Act4-7;逆転満塁ホームラン
「……何だろうな、部長の話って?」

「さあな、俺たちは仕事に精出せばいいんだよ。さてっとシステム部に電話……と」

 石岡の出て行った扉を睨んだままぼやくように言った江川の言葉に、宇佐見がそう言葉を返し、ヴィジホンに手をやった。
 だが、水沢がその宇佐見の行動を阻むように立ち上がった。

「システム部に連絡するのは課長が帰ってからの方がいいと思うよ」

「……水沢、お前やっぱりなんか知ってるんだろう?」

「――僕はね、あんたたちの悪巧みには興味はない。でも部長はそうじゃなさそうだ。そういう顔をしてたよ」

 そっけなく言って、コーヒーメーカーの方へ歩く。
 すでに煮詰まりつつあったコーヒーを大振りのカップに全部注いで、粉末のクリームを振り入れた。ちょっと口をつけて味を確かめる。ひどい味だが、飲めない事はない。それだけ確認するとカップを持って自分のデスクに戻った。
 そして何事もなかったように仕事を始める。

(……なに考えてやがるんだ、こいつ)

 宇佐見は胃の底にわだかまっている腹立ちを、水沢にぶつけたい衝動にも駆られていた。企画部長の呼び出しは、恐らく人事に関する用件であるに違いない。

 石岡が企画部長との話を終えて本社ビル裏手の喫茶店に現れたのは約束の時間を三十分も過ぎてからだった。

「待ってるとは思わなかった」

 窓際のテーブルについて本を読んでいた浩二を見つけてずかずかと歩み寄り石岡が珍しく荒い口調でそう言葉を放った。

「……話したい事がありましたからね。あなたは企画部長と会ったあとでも必ず現れる、そう思ってましたから」

 浩二の口調は静かなものだった。
 だがその言葉だけで、企画部長の言葉の裏に浩二の存在があることを石岡に気付かせるには充分だった。

『19号プロジェクトは企画三課から、来週増設される事になる企画四課に移る。君と、君の五人の部下の今後の事については吉沢派遣とも相談して決める事になるだろう』

 企画部長の言葉はきわめて事務的で、冷淡だとも感じさせた。
 ようやく厄介払いができて清々すると言わんばかりの……満足そうな表情で石岡を見つめてたときの、あの「狸親父」の顔を、一生忘れる事はないだろう。

『今……この会社は微妙な時期にある。君と君の部下の能力を買ってこれまでたいていの事には目を瞑ってきたが、君もそろそろ腰を落ちつける場所を探すべきじゃないのかね。いつまでも派遣社員でいる男ではなかろう? うちとつき合いのある三友建設がリゾート開発の企画室に君を部長待遇で迎えたいと言っているそうだ。勿論、あの五人も一緒に、な。吉沢さんとも話したんだが……その方が君の能力を生かせるだろうと思ってね。プロジェクト半ばで派遣とは言え課長クラスの社員を外に出すのは不本意だが、引き留めても現在のプロジェクトのあとの地位を保証できる状況ではないのでね。19号プロジェクトに関してはとりあえず水沢を課長代理という事にして四課に回す事になったんだよ。詳しい事は、吉沢さんから聞いてくれ』

 三友建設は三友グループの系列にあるとは言え、建設業界ではいわゆる「準大手」にランクづけされる会社だ。大手ゼネコン7社に数えられる佐々木建設とははなから格が違う。部長待遇とは言っても事実上は降格である。

(義一副社長が……神野とのつながりを知ったのか)

 狸親父の脂ぎった顔を見つめて、石岡が最初に思いついたのはそのことだった。
 浩二を傀儡に据えて佐々木建設を意のままに操ろうとするDGSと巧みに裏で連絡を取り合いながら……そのさらに裏で西崎の持つ株を奪い、浩二を名実共に佐々木建設の社長に仕立て上げようとした石岡のその企みは、足元から崩れてしまったのだ。

 しかもその石岡の野望を打ち砕いたのが……事もあろうに佐々木浩二だとは……。

「意外だった……という表情ですね。ですが、私はあなたに警告したはずですよ。かかわり合いにならない方が身のためだ、と。神野さんとあなたのつながりに気付いたのは、僕だけではないはずだ。そして兄なら……あなたを完全に破滅させるでしょうね。おとなしく三友に行って下さい。もう二度と僕の前に現れない事を誓って……。そうでなければ……」

「そうでなければ……? どうするって言うんです」

「兄のやろうとしていることを僕が代わってするまでです。見くびってもらっては困る。あなたは僕が……佐々木辰樹の息子なのだと言う事を忘れている。僕にだって、牙はある。あなたが神野さんと通じていた事を表沙汰にすれば、どうなるかを考えてみる事ですよ。背任罪は派遣社員にも例外なく適応されるのだという事を知らないわけではないでしょう? あなたはそういう契約で吉沢派遣から来ているんだ。……あなたの部下が銃刀法に違反している事だって、表沙汰にするのは簡単ですよ」

「……」

 石岡は唇を咬んで浩二を見つめた。
 誤算だった……と言える。
 浩二が土壇場でここまで粘りを見せるとは思ってもいなかった。

「社長の座を……むざむざ義一に明け渡すと? あなたは環境保護団体を敵に回して開発を続ける事を、西崎や体裁ばかりを気にかける重役たち以上に嫌っているはずだ」

「勿論、これ以上の乱開発には反対です。だからこそ、僕は兄に賭けているんです。兄なら西崎より……DGSより、ひょっとしたら死んだ父より大きく社を育てていく事ができる。父の遺した夢を叶え、同時に環境問題にも取り組む大きな器に……佐々木建設を育てていく事ができる」

「その佐々木義一さんがスパイを使い、薄汚い手段で社長の座を確実なものにしようとしていることには目を瞑ろうって訳ですか、浩二さん」

「……往生際の悪い人だな、あなたも」

 浩二は一度は浮かしかけた腰を再び椅子に戻した。
 その浩二の前に、石岡は旧式のウォークマンを取り出して見せた。

「差し上げますよ。義一副社長のスパイ……坂井って名前らしいですね。そのスパイの連絡係をしている未成年の少女と義一さんとの会話が入っています。うちの課の隣に会議室、あるでしょう。あの部屋……全然使ってないからそういう込み入った話をするのに絶好のロケーションと思ったんでしょうね。盗聴機には気を使っていたようだが、通気ダクトを通じて声が奥のトイレに筒抜けになる事は義一さんはご存じなかったらしい」

