃないんだけどなあ」

 羽山はミルクを飲み終わった赤ん坊を抱き上げ、げっぷをさせてやった。その手付きも、すっかり板についてきた。

「……それにしても、ここの社長さんが女好きで社員の女の子全部に手をつけてるって噂……ホントだったんだなあ……」

 赤ん坊の背中をさすってやりながら、羽山はそうぽそりと小さく呟いた。


 もちろん、中川は下心を抱いて綾子を連れ出した訳ではない。
 バックにマイヤーや名刺屋の控えた軍事学部の学生と火遊びをするほど度胸のいい性格はしていない。
 中川と綾子のふたりはアブシンベル縁島から歩いて数分のところにある喫茶店「うぃんずている」に入り、注文を言うより早くタバコに火をつけていたのである(^^;)。

「禁煙って……ツライですよね……。私思わずトイレに隠れて吸おうかと思っちゃいました」
「……中学生や高校生じゃねえんだからよ(^^;)」


 しかし……遠く離れた(注/羽山の尺度による)「うぃんずている」で旨そうに煙を吐いている中川と綾子の安堵のため息は……ゼロワンSTAFFのオフィスには伝わってはこない。

「……あれ? 克っちゃんドコいっちゃったの?」

 ほとんど二人と入れ違いに帰宅した真奈美の……第一声がそれだった。

「……ええと、そのですね(^^;)」

 勘の鈍さではたぶん右に出るものはないだろうと思われる羽山だが、さすがに三日もオフィスに詰めてベビーシッターをやっていれば、中川と真奈美がどういう関係なのかは把握できる。(もちろん羽山にそれらの情報を入れ知恵したのはユッコを初めとするオフィコンの姐御たちである)
 中川と綾子が意味あり気にふたりっきりで出て行った……などと真奈美に言えるはずがない。
 ……これでなかなか、気配りの男なのである(^^;)。

「ちょっとそこまで用を足しに……」
「……用って?」
「あ、あのですね。綾子さんが……いや、その綾子さんは関係なくて、社長さんはですね。つまり……ちょっとホントに近所の……ええと、スーパーかな(^^;)?」

 本人は必死だった。
 それは純粋に「社長御夫婦の仲に水を差すようなことを言っては……」という気配りから出た言葉だった。
 しかし……残念ながらフォローにはなっていなかった。
 所詮、正直が取り柄の男なのである。
 そしてその羽山のしどろもどろの説明を聞けば……ゼロワンSTAFFで羽山の次に鈍感な(注/中川談。本人にはナイショだよっ☆)正義のスーパーヒロイン(MIL公認……?)の真奈美でもコトの次第は察しがつく。

(克っちゃんのすけべっちーーーーーーー)

 繰り返すが、別に中川は下心を抱いて綾子を連れ出した訳ではない。
 授業をさぼって喫茶店にタムロする高校生よろしくふたりでコーヒーふたつが言い訳のように置かれたテーブルを挟んでタバコの「吸い溜め」をしていただけである。
 だが、そんなことを羽山と真奈美のコンビに察してもらえるほど、中川の「そっち方面」の噂はきれいなものではない。……加えて、実際の生活も決して清いものではない。
 まあ、自業自得というものだ。
 真の意味での被害者はタバコひと箱を空にして、律儀に自分のコーヒー代を差し出し、そのころオフィスで自分が女たらしの社長とあらぬ噂を立てられていることなどつゆ知らず、

「じゃあ、時間もないし……このまま山田製薬に行きますっ」

 ……と、元気に初任務に出かけて行った築地綾子の方なのかも知れない(^^;)。

 

 


ACT5-4;恋の影にうごめくもの
 綾子は山田製薬の社長室に隣接したオフィスで入社案内のパンフレットを読みふけっていた。
 潰れかかった経理の内情まで聞きかじっている製薬会社に……入社したいなどと思っているわけでは……もちろんない。
 そうでもしなければ、暇でたまらないのだ。
 綾子は、表向きはゼロワンSTAFFのオフィスコンパニオンとして社長秘書の補佐をするために派遣されてきているのだが、仕事なんか一個もないのである。
 社長の山田は、零細企業である自社の経理状態をあまり性格には把握していないらしい。いや、あるいは単なる見栄っぱりなのかもしれないが、秘書を三人も抱え込んでいるのだ。
 秘書としての仕事は主としてそのうちの二人がやり、三人目の秘書である笹倉加世子の仕事は、電話の応対、お茶汲み、コピー取りに社長室の整理整頓……まさに社内オフィコンなのである。(そしてこの笹倉こそ、問題の不倫秘書だった)
 そんなところへ派遣のオフィコンが−−しかもにわか仕込みでお茶汲みのタイミングも知らない綾子が紛れ込んだところで、仕事なんか見つけ出せるわけはないのである。
 忍武がここへ三日も通って生け花に精を出していたんだと言う話にも、何となくうなずけてしまったりする。
オフィコンとしてではなく、プログラマーという肩書きで潜り込んでいた忍武に本当に仕事がなかったのかどうかは……甚だ疑問ではあるのだが、そんなことは綾子にとってはつまらない入社案内のパンフレットと同じくらい「どーでもいいこと」だった。