「そんなものを聞きたいとは思いませんね。少なくとも兄は……弱みにつけ込んで人を脅すような真似はしないはずだ。僕の心配より……あなたは自分のことを……」

「未成年の少女をスパイとして使い……金を渡す。これってヤバいんじゃないのかなあ。この会話の最後の方にね、明らかに金の受け渡しをしているらしい言葉が交わされてるんですよ」

(……兄さんが、石岡につけ込まれるようなヘマをするはずはない)

 浩二にはその確信があった。
 だから石岡の言葉にも……眉ひとつ動かす事はなかった。

「そのテープを表沙汰にしたいと言うのなら……止めませんよ。あなたはやけどをしてみなければ火の熱さを分からない人のようだ。ただ、これだけは言っておきます。兄も、そしてあなたが利用しようとしているDGSという組織も……あなたひとりの力でどうこうできるちっぽけなものではないんだ。犯人が誰かは僕は知らない……だが恐らく、父は暗殺されたんだ。あなたや……神野さんが考えている通りにね。そしてその犯人は、佐々木建設とDGSの間に立ってひとり甘い汁を吸おうとしているあなたを許しはしないはずだ。これは警告です。すぐに手を引いて……三友建設へ行って下さい。私はあなたが嫌いだが、あなたが陥れられ、傷つくのを見たくはないんです」

 それだけを捨て台詞とばかりに言い放つと、浩二は伝票を取って席を立った。
 店を出ていく浩二を追うように、ひとりの男が席を立ったのを、石岡は視界の端で捕らえ……そしてすべてのからくりを見た心地になった。
 レジで金を払いながら、石岡に老獪な微笑を向けている男……浩二の第一秘書である秋山が、浩二の手足となって企画部長を動かし、吉沢派遣と三友建設に話をつけて今回の突然の人事移動を手配したのだ。
 そして秋山は……渡米するまで、佐々木義一の秘書だった。実業家としての義一を育て、三年前、義一の渡米と前後して大学を卒業し、入社した浩二をも育てた社内随一の切れ者として知られる男。
 その秋山が、石岡を悠然と見下して勝利の笑みをもらしている。
 だが石岡浩之はその秋山の表情を見つめてもまだ、敗北を認めようとはしなかった。

(……神野がいる。神野を使えば、逆転満塁ホームランもまだ夢じゃない)




Act4-8;忘れ得ぬ過去
(今日の晩飯は「こうじや」に集合だって言ってたっけなあ……)

 自宅に戻って仮眠を取っていたアーマスは、冴えない起き抜けの顔を鏡に映してため息をもらした。
 化粧は完全に落としたと思っていたのだが、まだ目尻にアイシャドーが少し残っている。わき腹に食い込んだワイヤーのあとはまだ少し痛んだ。くっきりと残った痣が消えるには二、三日はかかるだろう。
 だが……アーマスが黄昏ているのは「女装」のせいではなかった。
 いや、それも少しはあるのかも知れないが、一生に一度くらいの「女装」はビールの三杯も飲めば笑い飛ばせる部類の事だ。
 アーマスをどんよりと落ち込ませている原因……それは二時間ほどうとうとしたその仮眠の最中に見てしまった夢のせいだった。
 そして、そもそもそんな夢を見たのは、あの「名刺屋」と「白薔薇のホステス」のせいなのだ。

(ローリー……)

 そうかつての恋人の名を口の中で呼んでみた。
 いや、かつて恋人だと思っていた……女の名前だ。
 忘れられるわけはない。まだ、たった一年しか経っていないのだから。
 チャンや夜木が言ったように、甘かったのかも知れない。あんな嘘に騙されるなんて、愚かな事だったのかも知れない。
 だが……夢に出てきた彼女の幻が、今も彼女に抱く自分の未練をアーマスに教えてくれた。
 結婚詐欺を働くような、狡猾な女には見えなかった。
 それが事件の全容を知ったときにアーマスの呟いた言葉であり、今も彼女を忘れさせない原因でもあった。
 ローリーは……いや、ローリーと名乗っていたあの女は、決してモデルや女優のような美しい外見を持ってはいなかった。ハイスクールのクラスメイトたちに「可愛い」と言われる程度の、平凡な容姿だった。
 そしてアーマスが惹かれたのも、彼女の外見ではなく気さくで明るい彼女の性格だった。

『元気がないみたいだけど……何かあったの?』

『何でもないわ』

『言ってみろよ、何だって相談に乗るから。もうすぐ結婚するんだ。俺は婚約者がそんなふさぎ込んでいる顔をしているのを黙ってみていられるような男じゃないぜ』

『……だめよ。あなたに負担をかけるようなこと、できないわ』

『負担? 何が負担だよ』

 あの言葉が事件の発端だった。
 ローリーは自分からは何も言わなかった。アーマスに問いつめられて入院中の母親の事を打ち明けただけだ。

『病院って……お金がかかるでしょう? うちは父もいないし、蓄えだって、ね。入院費と検査代だけで精いっぱいなの。医師は手術を勧めてくれたけど……とっても金がかかるの。だからもう、覚悟を決めるしかないの。死にかけている母に何もできないのは辛いけど、でも、しかたないわ。お医者様、とっても良くして下さって、数カ月保てばって言われた母が……もう二年も生きてくれたんだもの』

 アーマスには彼女のその言葉を疑う事などできなかった。
 その足でローリーの母が入院しているのだという病院へ行き、死を待つ彼女の母親に会った。医師とも会い……手術をすれば助かる可能性はあるのだと聞いて、即座に自分の会社を処分する事を決意した。

『俺たちはまだ若いんだ。いくらだってやり直しができるさ。今は、お母さんの病気を治すことに全力を尽くそう。……会社はまた作ればいい』

 死にかけた老婆が……幼い頃に死に別れた自分の母のように思えていた。母を失った記憶が、アーマスをせき立てていた。
 そしてその焦りが、女詐欺師に付け入る隙を与えたのだ。
 会社を手放し、それまでに開発したソフトウェアの権利をすべて売り払ってアーマスの用立てた金を持って、女はその日のうちに姿を消した。
 ローリーが母親だと言っていた老婆は、彼女とはまったく無関係の天涯孤独の身の上の病人だったのだ。数カ月に渡ってローリーはその病人の面倒を見続け、甲斐甲斐しく世話をしていた。
 だから病院の医師や看護婦も……誰ひとりとしてアーマスを連れて病院を訪れたローリーに何の不審も抱かなかったのだ。
 やがて警察は事件の迷宮入りをアーマスに伝え、他の州にも同様の手口で騙された実業家が複数いることを教えてくれた。だがそれも……どうでもいいことだった。
 病院からの連絡であの老婆の死を知ったときも、不思議なほど気持ちは冷めきっていた。
 何もかも失い……手元に残ったのはわずかな金と失意。そして苦い記憶だけだった。

『新しい土地へ行こう。新しい場所で……もう一度何もかもやり直そう』

 その思いに引かれるようにして、アーマスはこの人工群島にたどり着いた。

(ダメだダメだダメだぁぁぁぁっ、ローリーの事は忘れるって……忘れて前向きに生きるって決意したはずだろうっ! しっかりしろ! 黄昏てる場合じゃないんだっ!)

 がばっとベッドに倒れ込んだ。
 ベッドサイドのラックには、ローリーと並んで撮った写真がフォトスタンドに入れて飾ってある。この写真のコピーは警察に渡した。だが、それでもローリーを見つけだす事はできなかった。

(未練だ……)

 写真一枚、どうして捨てる事ができないんだろう……と考え始めると、再びどんより落ち込んだ気分が戻ってきてしまう。

(こういうときは、おめでたい奴らの顔を見て、ぱぁぁぁっと飲んで寝ちまうに限る)

 アーマスは立ち上がり、上着を掴んだ。
 行く先は勿論、「佐々木ファイブ(仮)」が集合しているはずの「こうじや」である。

 そしてその頃、「こうじや」店舗奥の座敷には、気まずい沈黙が流れていた。
 なかなか帰ってこない坂井を、三人の男が卓袱台を囲って待っているからである。その面子は、広川庵人、杜沢跡見、中川克巳。どう考えても、共通の話題を見つけだす事のできなさそうな……そして色んな意味でマイペースの男たちだった。

「この部屋……狭いよな」

 と、中川が愚痴をこぼしたのはすでに三十分も前の事である。
 その台詞が今も宙に浮いたまま、SD聖くんの釣り下がっている辺りを漂っている。

(何が楽しくって、こんな貧乏臭い四畳半で男と顔つき合わせてなきゃなんねえんだ。坂井の爺め、早く帰ってこい)

(この連中、きっと香南の言ってたスパイなんだろうなあ。でも、だからって「あなたたちスパイでしょ?」ってアプローチも冴えないし……。坂井さんとやらが早く帰ってきてくれない事には、今更腰を上げて『味の屋』に逃げるってのも白々しいし)

(坂井さん、何をやってるんだろう。二十年もここに根を張ってる人が、まさか道に迷ってはいないだろうし……かと言ってパチンコ屋だの女を拾うだのとは縁のなさそうな人だし……それにしても連絡くらい入れてくれても……。真奈美ちゃんやアーマスも遅いなあ。せっかく夕飯頑張って作ったのに……)

 反応はバラバラだが、三人の考えている事はつまるところ、

(坂井さん、早く帰ってこないかなあ)

 ……だった。

 そして問題の坂井は、ミハイルも出かけてもぬけの殻になった広川のアパートの前で、なかなか帰ってこない部屋の主を待っていた。




Act4-9;震える牙
『パーティの夜以来、西崎は完全に行方をくらましています。家にも会社の方にも姿を見せていません。家族も同様で、自宅は現在無人状態です』

 警備部からのその報告を、神野麗子は忌々しく思い返していた。
 すでに西崎がプールしている裏金は凍結している。西崎の実家も、彼の妻の実家も抑え、逃げ道は完全に塞いだはずだった。
 それなのに……西崎の行方は杳として知れないのである。

(どこに逃げたって言うの……。逃げて、何をしようって言うの)

 すでに麗子は西崎の株を奪うための算段を練っていた。裏からかすめ取ろうとしている石岡とは、その方法はまったく別のものだった。
 株を入手するのは、あくまでも合法的な手段によってでなければならない。
 だが……肝心の西崎が消えてしまっては麗子の策略も動かしようがなかった。
 デスクのヴィジホンが鳴ったのはその時だった。

「本当に直通の電話だったんですね」

「浩二さん……?」

 麗子は思わずそう声を上げた。ヴィジホンのモニターに映し出されたのは、佐々木浩二の顔だったのだ。
 浩二にこの直通電話の番号を渡したのは麗子本人である。だが、まさか浩二が電話してくるなどとは思ってもみなかった。浩二の穏やかな微笑を見つめて、麗子はざらりと神経を撫でるような嫌な予感を感じはじめていた。

「お電話を頂けるとは思いませんでしたわ。……どういうご用件かしら? 以前私の話した事のお返事でしたら、電話ではなく、どこかでお会いして……」

「いえ……今日は別の用件でお電話したんです」

「別の?」

 麗子は鼻白んだ。
 モニターに映るその表情や声のトーンは、佐々木建設副社長室で会ったときとも、パーティで会ったときとも違うように思える。

「うちの石岡をご存知でしょう?」

「……」

 思いもかけない浩二の言葉に、麗子は言葉を詰まらせた。
 浩二が唇の片端をほんのわずかだが持ち上げたように思える。あの浩二が……麗子を勝ち誇ったような笑みを浮かべて真正面から見据えているのである。
 その表情が辰樹や義一のそれにひどく似ている事に気付いて、麗子は今さらのようにぎくりとさせられた。

「彼、派遣社員としてうちに来てたんですが、今日付けで契約が破棄される事になったんです。神野さんは彼といろいろおつき合いがあったようだから、一応お知らせしておこうと……。まあ、意味のない事かも知れませんが」