(でもまあ……花を生けろとか、お茶を点てろとか言われないだけマシか……)

 あくびを一つ、小さくもらす。
 十回も繰り返して読んだパンフレットを元通りに棚へ投げ込むと、ポケットからタバコの箱を取り出して、さっそく一服する。
 このオフィスが禁煙でないのは……涙が出るほどうれしい事態だった。

(きょんに邪魔されず、赤ん坊の泣き声も聞こえない午後……ちょっと退屈なのを我慢してればお金がもらえる……。病みつきになりそうな仕事だわ)

 ……この娘も、割と順応は早い(^^;)。

「築地さん、ひと休みしてお茶でもいかが?」

 社長室とオフィスを行ったり来たりしていた加世子が、綾子にそう声をかけてコーヒーのカップを差し出した。
 暖かいカップにはインスタントではないコーヒーが注がれ、角砂糖一個、生クリームのパックが一つとチョコレートクッキー二枚がソーサーに添えられている。

「ありがとうございます(^_^)」

 お茶汲みを名目に会社に紛れ込んで、お茶を入れてもらっている辺りの……その天性の図太さは確かにゼロワンSTAFF向きの性格なのかもしれない。

 加世子も綾子の向かいに腰を降ろし、クッキーを口に運んだ。
 年齢は二十五才だと、確か書類には書いてあった。仕事をしているときは陰気そうな感じだったが、お茶を飲みながら世間話をしているとゼロワンSTAFFにいた本職のオフィコン連中と余り変わらない印象を受ける。

「恋人はいる?」

 灰皿に綾子の吸った吸いがらが三本たまったのをめざとく見つけて加世子は腰を浮かせた。
 灰が飛び散らないよう用心しながら新しいものと交換する。

「恋人ですか? 別に決まった人は……」
「大学生でしょ。……人生で一番恋が楽しい時期よね」

 そう呟いて、加世子は夢見るような表情を作った。

(専務と不倫か……確かにありそうな話ではあるけど……)

 社長の山田が心配しているのは、単なる不倫そのものではない。
 専務が笹倉を通じて山田の弱みを掴み、会社の乗っ取りを画策しているのだと言うのだ。
 しかし……少なくとも綾子が見る限り、加世子はそういうシャープな女ではなかった。
 専務が会社を乗っ取ろうとしている……という山田の言葉に関しては、前任者の忍武のさらに前任者のアーマスの時点で、

「おっさん(注/山田社長のことである(^^;))の誇大妄想だと思うけど……」

 という結論が出されていた。
 経営の傾いた会社を乗っ取ったところで……転がり込んでくるのは負債の山ばかりなのだ。専務に借金を返す趣味でもあるならともかく、乗っ取って楽しい会社ではあり得ない。

「あのおっさん、笹倉さんに気があるんじゃないですか。結構……スケベな目付きで見てましたよ」

 ……とは、前任者忍武の言葉である。
 ぼんやりとそんなことを考えていた時、ヴィジホンのコールが鳴った。

「あ……出ます」
「いいのよ。私が……」

 そう言って、綾子を止めると加世子はヴィジホンに向かい、スイッチを入れた。
 画面に問題の「不倫相手」専務の顔が一瞬映し出された。が、すぐに加世子はハンドセットのみの通話に切り替え、声を潜めた。

(デートの打ち合わせ……?)

 だとすれば大収穫である。

「しかし……あの薬が……」

 それまでうなずいたり相づちを打ったりしているだけだった加世子が、不意にそう言葉を漏らした。

(……薬? なんだ、仕事の話か……)

「しかしそれでは社長にも……いえ、まだ気づいてはいませんが……いずれは……はい研究室の者たちも……今はちょっと……。ええ、じゃあ、お約束の時間に……詳しいことはお会いしたときに……」

 加世子はそう言ってハンドセットを戻した。
 デートの話ではなさそうだった。しかし、仕事の話であるにしてはこそこそとし過ぎている。

(案外……山田のおっさんの勘が、当たってるのかもしれないな)

 綾子はそう口の中で呟き、くわえていたタバコの灰を落とした。
それが会社の乗っ取りかどうかはともかく、専務と笹倉加世子がなにかをたくらんでいることは確かなようだ。

(ま、その辺業務メモに書いとけば、とりあえずクビにならずに済みそーかな)

 

 


ACT5-5;恋の家族計画(^^;)
 鍵が……壊れていた。
 そして扉には、

『ロックバスターじろきち君参上』

 ……と、暴走族の落書きのように書き殴られている。
 鍵を壊すのは、いい。
 いや、どこも良くはないんだが、ともかくそれはもう諦めた。
 だが何も鍵が壊れていることをデカデカと書き記していくこたぁないんじゃないか。
 イヤガラセってよりは……これはすでに犯罪の域に達しているぞ。俺は忘れちゃいねえんだ。アブシンベル縁島には、五年前に一件、十年前にも一件の空き巣狙いが入っている。
 ……盗んで楽しいモノは持っていなくても、盗まれて悔しいガラクタはいくらだって溢れ返っている。だから俺はこうしていちいち施鍵には気を使っているんだ……。
それを……それをあの爺いはまるであざ笑うかのように……………っ!