「石岡が……放逐? それが私にどういう関係があるって仰るのかしら」

 それが、麗子の精いっぱいの返答だった。

「うちの社の人事に興味がおありのようだったから、お知らせしたまでです。他意はありません。来月兄が社長に就任したら僕は退社する事になるでしょう。その時は電話でなく、直接ご挨拶に上がりますよ。それでは」

「待ちなさい!」

 その麗子の声は、ヒステリックなものになっていた。
 だが、すでに通話は途切れていた。

 浩二は通話を終えると秋山の用意したコーヒーのカップに手を伸ばした。
 その手が、震えている。

「僕にだって牙はある、か……。とんだ虚勢を張ったものだ」

 コーヒーの熱さが、舌に心地よかった。

「秋山さん、調べて欲しい事があるんです。石岡の言っていた……兄のスパイの坂井という男について……」

 浩二はそう言って秋山を振り返った。

「フルネームは坂井俊介です。二十年前まで社の警備部にいた男で、辰樹社長に雇われていた隠密社員のひとり……と記憶しています」

「そういえば、父が以前そんな話をしていたのを覚えている。その坂井という男の現在の住所と……最近の動きを調べてみて下さい。ちょっと確かめたい事があるんです」

「明日までには資料を揃えておきます」

「お願いします」

 浩二はそう言って、部屋を出ていく秋山の背中を見送った。
 神野麗子の所へ連絡する前に、浩二は洋上大学附属の博物館へ電話をしていた。先週水産試験場で会った杜沢のことを知りたかったからだ。

『杜沢は今月の初めから長期休暇を取っています』

 博物館の事務員らしい女性が書類をめくり、そう教えてくれた。
 浩二があの日以来抱き続けている思いは、義一がスパイを使っていると言う石岡の言葉によって確信に変わり、博物館の事務員の言葉がその確信を決定的なものにしてくれた。
 そして秋山の調査はきっとその確信を肯定してくれるはずだった。
 杜沢跡見は……坂井と共に義一に雇われているスパイなのだ……と。

 麗子のデスクのヴィジホンが再び鳴ったのは、浩二との通話を切ってから五分と経たないうちだった。今度は外線ではなく、受付からの内線通話だった。

「神野部長にお約束のお客様がお見えです。佐々木建設の石岡様と仰る方です。今、応接室は第二と第四が空いていますが、どちらにお通しすればよろしいですか?」

 ヴィジホンのモニターに、真奈美の営業スマイルが映し出される。
 広川書店の記者会見に引きずり出したときは頼りなさの目立つ娘だったが、受付の業務にもすっかり馴れているようだった。

「石岡が……?」

 麗子は唇を咬んだ。
 佐々木建設での工作に失敗して、石岡はおめおめとその姿を晒しにここまで来たと言うわけだ。
 浩二が不似合いな密告の電話をよこしたのも、石岡に対する麗子の制裁を期待したからに違いない。
 だが、今の麗子には石岡を振り返る余裕などなかった。
 所詮、負け犬は負け犬なのだ。放っておいたところで何ができるわけでもない。DGSが彼とのつながりをすべて絶つこと。それだけで石岡にとっては充分な制裁となるはずだ。

「あの……お約束じゃ、ないんですか?」

 返答のない麗子に、真奈美が困ったように眉を寄せた。

「予定が変わった。約束は取り消すと石岡に伝えなさい。……今後いっさい、連絡をする必要はないと。もしそれで帰らないようなら警備部に連絡してつまみ出しなさい」

 そう早口に命ずると一方的に通話を切った。

「申し訳ありません、お約束は取り消すということです」

 真奈美はヴィジホンの受話器を置くと石岡に視線を投げた。
 受付前のソファにぐったりと座り込んでいる石岡は、黄色に縦縞というふざけた服装が似つかわしくないほど憔悴しきった表情だった。

「取り消す……? じゃあ、いったいいつ会えるっていうんだ」

「それが、今後いっさい連絡をする必要はないと申しておりまして……」

「何だとっ! 彼女は社内にいるんだろう? どうして取り次がない。僕は神野さんにどうしても……」

 石岡に襟首を掴まれそうになって、真奈美はすばやく非常ボタンに指を伸ばした。
 そのボタンを押せば、待機中の警備員が即座に現れる事になっているのだ。だが、真奈美がボタンを押すよりも、なだれ込んできた警備員が石岡を押さえつけ、玄関ホールから引きずり出す方が早かった。

(……神野さんが?)

 真奈美は乱れた襟元を直しながら、荒い呼吸を整えようとため息をついた。
 受付のヴィジホンが鳴ったときには、もう石岡は裏口の方へ運ばれて真奈美のいる場所からは見えなくなっていた。

「はい、受付です」

 モニターに映し出されたのはチャン・リン・シャンだった。

「怪我はないわね? すぐに交代しなさい。今日はもう帰っていいわ」

「……はい」

 真奈美はチャンの言葉に頷いて受話器を置くと、さっき石岡が訪ねてきたときに、「佐々木建設、石岡」と書いたメモをパッドから破り取ってポケットに入れた。




Act4-10;女神の到着
 杜沢と広川と中川が、押し黙って見つめ会っている四畳半に、アーマスが加わっても、状況は劇的な変化を見せる事はなかった。いや、むしろ卓袱台を囲む面子に不機嫌な面もちのアーマスが加わった事で、気まずい雰囲気がさらにその重さを増したようでもある。

(あのくそ爺……帰ってきたらぶち殺してやる)

(どうなってんだよ、いったい……この味噌屋は。なんか、嫌な所に来ちゃったよなあ)

(坂井さん、まだ広川さんを探してるのかなあ。電話くらい、入れてくれればいいのに、マイペースな人なんだから)

(……ぱーっと盛り上がろうと思って来たのに、なんだよ、このどんよりと濁った空気は。ますます気分が黄昏てくるぜ)

 そして相変わらず、彼らの思いは、

(早く帰ってきてくれ……坂井さん)

 ……なのである。

「あれ……どうしたんです? 静かだからまだ誰もきてないのかと思いましたよ」

 そう言いながら、帰ってきた坂井は、四人の男が剣呑な面もちでにらみ合っている座敷に上がった。上がっただけで……卓袱台上空四十センチくらいの場所にとぐろを巻いている険悪な雰囲気がびりびりと伝わってくる。

「……なんか、悪い知らせでも?」

 その坂井に、四人分の、

「……」

 という圧迫感が向けられる。あまりの気まずさに平素穏やかな杜沢の眉間にまで皺が寄っている。
 じりっと一歩、坂井は後ずさった。

「逃げるな」

 すかさず坂井の足を掴んで逃亡を阻止したのは中川である。

「あ、……分かりました?(^^;)。 えー、なんか新顔がいますけど……どちらさんです?」

「YOUが今まで探しまくってた、「ジャーナリストの広川」だよ」

 アーマスの声も、険悪な響きだった。
 さすがの坂井も、この状況にたじろがずにはいられなかった。自分のいない間に、この「こうじや」で、いったい何があったのだろうと……色々「こわい想像」をしてしまう。

「……まだ、死人は出てませんよね?」

「かろうじてね」

「……(^^;)」

 半分は、その場を和ませるつもりで言ったのだが……どつぼにはまっただけだった。
 どうして真奈美が来るより先に帰ってきてしまったんだろう。こんな事なら、どっかでコーヒーの一杯でも飲んでから帰途につくんだった、と深く後悔しても、もう遅い。
 遅すぎるのである。

「だって私は……広川さんが帰ってくるのをずっと待って……。いや、ちょっと落ちつきましょうよ。あ、そうだ。白葉さんからもらったお酒、あるんです。ビールも買い置きがありますし、まずは一杯やって……ね? 広川さん、せっかく訪ねてきて下さったんだ。ともかくちょっと気分をほぐして、話はそれから……どうです?」

「三時間も野郎三人で面突き合わせて、この狭っ苦しい四畳半に無言で座ってんのがどれぐらい辛いか、試してみたくはないか? 俺の足はすっかり痺れてるぞ」

「中川さん……どうしてあなたはそう、物騒なものの言い方をするんでしょうね。なごやかに行きましょう、なごやかに。……杜沢さん、夕食を作ってくれたんでしょう? まだ真奈美くんが来ていないが、とりあえず食事にしましょう」

「……ええ。すっかり冷めきってますけど」

「……(^^;)」

(真奈美くん……頼む、早く来てくれ)

 坂井の救いの女神……3級宴会技能士(自称)はその頃、かもめ商店街の入り口に差し掛かったところだった。
 この気まずい雰囲気を粉砕するための最新兵器も携えてはいるのだが、「こうじや」に到着するまでには、すっかり顔なじみになった商店街のおばさんたちとの世間話というステップをクリアしなければならない。
 その……わずか五分ほどの時間が、坂井にとっては永遠とも思えるほど長く、そして苦痛なものだった。

「あーさんって、ホントにお料理上手だなあ。奈美、お弟子さんにしてもらって花嫁修行しようかな。広川さん、はい、コップ空いてますよ。どんどん飲んで下さいねっ! あ、社長さんはビールの方がいいんじゃないですか? ほらほら、アインシュタインもみんなにお酌して上げてね。こうやって、ビールはラベルを上にしてコップにつぐんだよ」

 真奈美って……スゴイ奴だ。
 という感想を、狭い四畳半にひしめき合った五人の男たちは誰しも抱かずにはいられなかった。
 真奈美が入ってきたとき、座敷には五人分の「気まずいオーラ」が店舗部分にまで溢れ出しそうな勢いで満ちていたと言うのに、その渦中に何も気付かなかったかのように平然と飛び込んできたのである。しかも右手に一升瓶、左手にアインシュタインという臨戦体勢で……。
 そして坂井の考えていた通り、真奈美とアインシュタインの乱入によって、狭い四畳半にむさ苦しい野郎ばかりがひしめいていたすさんだ雰囲気はものの五分と経たぬうちに一掃された。これで入ってきたのが真奈美でなく香南だったら……一触即発の状態にべたべたと節操なく触りまくって大暴発を引き起こしていたに違いない。

「じゃあ、広川さんは辰樹社長の事故以前から佐々木建設を調査していたんですか」

「まあ……最初のうちは、手抜き工事とかダンピングとかそっちの方面をね。でも調べていくうちに佐々木辰樹って男に興味を持って……」

「お前、ホモか?」

 杜沢と広川が真面目に話している横から、中川が茶々を入れる。取りあえずはそう言う段階まで、場の雰囲気が回復していた。

「いや……そうじゃなくて! 純粋にジャーナリストとしての好奇心ってやつだな。彼の宇宙進出の野望って記事になると思ったし……。で、その矢先にあの事故があって。臭いなあって思ったんだよ。佐々木義一とか西崎昌明とか、結構動きが妙だったから。……でもまさか、義一さんのスパイの方からも俺に声をかけてくるとは思わなかった」

「もともと……よせ集めの隠密チームですからね。人手は欲しいと思って。広川さんは色々と、独自の情報網を持っていらっしゃるようだし」

 熱燗に口をつけて、坂井が探るような視線を向けた。
 広川がどこから高槻のことを嗅ぎつけてきたのか、それが知りたかった。広川はこうして「こうじや」を訪れ、ある程度自分の手の内を坂井たちに晒してはいたが、香南のピースバッジの件はまだ何もしゃべっていなかった。
 高槻に辺りを付けたのも、坂井の存在を嗅ぎ付けたのもすべて「独自の情報網」という曖昧な表現でひとくくりにして言葉を濁していた。

「やっぴ――――っ!」

 表の扉をがらりと威勢良く開けて、香南が登場したのはすっかり宴もたけなわになったときだった。

「おつまみが来たみたいですね」

 そう言って、坂井が襖を開ける。
 だがその瞬間、視界に飛び込んできた香南の姿に思わず声を上げた。

「……どうしたんです。リオのカーニバルにでも行くんですか」

 その坂井の声に、全員の視線が土間の方へ向いた。

「……」

 呆れて言葉を失う野郎どもの脇で、ただひとり真奈美が歓声をあげた。

「きゃ――っ、香南ってば、そのシャツおにゅう? 可愛い!」

 どこが……と言いたいのを中川は必死でこらえる。
 香南の服装は、下はいつも通りの小汚いショートパンツなのだが、上は黄色の地にショッキングピンクの龍がのたくった派手なアロハシャツに変わっていたのだ。