「克己ちゃん、何を喜んでるの」
「喜んでるんじゃねえっ!!!!」

 そう叫んで、ハタと顔を上げたとき中川はチャン・リン・シャンと目があった。
 そして次の瞬間−−そのチャンの表情がにやりと笑った。

「………………なぜおまえがここにいる、名刺屋」
「うははははははははははははははははははははははははははは」

 追い打ちをかけるように奥の部屋からその笑い声が聞こえてくる。
 泣きっ面に蜂というコトバがある。
 だが、蜂に刺された方がまだマシって事態もあるのだ。

「克っちゃん、ドコ行ってたの?」

 奥の部屋から顔を出した真奈美が……チャン・リン・シャンの前でへたり込んでいる中川にそう声をかけた。
 その顔が、ちょっと怒っている。

「克己ちゃんもやるわよねえ。ウチの学部の娘に手を出すなんて……。そーだ。ポンッ マイヤーに教えたら面白いかなぁ」

 チャンがそう脇から口をはさむ。

「……は?」

 真奈美とチャンが何を言っているのか……中川が即座に理解できた訳はない。
 「うぃんずている」で綾子と別れた後、さらに三本タバコを吸って、コーヒーを二回お代わりをし、ラブシックの事件についての記事の載っている週刊「オリエント」を読んで明日の分の茶菓子を買って帰宅した自分の行動に……やましい所なんか一個もない。

「わんたんにぜーんぶ聞いちゃったんだからね」
「なんだそのわんたんってのは」
「羽山ちゃんのコトだってば」
「訳の分からないあだ名をつけるなよ……。で、羽山が……なんだって?」
「克っちゃんが綾子連れて昼間っからえっちなことしに行ったって」
「…………」

 顎がはずれるほど……驚いた。

「まあまあまあまあまあ、真奈美くん。浮気は男の甲斐性というぢゃないかね」

 フォローのつもりなんだろうが、フォローになんか全然なっていない三宅の言葉が、さらに発せられる。

「真奈美ちゃん、気を落としちゃダメよ。克己ちゃんが浮気して構ってくれない分、おねーさんが遊んで上げるからね」
「誤解だっ! 何で俺が築地と浮気なんかしなきゃならねーんだ。俺はただタバコが吸いたかっただけで……」

 ふたりのパワーに比べ、中川の反論など、空しいばかりである。
 相手が一人でも勝ち目がないのに……ダブルでやられて歯が立つわけはない。

「いるのよねえ、やるコトやったらすぐ背中向けてタバコ吸いはじめちゃうオトコって」
「いやいやいや、チャンくん、あれでなかなか男も照れくさいもんなんぢゃよ」

 しつこいようだが、三宅はこれでもフォローしているつもりである。

「……克っちゃんて……案外イジメられっ子なんだね……」

 新妻も怒りを忘れるほどのパワーである。


いや……とりあえず三宅とチャンは浮気を責めに来たわけではない。
 築地と示し合わせて出て行ったのだという話を耳にしたのはほんの偶然、ナイスタイミングってなもんなのだ。
 ふたりが揃ってゼロワンSTAFFにやってきたのは、このところ恒例となりつつある、晩ご飯の材料の宅配サービスの為である。
 本日のメニューは中華。
 中華と言えばチャン・リン・シャン。
 というなし崩しの論法で三宅はチャンに声をかけたのだ。チャンにとっては……待ってましたと言わんばかりのチャンスである。

「中華の基本は材料よっ!」

 ……とヴィジホンの前で拳を振り上げ、その足で会社に早退を告げて横浜中華街へと繰り出したのである。
 買い物となれば、チャンに自制などと言う言葉はない。
 しかもそれが「新婚家庭の幸せのため(注/三宅の言葉を引用)」だと聞けば、けた外れの性格に、さらに拍車がかかるというものだ。
 そして中華街までハイヤーで乗り付けたその料金も、数万円に及ぶ買い物の代金に上乗せするコトを忘れなかった。

 そのレシートを見て、中川が言葉を失ったのはほかでもない。
 そしてまた、キッチンの片隅に水引付きでさりげなく置かれた段ボール箱ひとつ分の「明るい家族計画」(注/チャンによる心ばかりのプレゼント)には、中川はまだ気づいていなかった。