「どこで売ってるっていうんだ……そんな悪趣味なシャツ」

 思わずそうこぼしたくもなる。

「えへへぇ。よっちゃんにお小遣いもらっちゃったんだ」

「彼氏とデートの約束でもして、舞い上がったのかと思った」

「……彼氏?」

 アーマスのその言葉に、中川が眉を寄せた。
 香南に彼氏……。
 あまりにも似合わない。しかしアーマスの訳知り顔を見ると……それはまんざら嘘ではなさそうなところがちょっとコワイかった。

 香南を迎えてさらに盛り上がりを見せた「こうじや」で、ひとり冷静だったのは広川庵人だった。香南が服を変えてもまだピースバッジをつけているのを確認し、ビールを口に運ぶ。
 畳の上に落ちているメモ用紙を見つけたのはその時だった。

『神野部長と面会の約束。佐々木建設企画三課課長石岡浩之』

 メモにはそう、丸っこい文字で書かれていた。
 それをそっとポケットに忍ばせる。

「……?」

 広川がポケットに何かを入れるのを、坂井が目撃していた。




Act4-11;貪欲な吐息
「……では、今後も引き続き西崎の調査を最優先とする。加えて、佐々木建設企画三課の、いや、もと企画三課の課長石岡浩之に対しても同様の措置を実行する。以上です」

 神野麗子の言葉で会議は締めくくられた。
 今後の方針を決定するために設けられた席だったが、相変わらず西崎の行方が分からないため、はっきりとした方針や対策を打ち出す事はできず、結局現在の状況を持続させることが確認されただけに終わった。

「麗子……あなたは残って頂戴」

 室内にいた者たちが腰を上げ、部署に戻ろうとしているのをぼんやりと見つめて、椎摩渚は傍らに立つ神野麗子に声をかけた。全員が会議室を出て行き、二人だけになると渚は手元のスイッチを操作して部屋の明かりを消し、窓のブラインドを下げる。

「思っていたより、順調に進んでいるわね。西崎が姿を隠している事が気がかりだけれど、パーティでの一件で、佐々木建設はマスコミの詮索の矢面に立たされているわ。あなたの可愛い彼が、もう少しお利口になってくれれば……佐々木建設はバイオスフィア計画から手を引かざるを得なくなるわ。佐々木浩二には、環境保護団体と戦うだけの力量はないでしょうからね。……あなたにもご褒美を上げようと思っているのよ、麗子。何がいいかしらね?」

 麗子の肩に指を這わせて、渚はわざとじらすように言った。

「ご褒美など……」

「金目のものには興味がない。……そういう顔ね? 欲がない事。……いえ、それとも貪欲なのかしら?」

 そう言いながら、麗子の肌に痕が残るほど強く爪を食い込ませる。
 麗子の赤い唇から、小さくあえぎが漏れた。
 彼女の首筋にそっと舌を這わせながら、渚は麗子の身につけていたネックレスを外す。

「渚さま……」

 麗子は、渚の行動に逆らおうとはしなかった。
 会議室のテーブルの上に顔を押しつけられ、後ろ手に捕まれた手首にネックレスの細いチェーンがぎりぎりと食い込んでも……彼女の顔に浮かんだ愉悦の表情は変わらない。むしろ渚の指の動きがその残忍さを増して行くたびに、麗子の表情は甘美なものになっていった。
 白いテーブルの天板を麗子の口紅が赤く汚す。

「あなたの手並みにはいつも感心させられるのよ、麗子。パーティで紹介したときにもあの坊やがぐずって手こずらせたらどうしようと思っていたんだけれど……ああも素直に壇上に上がってくれるなんて」

「ええ……。佐々木浩二は姪を溺愛しているので、そこをつついたら……呆気なく」

「……なんですって?」

 麗子の身体に覆いかぶさるようにして愛撫を加えていた渚の声が変わった。身体を離し、冷酷な視線を麗子に向ける。

「DGSの幹部ともあろう者が、年端もゆかぬ幼女をダシに脅迫をしたと言うの? 恥を知りなさい」

「……しかし、あの場合は。……渚さま」

 食い下がろうとした麗子の頬に、ぴしっと鋭い痛みが走った。
 渚の手にしていた扇が思いきり振り降ろされたのである。麗子の頬が切れ、血が流れる。そして渚の攻撃はその一撃にとどまらなかった。麗子の髪を掴み、床に引き倒す。ネックレスの鎖に両手の自由を奪われていた麗子の身体は決して強くない渚の力だけでよろけ、床に転がった。

「私はあなたを過大評価し過ぎていたのかしら? そんな手段をも使わなければあんな坊やひとり意のままにできないとはね……」

 麗子の視線が助けを求めるように渚を見上げた。
 だがそれを見ても渚は表情を変えず、彼女の手首に食い込んでいる鎖を容赦なく締め上げた。細い鎖が麗子の肌に食い込み、うっすらと血が滲み出す。
 渚の脳裏には……自らの意志とは無関係に利用され、陵辱された少女時代の暗い過去が蘇っていた。
 その記憶が渚を、残虐な衝動に駆り立てている。

「ひっ……」

 小さな悲鳴が麗子の唇から漏れた。
 苦痛をこらえる余り、彼女の表情は歪んでいる。その麗子の顔を見つめて……渚の顔に浮かんでいた残忍な印象は次第に薄らいでいった。

「あなたには期待しているのよ。……麗子。分かるでしょう?」

 床に倒れている麗子の顔の前に膝をつき、渚はその顔をそっと持ち上げた。頬から流れる血に舌を這わせてぬぐい取る。
 そして、そのまま彼女の首筋へ、はだけたスーツの胸元へと唇をずらしていった。

「はい……渚さま」

 麗子の震える声が答えた。
 渚の巧みな愛撫のもとから逃れることは、麗子にはできなかった。

 会議室を出たチャン・リン・シャンは、ベルリンの本社から呼ばれた三人の社員を出迎えるため、空港へと向かった。
 そのひとり……宇宙開発企画室のエヴァゼリン・フォン・ブラウンは、チャンがドイツの本社にいたときの友人でもあった。彼女はバイオスフィア計画をDGSに取り込むための軌道修正の要員として、企画室の移動に先行する形で来日したのだ。

「エヴァゼリンが白葉教授とぶつかり合うのは必至ってところかな……」

 チャンはそうため息をもらした。
 白葉教授を訪ねて公営住宅へ行ったのは、バイオスフィア計画とは無関係の用件のためだった。DGSでプロモートしているキャラクター商品、SD聖くんのスポンサーになる代償として、ASで農業工学科のCM枠を確保する……という商談をまとめるためだ。
 キャラクター商品の第二段として企画が進行しつつあるSD白葉教授についての打診、という目的もあった。
 だが、佐々木建設と同様マスコミの注視の的となっているDGSの社員との会見に、白葉がバイオスフィア計画の事を持ち出さないはずはなかった。

『DGSはバイオスフィア計画について、どういう心づもりでおられるのかな』

『難しい質問ですね。私も社内の情報を安易にもらす事はできませんが、ひとつだけ……DGSとしてもバイオスフィア計画を邪魔するつもりはないのだということは断言できます』

『そりゃあそうだろう。邪魔などしようものなら農工科は穀物市場を停止させてでも喧嘩する事になるからね』

 白葉の言葉は冗談めかしたものだったが、それが単なるハッタリでない事はチャンも知っていた。中南米と東南アジアの穀物輸入ルートを閉鎖して日本政府を脅し、日本市場からDGSを締め出す……白葉はそれを可能にする力を持っているのだ。

『うちは学部企業でもあるのでね。路頭に迷う訳には行かない。そして、研究は我々の命でもあるんだ。だから、DGSが我々の研究にどう言った形で絡むつもりなのか知りたいのだよ。……例えば現在バイオスフィア計画に携わっている佐々木建設のことも含めてね』

 チャンは、何を答えたわけでもなかった。
 上層部がバイオスフィア計画に並々ならぬ関心を抱いているのだと言う事。そして自分自身も、個人的に興味を持っているのだと言っただけだ。
 それはすでにマスコミの報道を通じて、白葉には分かりきっているはずの事だった。

『そうか……。君は、佐々木建設の次期社長についてはどう思うね?』

『佐々木浩二さんのことをですか?』

『次期社長候補の三人について、だよ』

『そうですね。どちらの息子さんも、いい後継者になり得る人材だと思います。もうひとりの……西崎さんと仰る方は、少しランクが落ちると思いますけど』

『……ああ、すまん。こういう話題は深く追求すると社内での君の立場を悪くするかもしれんな。佐々木建設については、佐々木建設に尋ねる事にしよう。いろいろ聞いて申し訳なかった。迷惑しただろうが許してくれたまえ。……キャラクターグッズの件については、バイオスフィア計画がどう動いても私はスポンサーとして出資するつもりでいる。DGSに出資するのではない。君を見込んで出資するんだよ。DGSに夢や情熱があるのかはまだ分からんが、少なくとも君にはある。私は君のような熱意に溢れた人が好きなんだよ。SD聖くんで群島を埋め尽くしたいという君の熱意が、私は気に入ったんだ。それに協力するという意味でなら、金を惜しむ事はしない。
 ……幾らかかるかは知らんが』

 白葉に君のいちばんやりたい事はなんだ、と聞かれて……以前チャンは、

「人工群島を私の作った聖くんグッズで埋め尽くしてみたい」

 と答えた事があった。そのチャンの言葉を、白葉は気に入っていたらしい。
 妙な見込まれ方をしたものだが、そのおかげで白葉の人となりをずいぶん理解したのも事実だった。
 エヴァゼリンが出て、DGSに都合のいいようにバイオスフィア計画を軌道修正する。
 その行為が、白葉の感情を刺激しないわけはない。
 これまでのつき合いの中で、チャンは白葉のそういう性格を知っていた。

(悪巧みが多くって、楽しいわ)

 すでにチャンの中では、白葉を懐柔するための作戦が半ば練り上げられていた。

 そして、諏訪操もバイオスフィア計画をDGSに取り込むための「悪巧み」を胸に淡々と仕事をこなしていた。
 麗子やチャンが表だった形で動いているのとは逆に、操の行動は水面下での操作に終始している。敵と一対一で渡り合うような、危険な橋を渡る行為は、決して操の好むところではない。
 彼女の策略は……もっと事務的なレベルの問題に向けられていた。
 例えば佐々木建設の下請け会社を佐々木建設と切り放すための工作、将来的に洋上大学と完全な提携事業を行うための重要学部への資金提供などがそれだった。
 作戦はまだ始まったばかりだが……すでに形のある結果は出始めている。
 広川書店による株買い占めのあとの株価暴落のような派手な成果ではなかったが、DGSがこの人工群島に根を降ろして行くために……必ず必要となるコネクションがすでに形成されつつある。




Act4-12;AREから来た男
「パソコン屋です」

 訪ねてきた男は、インターホンに向かって一言、そう言った。
 明快な答えである。少なくともこのゼロワンSTAFFを訪れてくる客の中では、他に類を見ないほどの実直な初対面の自己紹介だと言えた。
 だが、中川はその珍しく素直な客に、同じ素直さで対応できるほど余裕のある性格をしてはいなかった。近ごろ周囲の人間関係のせいか、富みに猜疑心が強くなっているせいもあるのかも知れない。

「……味噌屋?」

 二日酔いの頭痛がまだ少し残っているせいで不機嫌そうな口調で、中川は聞き返した。

「いえ……パソコン屋です」

 変わった対応だ……と思いながらも、野村明彦はもう一度言った。

「……なに、名刺屋ぁ?」

「違います。パソコン屋ですってば。パ・ソ・コ・ン」

「そうか……パソコン屋か」

「ええ。そうです。パソコンの訪問販売を……」

「すると、あれだな。イカの干したのとか、干涸らびたほたて貝柱とか売ってて、玄関先で踊り狂ったりする……」

「……自分は北海珍味売りじゃありませんよ」

「……」

 しばし沈黙があった。
 中川はアスピリンを口の中に放り込み、がりがりと奥歯で噛んで飲み込んだ。

「あの……? いらっしゃいますか?」

「ああ」

「ええと、自分、この近くに新しくパソコンショップを出したんです。それで、ご近所の方にご挨拶がてらカタログを見ていただこうかな……と。パソコン、お使いになっているでしょう? こちらの会社でも。ソフトもいろいろ置いているんで……いかがでしょうか?」

「おまえ……インド人じゃないだろうな? 俺は男のぬいぐるみを抱いて寝る趣味はないぞ」

「……はい?」

 野村は諦めて帰った方がいいのかも知れない、と思い始めていた。
 そもそもこの部屋のブザーを押した事が、取り返しのつかないまちがえだったような気がし始めている。

「やっぱりインド人だな」

「いえ……日本人ですけど」

「何しに来たんだ?」

「……だから、パソコンの訪問販売に」

「ああ、ちょっと待て」

 そこでようやく扉が開いた。
 気分が悪いせいで目つきのすこぶる悪い中川にひとにらみされて、多少後込みしながらも野村はカタログを差しだした。

「上がってく? 茶菓子ないけど」

「え、ええ(^^;)」

(大丈夫だろうな。上がっても……)

 不安を感じないでもないが、取りあえず野村は靴を脱いで部屋に上がった。
野村を案内するように奥の部屋に歩き出した中川が、はたと足を止めて彼を振り返ったのはその時だった。

「……な、なんですか?」

 そう尋ねながら、野村は二、三歩後ずさった。

「確認の為に聞いて置くが……中国人の知り合いはいないだろうな?」

「はあ?」

「純粋にパソコンのセールスに来たんだな、と聞いているんだ」

「……なんでそれで中国人だのインド人だの、味噌屋だの名刺屋だの北海珍味屋だのが出て来るんです」

「悪いな、ちょっと疲れてるんだ」

「そうみたいですね。眠れない夜はウィスキーかなんかちょこっと飲むといいですよ。身体が温まって、よく眠れますから。あ、それで……うちの店ですけど、「ARE」っていうんです。附属高校のすぐ隣なんですよ、今度、店の方にも来て下さい」

 そう言って野村は新装開店のチラシを中川に渡した。

「こちらの会社は、コンピューターは何お使いなんですか……?」

「ちょっと古い型なんだ。俺、コンピューターに弱くってさ。最近、ただで使えるプログラマー(注/もちろん、アーマスの事である)手に入れたから、もう少し何とかしようとは思ってるんだけど……いろいろ面倒でね。金もかかるし」

 中川は頭をかきながら言った。その中川の脇をすり抜けるようにして机の上のパソコンをのぞき込んで、野村は言葉を失った。机の上にちょこんと座った猿が、巧みなブラインドタッチでワープロを使っているところだったのだ。

「……こ、この猿ワープロ使ってますよ」

「あ? ああ。キーボードいじるの好きらしくって、しょっちゅういたずらしてんだよ。でもまぁあれだな、人間の赤ん坊もキーボード見ると興奮してばんばん叩くっていうから……それと同じ様なもんじゃないのかな。この猿……ぼけた面して結構頭いいらしいんだ。うちに出入りしてる女の子なんかね、天才だって騒いでるくらいだから、なんか芸のひとつもできるんじゃないのかな。俺にはそんなとこ、ちっとも見せないけど」

「……(^^;)」

 野村は再び言葉を失い、ひきつった愛想笑いを浮かべた。パソコンのモニターには、

『しゃちょうさん、ぼくもあーますやまなみちゃんのようにすぱいとしてかつやくしたいです。ぼくにもなにかしごとをさがしてください。どんなしごとでもがんばってやります。あーますやまなみちゃんにまけないよう、すぱいとしてしょうじんします。だから、おねがいします』

 という文字が打ち出されている。

(これ……ホントに猿が打ったんだろうか)

 猿がワープロを使うなんてのも信じられないことだったが、もっと信じられないのは中川の鈍感さだった。
 こんな天才猿を目の前にして、「俺には芸のひとつも見せない」なんてことを言っている。見せないんじゃなくて、あんた気付いてないだけでしょう、と言いたくもなったのだが、取りあえずうまく行けばコンピューター一式売りつけることのできそうな客だけに黙って愛想笑いに終始する。
 中川が今使っているパソコンは、大学を飛び出してこの会社を始めたばかりの頃に求人情報誌の編集部からお下がりをもらったもので……今となっては新しく発売されるソフトには、対応してるものなんて一本もないんじゃないかと思われるような旧式だった。

「……こんな骨董品、いまだに使ってる人がいるなんて思わなかった」

 すでにその野村の言葉は、呆れていると言うよりは感動に近いものだった。

「最新型一式全部揃えたら、どのくらいになるかな」

「そうですねえ」

 野村は上着のポケットから電卓を出して、計算を始めた。

「……こんな所でどうです? 開店セール中なんで、結構安くなってるんですよ」

「うーん、これくらいじゃダメ?」

 横から中川が手を出して電卓のキーを叩く。

「お客さん、そりゃあいくらなんでも……。そうですねえ。こちら、人材派遣屋さんでしょう? ここの社員の人たちを紹介してもらえるんでしたら……これくらいまでなら」

「うーん、そうだなあ。あ、ソフトも置いてるっていってたよなあ」

「在庫常時千本」

「……アダルトある?」

「……(^^;)。ええ、まあ」

「おまけにきわどいとこ一本つけてよ。うちの娘たちにもあんたの店に行くように勧めるからさ」

 その中川の言葉で、商談は成立した。
 かくしてゼロワンSTAFFには、最新型コンピューターが導入される事となった。しかし、コンピューター音痴の中川がその出資をスパイとしての仕事に生かせるようになる頃には……佐々木建設の新社長就任パーティは終わってしまっているに違いない。

 社長就任パーティは7月19日に予定されていた。
 従って『佐々木ファイブ(仮)』による『佐々木義一を社長さんにしちゃおう作戦(仮)』のタイムリミットもその日までだった。




第4話(後編)に続く->
第4話(前編)に戻る->
お家安泰、スパイは賃貸の目次に戻る->
revival-GL1 Contents.に戻る->
江古田GLGの玄関口に戻る->

(c)1992上原尚子.